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神の家へようこそ!

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詩編・聖書日課・特祷

2024年5月26日(日)の詩編・聖書日課
 旧 約 出エジプト記3章1〜6節
 詩 編 93編
 使徒書 ローマの信徒への手紙8章12〜17節
 福音書 ヨハネによる福音書3章1〜16節
特祷(三位一体主日・聖霊降臨後第1主日)
永遠にいます全能の神よ、あなたは僕らに恵みを与え、まことの信仰をもって、栄光ある三位一体の神をあがめることができるようにしてくださいました。どうかこの信仰に堅く立って生き、すべての災いに打ち勝つことができますように、父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 どうも皆さん、「いつくしみ!」
 (明治村、お疲れさまでした。今回の婦人親睦会は、岐阜聖パウロ教会が担当だったということで、皆さん、いろいろと大変だったかと思いますけれども、たくさんの方々が参加されて、とても良い一日になりましたね。僕も、非常に貴重な体験をさせていただけたので、太郎先生や岐阜聖パウロ教会の皆さんには本当に感謝しております。ぜひともまた、聖ヨハネ教会堂で礼拝をおささげできたら良いなと思っております。)

 さて、本日は「三位一体(さんいいったい)主日」と呼ばれる日曜日を迎えております。「三位一体(さんいいったい)」……。日本聖公会の祈祷書におきましては、(教会生活の長い方々は、皆さん、よくご存知のことと思いますけれども)、一般的な読み方である「さんみいったい」ではなく、「さんいいったい」というルビが振られております。なので、一応今回は、そのルビに従って「さんいいったい主日」と読んでおこうと思いますけれども……、まぁ、どうなんでしょうね。「 “い” が正しいんだ!」と言ってみたり、「いやいや、 “い” じゃなくて “み” が正しいんだ!」と言ってみたり……ね。「 “い” が “み” なんだ!」「 “い” が “み” で合ってるんだ!」と、そんな風に「いがみ」合っててもしょうがないと思うんですが、この議論は果たしていつ決着がつくのでしょうか。

「三位一体」を頭で考え、心で感じる

 というわけで、今回は、この「三位一体」に関してお話してまいりたいと思います。「三位一体」というのは、キリスト教の「神」を表す言葉です。キリスト教の「神」は、「三位一体」の神と説明されます。父・子・聖霊という、3つの“位格(ペルソナ)”として存在する唯一の神……、3つが1つで、1つが3つ……、なんだかよく分かんない感じですけれども、とりあえずそれが、キリスト教の神理解とされている「三位一体」なのですね。
 普段、聖公会の聖餐式で唱えられている「ニケヤ信経」(祈祷書167頁。正確には「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」と言う)という信仰告白文がありますけれども、これが、我々にとって最も身近な「三位一体」の解説文であると言うことができます。ですので、もし、キリスト教のことをあんまり知らない方から、「『三位一体』ってどういうことですか?」と問われたとしたならば、「まずは、この『ニケヤ信経』を読んでみてください」と答えたら良いということになります。
 でも、この「三位一体」という考え方は、実は、『ニケヤ信経』を読むなどして「頭」で理解するだけではなくて、「心」で悟るべきものなのではないか、と僕は思うのですね。三位一体……、それは第一には、「神」という存在について説明する言葉であるわけですけれども、しかしそれと同時に、その「三位一体の神」を信じる“我々人間の側にとってどういう意味があるのか”ということを、頭で考え、そして心で感じることが大切なのではないかと思うわけです。

神の家は尊い

 その助けになるのが、本日の聖書テクストとして選ばれていた(詩編93編を含む)4つの箇所であると言えます。今回の聖書日課は、素晴らしいですね。旧約、詩編、使徒書、そして福音書、これら4つのテクスト全てが、見事に響き合っていると僕は感じました。なので、今回は、それぞれちょっとずつですけれども、4つのテクスト全部に触れながら、「三位一体」という概念の、いわば“現実的意義”について、お話させていただきたいと思います。
 最初に結論を述べるとするならば……、今日の詩編の箇所、93編の5節の言葉に、今回のお話は帰結すると言えます。「あなたの言葉は変わることなく‖ あなたの家は尊い。主よ、とこしえに」(93:5)。神の言葉は変わることなく、神の家は尊い――ということですが、この中の「あなたの家(神の家)」という言葉がキーワードとなります。神が“家長”として、つまり、家族を保護する責任のある者として住まわれる場所、それが「神の家」であると言えます。では、そのような「家」に「神」と一緒に住む「家族」とは一体、誰なのか……。
 さて、古代世界においては、家長というのは基本的に「父親」が担ってきました。「父権制」「家父長制」という社会秩序に基づいて、父親を長とする血縁集団が集まることで社会が構成されていたわけですけれども、その中で、「神(神々)」もまた、その「社会」という大きな家を治める、いわば「父親の中の父親」としてのキャラクターを持っていたわけです。もちろん、聖書の神(イスラエルの神)も、やはり例に漏れず、「父親の中の父親」、古代イスラエル社会における“圧倒的な権威者”として信じられていました。

神が父として描かれている箇所 … 申32:6、イザ63:16(2回)、64:7、エレ3:4、3:19、31:9、マラ1:6、2:10、サム下7:14、代上17:13、22:10、28:6、詩68:6、89:27。なお、出エ4:22-23、申1:31、8:5、14:1、詩103:13、エレ3:22、31:20、ホセ11:1-4、マラ3:17も参照。

神の顔を見たら死んでしまう?

 ここで、本日の旧約テクストである出エジプト記の箇所をご覧いただきたいのですけれども、その最後の部分である6節に、こんなことが書かれています。「モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。」(出エ3:6)
 神を見ることをモーセが恐れたのは何故か。それは、「神をその目で見ると、その人は死んでしまう」と信じられていたからなのですね。古代の王や、そのほかの支配的地位にある者の顔というのは、庶民が易易と拝んで良いものではない――という、そのような社会常識が関係しているものと思われるわけですけれども、ただの人間ごときが、神の“ご尊顔”を見ることなど、決してあってはならない!ということから、「もし神のことを見たならば、その人は生きてはいられない(死あるのみ)」と、考えられていたわけです。
 しかし、今回、このお話を準備する中で、僕は一つ、面白いことに気がついてしまいました。それは何かと言いますと……、旧約聖書の中には確かに、「人間は神を見て、なお生きていることはできない」(出エ33:20他)というように書かれてはいるのですが、その一方で、「神を見てしまったせいで死ぬことになった」という話は、実はどこにも書かれていないということなのですね。「神を見て死んでしまった」人は、聖書の物語の中には一切出てこないのです。それどころか、逆にたとえば、今回の旧約テクストの主人公であるモーセ(申34:10)もそうですし、あるいは、イスラエルの長老たち(出エ24:11)という人々もそうなのですけれども、そのような人たちに関しては、なんと、「神の姿を見たけれども死ななかった」とすら記されているのですね。
 神を見たから死んでしまった、という話が出てこないどころか、神を見たけれども死ななかった人たちの話ばかりが書かれている(創32:31、士13:22-23、預言者たちも)。この事実は、古代イスラエル社会における、神に対する認識の変化を表しているのではないかと僕は思うのですね。神のことを、“アンタッチャブルな存在”(触れてはならない存在)として崇拝していたイスラエルの中で、何かが変わりつつある兆しを、ここから感じ取ることができるわけです。そうして遂に、新約聖書の時代を迎えて、キリスト教が登場し、「愛情あふれる父なる神」、「この世を徹底的に愛し抜かれる愛情深い父親なる神」という“大胆な神理解”を、人々に宣べ伝えるようになっていったということなのですね。

イエスは神の“独り子”である

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 これは、今回の福音書テクストである、ヨハネによる福音書3章16節の言葉ですね。キリスト教の信仰を一言で言い表したような内容であることから、「聖書全体の要約」とか、「ゴールデン・テクスト」などというようにも呼ばれています。

僕が愛用しているこのTシャツの「0316」は多分ヨハネ福音書3章16節のこと

 実は、「イエスは神の“独り子”である」という記述は、聖書の中にほとんど出てこないのですよね。このヨハネによる福音書に4回(1:14、18、3:16、18)と、ヨハネの第一の手紙に1回(4:9)出てくるだけなのです。つまり、「イエスは神の“独り子”である」というのは、ヨハネのグループ特有の信仰だったということなのですね。
 それ以外のキリスト者たちは、「イエスは“神の子”である」と考えていました。「神の子」と「神の独り子」……、この二つは、似て非なるものです。「神の独り子」と言ったほうが、「一人息子であるイエスを死に引き渡さねばならなかった」、その神ご自身の“覚悟”を感じられるように思うのですよね。まさに、「独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と書かれていましたように、この世に対する神の愛情の深さというものを、「神の独り子」という表現は物語っていると言えるわけです。

神の“子”であるイエスと共に

 一方で、「イエスは“神の子”である」という表現は、(これ、今回のお話の中で最も重要なポイントなのですが)「神の子どもは一人ではない(一人とは限らない)」というニュアンスを含んでいるのです。今日の使徒書のテクストであるロマ書8章の箇所で、パウロはこんな風に語っていました。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。[……]神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。」(14〜17節)
 我々クリスチャンは、普段、あんまりイエス以外のことを「神の子」と呼ばないっていう、そういう習慣が(何故か!)あるのですけれども、でも実際にはこのように、新約聖書にははっきりと、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」と書かれてあるのですよね。
 イエスは「神の子」であると同時に、イエスは、数多くいる神の子どもたちの“長子”(一番上のお兄ちゃん!)でもある。ロマ書の著者であるパウロに言わせてみれば、我々人間は、神の霊(すなわち聖霊)によって、イエスと同じ「神の子ども」、またイエスの兄弟姉妹として、神の家族に迎え入れてもらえる――というのですね。父である神は、我々人間のことを“実の子ども”として受け入れ、ひとつ屋根の下に共に生きる家族、運命共同体として保護してくださるのだと、そのようにパウロは考えたわけです。
 今日のテーマは「三位一体」でしたけれども、「三位一体の神」という教義に関して考えるときに、我々にとってはどうしても、それを自分事として理解するのが難しくて、そこにはやはり、“信仰の対象”である三位一体の神と、“信仰者”である我々人間との間に、大きな隔たりというものを感じてしまいがちであるように思います。けれども、いま読んでいるこのロマ書の箇所において、パウロは、「父」「子」「聖霊」という関係性の中に、我々人間も招かれているのだと語っているのですね。
 もちろん、それはけっして、「父・子・聖霊・人間」というような、三位一体ならぬ「四位一体(?)」みたいなことを言っているのではなくて、人間は、「聖霊」の導きにより、「子」なるイエスと共に、「父」である神の子どもとして認められ、そうしてまるで血縁関係、親子関係のように深い関係を神との間に結ぶことができるということなのですね。「神の顔を見たら生きてはいられない」と言われていたユダヤ教時代の神認識とは打って変わって、家庭的で穏やかな、愛情深い神の存在を、我々キリスト教は、「父」「子」「聖霊」の“みつにいまして ひとつなる神”に見出したはずなのです。ですから、三位一体の神の召しを受けて、人間は神の子どもとされる――。そのような「三位一体」の理解を、今日、この「三位一体主日」の日にあらためて心に受け留め、励まされる者でありたいと思うわけです。

おわりに

「あなたの言葉は変わることなく‖ あなたの家は尊い。主よ、とこしえに」(詩93:5) 尊い神の家に家族として一緒に住むことが許されるのは、一体どんな人か。それは決して、特別な人や、信仰の厚い者、神に対して罪を犯さない完ぺきな人たちだけということではなく、ヨハネ福音書のゴールデンテクスト、「神は、その独り子をお与えになったほどに、“世”を愛された」と言われていたように、神と対極の位置にある「(誤り多き)この世」……、この世に生きるすべての者が、この上ない神の愛によって、家族として招かれているのだと、そう考えるべきだと思うのですね。
 ただし、家族というのは、運命共同体ではありますけれども、しかしそうは言ってもやはり、互いに異なる人格を持つ者同士が集まって生きているだけの緩やかなコミュニティでもあります。だから、喧嘩も起こるし、口を利かないことだってある。それが「家族」というものだと思います。「神の家族」も、そういうものではないかと僕は思うのですね。一人としておんなじ人はいない。でも、“家長”としての神(親としての神)が、責任をもって、我々、いろんなことですぐ“きょうだい喧嘩”を始めてしまいそうな僕らのことを守ってくれるものではないかと、そのように想像するわけです。

 良いものも良くないものも含めて、正しいものも正しくないものも含めて、大いなる包容力をもってこの世を愛し続けてくださる、そんな「家長(親)」としての神に信頼して、この「世」に生きる僕らもまた、神の子どもである者同士、あらゆる問題や障害を乗り越えて、大切にし合う、尊重し合う……、そんな兄弟姉妹を目指していければと願っています。「あなたの言葉は変わることなく‖ あなたの家は尊い。主よ、とこしえに」(詩93:5)

 ……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。

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