
無知を恐れるな。偽りの知識こそ恐れよ。
「無知を恐れるな。偽りの知識こそ恐れよ。」
フランスの哲学者 パスカルの格言です。
「蟹は甲羅に似せて穴を掘る。」
人と接する際、必ず意識しております。
人それぞれ、「甲羅」の大きさが違います。
その大きさの違いは、「知識」からくるものであると確信しております。
「知識」に比例して、「甲羅」が大きくなると考えて良いとも思っております。
しかし、当然ながら、例外が存在します。
「知識」がありながらも、「甲羅」の小さい人を見かけることもあります。
いわゆる「頭でっかち」なのかもしれません。
もしかしたら、「偽りの知識」が、「甲羅」を小さくさせているのかもしれません。
いずれにしても、自分の「甲羅」を大きくするためには、「知識」が必要であると考えます。
では、どのように「知識」を増やして行くのか。
「甲羅」の大きい人には、共通点があるような気がしておりますが。。。
インターネットの恩恵により、簡単に情報を得ることができるようになった。
真偽は別として、沢山の情報が溢れており、簡単に引き出すことができる。
情報が溢れているが故、どの情報を信じて良いのかがわからなくなる。
「間違った情報なのかもしれない」という疑いの目で、情報に触れたりしていることもある。
一つの事象を色々な捉え方ができることもあり、人によっては、違ったことを発信している事象も多々ある。
それらを「解釈の違い」という表現で片付けて良いのかはわかりかねる。
発信している情報に信ぴょう性を与えている一つのものさしは、「誰が発信しているのか」なのかもしれない。
よって、誰もが信用しそうな「肩書」、「経歴」などを用いて、情報に信ぴょう性を持たせようとする。
メディアなどで、何かの裁判の話題が出たとき、必ず2人の弁護士が登場する。
「有罪」と考える弁護士。
「無罪」と考える弁護士。
弁護士という立場が同じである故に、どちらも信ぴょう性には問題ないような気がする。
「この場合、どちらの弁護士の考えが正しいと考えるべきなのだろうか。」
と考えたとき、「判決が出たらわかるでしょう。」と考えるようにしている。
どちらの考えも、「偽りの知識」になり得ると考えている。
自分に関係あるなしの問題ではなく、世の中、特に注視する必要のない情報に振り回されている気がしてならない。
情報が多いことにより、偽り情報に触れる確率も上がっているのだと思う。
「情報の真偽は、誰がどのように決めるのだろう。」
その問いの答えは、偽りの知識から得ることはできないと確信している。
この名言により、情報過多の時代だからこそ、気を付けなければいけないことに気付かされた気がしている。