「自分の問を持て、好きなことをやれ」という呪い
気が付けばもう学部の4年秋学期になっており、修士以降を除けば最高学年になってしまった。
ゼミや新歓、オープンキャンパスなど様々な場所で代表をやっていた結果として、全て引退した後でも様々な質問を受けることがある。
特に最近顕著なのは
という相談である。
そこで、「何で問を持ちたいの?なんで好きな事が欲しいの?」と聞くと、
という、他人に押し付けられたような価値観が返ってくる。
かく言う僕も、昔は完全にこのようなタイプで、今は30%程度はこの呪いから抜け出せたが、まだ7割程沈んでいる気がする。
このような思考に陥るのは僕にとって、とても自然な事のように見える。大きく分けてその原因は2つある。
① 問を持つことが評価されない世界で長年暮らしてきた。
② そもそも問を持てるだけの知識を持っていない。
そもそも、今の日本の学校教育は問を持つことを全く評価しない。小学校から大学の学部までは基本的にスキルベース (ある問題を解ける/何かができる)ということで殆ど人を評価する。
そのため、多くの人がそもそも問を持つ暇があったら評価されることか享楽的なことに逃げ込む。
そのような状態が長く続くと、当然あまり知識を入手しないようになる。今この世界で何が問題だと言われているか、自分の周りにはどのような問題が広がっているか。そんなことは知識がないと全く分からない。
そこで僕はこのようなメッセージをよく伝える
これを述べると、だいたい渋い顔をされる。面倒くさそうだからだ。だが、このような活動無くして問なんてものが見つかるはずがない。
この活動すらもできないのであれば、問を見つけるのを諦め、他にハマっていることに時間を割いたほうが良いと思うのは僕だけだろうか。それが呪いだということにそろそろ気がついたほうが良いように思う。