24/10/02 📚『新潟のトリセツ』~工場の祭典に向けて②~
本書の概要
①大河津分水
越後平野は、日本海へと流れ込む信濃川、阿賀野川の2大河川によって、上流から運ばれてきた土砂が堆積してできた低湿地帯である。現在は広大な農地、居住地として利用されているが、これまでに幾度となく洪水の被害にあってきた。川の氾濫被害は土地をダメにするだけではなく、溜まった水が腐り、コレラやチフスといった伝染病につながり、被害は大きいものであった。
洪水を防ぎ、人々が暮らせる土地を作り出すための開発は、江戸時代(1730、享保15年)に始まった。阿賀野川の分離工事が行われるが、洪水により開発は難航する。現在の大河津分水路が完成するまでに、200年もの年月がかかっている。1922(大正11)年に、大河津分水路が完成した。
大河津分水路によって、信濃川の氾濫が激減し、豊かな収穫を迎えることができるようになった。
②燕三条地域の金属加工産業のきっかけ
信濃川流域では平安時代から水害に悩まされ、溜まった水が引かないことから農家が困窮することが多かった。そこで寛永年間(1624~1645年)に、大谷清兵衛が江戸から鍛冶職人を招き、農家の副業として和釘製造を奨励した。燕三条は古来から鍬や鎌などを製造してきたため、こうした基盤を踏まえたと考えられる。
元禄年間(1688~1704年)になると、弥彦山で間瀬銅山の採掘が始まった。そこで、仙台や会津から鍛冶職人を呼び、銅加工の技術がもたらされた。また、燕三条の南西に位置する南西に位置する「出雲崎」には、江戸時代には佐渡島から金・銀が、中国地方から鉄が運び込まれていたため、それらを燕三条で加工し、江戸で運ぶしくみが作られた。
燕三条発展の背景には、旧下田地区の存在もあった(2005年 5月1日 に三条市、南蒲原郡 栄町 及び下田村が合併して、三条市が発足。)下田は当時の金属加工に欠かせない木炭の一大産地であり、五十嵐川を使って燕三条へ運び込まれた。
明治以降、和釘の需要が減少したことをきっかけに、三条は大工工具や打刃物に、燕は金属洋食器に注力するようになった。
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