
愛とはなにか ──あるいは祈りについて
寄り道をすること
愛とはなにか?
この壮大な問いに対して、私は、愛とは人生に意味を与えてくれる寄り道なのだと答えたい。
そして、愛することとは、寄り道に意味を、つまり物語を吹き込むことなのだと。
それでは、愛はどこからの寄り道なのか。
それは真っ直ぐな人生からの寄り道である。
では、真っ直ぐな人生とは何か。合理的で、経済的で、無駄がない人生である。
いい学校に行くために勉強をし、いい企業に入るために就活を頑張り、いい給料を得るために、出世あるいは転職に勤しむ(目的と手段の連関)。
それ自体は悪いことではない。むしろ必要な場合が多い。生きるために。
だが、真っ直ぐな人生は、まさに真っ直ぐに、最短距離で死へと向かうことでもある。生きることを目的とする活動(自己保存)は、あなた自身の人生を固有のものにはしてくれない。なぜなら、今日を生き、明日を生き、生命を持続させることは、私にも、あなたにも、どこの誰にとっても共通の課題だからだ。そこに固有性や意味は宿らない。あなたの人生を生きたことにはならない。
ではどうするか。寄り道をするしかない。
人生を色んな方向に捻じ曲げて、あなたの固有の形につくりあげるしかない。
ここで重要なのは、その寄り道があなたの人生にとって意味のあるものになるかどうかは、後から振り返ってみて、遡行的にしか分からないということである。
真理は必ず遅れてやってくる。どういうことか。
かつて真理とは、私たちの外側に存在する絶対的なものだった。具体的には、神や形而上学だ。この世界のどこかに真理が存在するものと考え、私たちはそこへ辿り着こうと頑張っていた。そこで愛とはエロスでありアガペーであり、神的な美との合一を計ることであり、あるいは自己を放棄することであった。だが近代以降、どうやらそれらは虚構であるらしいと判明した。
というわけで現在、真理は科学が担っている。科学とは、検証可能であり、実験等によって再現が可能なものである。つまり、誰にとっても同じ結果になる、ということを目指す営みであるため、それはやはり、"私の"人生を固有なものにしてくれない。
そのため私たちは、個人の歴史において真理が産み出される瞬間を捕まえるしかない。
ここでいう真理とは、誰にとっても正しいものではない。それは私にとって、私の人生にとって固有性や意味を与えてくれるものだ。それは私にとっての絶対的なものであり、私の人生を変える(捻じ曲げる)ものだ。
その、真理が現れる瞬間を私は愛と呼んでいる。
そして、その瞬間は、ある人との出会いにおいて、あるいは本や映画や、芸術において起こるのかもしれない。だが、とにかくそれらは、真っ直ぐな人生を送るためには役に立たないものでなければならない。
ある人から見れば、無駄なものでしかない。そのようなものでしか、私の人生は輝かない。
したがって、最初はそれらとの出会いは、無用なものとして映る。
例えば、私が昔ある人と出会い、その人の自由さに触れ、影響を受けて今の生き方を選んだと考えたとする。それは愛であり、私の人生を捻じ曲げ、意味付けていると考える。だが、出会った当初の私は、単にその人が美人だからとか、なんとなく雰囲気で好きになったのかもしれない。というか、そちらの方が正しい。後から振り返って、今の私が物語にしているのだ。それは当時の自分から見ればフィクションなのかもしれない。だが、今の私からすれば、どうしようもなく真理だ。(容姿や性格の特徴、要はショート髪が好きとか文系な人が好きとか、そんな要素は交換可能なものであり、そのため、その人が私にとって固有性を持って現れたのは、私の歴史のなかで物語として大きな意味を持って語られたときなのである)。
真理は必ず遅れてやってくる。それは私たちが、私たちの歴史における「真理が産み出される瞬間」を物語にしなければならないからである。そして、その物語化には時間がかかる。寄り道をしなければならない。そして、しばらく経ってみないと寄り道の本当の意味は分からない。なぜならその道は、万人に対して意味のある道ではないからである(そのため、失敗することは多い。というか、失敗することの方が多い。私はよく失敗している)。
そして、この物語化の作業こそ、ある種の文学や哲学や芸術が行ってきたことなのではないだろうか。生きるためには役に立たないが、だからこそ逆説的に、私の人生にとって意味のあるものとなる。
そこには愛がある。単純で、真っ直ぐな人生から人を逸れさせる力がある。
あるいは、それが意味のあるもの、つまり物語になってほしいという祈りがある。
そう、愛すること、それは祈ることなのである。
舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』
さて、私はなぜ、こんな自己啓発めいたことを長々と書いているのか。
それは、博士論文を提出後、俗世で迷子になり、自分を見失いかけたからである。
変に焦ったり、なんか悩んだり、婚活にまつわる本を読んだり(前回の記事を参照)。いやいや、せっかく10年も哲学の修行をしたのだから、堂々と構えて、自分らしく、自分が信じる愛を貫こうじゃないか、ということで、上記の思索が行われたのだ。まぁ、荒削りだがひとまずはよかろう。
色々と難しいことを考えているようだが、要は、愛とは非合理的なものをあえて引き受けることだと言いたいのだ。誰かに心の底から幸せになってほしい。そういう願いは真っ直ぐな人生からは生まれてこない。寄り道をしないとね。そういうことが言いたいんだと思う。
そして最後に無理やり、愛すること、それは祈ることであると結んでいるのは、もともと今回は舞城王太郎の『好き好き大好き超愛してる。』(2004年)という本を紹介するつもりだったからだ。シームレスにつながるように、結論ありきで考えた。

舞城氏は、作品のクセが非常に強く、人を選ぶ作家だ。彼の著作のなかでも、この本は最もマイルドな部類の作品だが、それでもかなりブッ飛んでいる。なお芥川賞の選考では、故・石原慎太郎氏が「タイトルだけでうんざり」と言っている。だけど、もし舞城氏が覆面作家でなければ、芥川賞くらい余裕で取っていたと思う(ノミネートは確か4回)。それくらいの天才だ。(逆に、彼の『阿修羅ガール』に三島由紀夫賞を授与したのは英断だ。あんなメチャクチャな作品に純文学の雄の名前を冠した賞を与えるとは。選考委員の筒井康隆がゴリ押ししたとの噂。これも大好きな作品)。
『好き好き大好き超愛してる。』は、私の大のお気に入りの作品であり、何度か読み直している。今回は、原点に立ち返って、この本を読みながら愛について考えようと思ったのだが、自己流で色々と考えてしまった。だが、愛は祈りというテーマはこの本から来ている。
愛は祈りだ。僕は祈る。僕の好きな人たちに皆そろって幸せになってほしい。それぞれの願いを叶えてほしい。温かい場所で、あるいは涼しい場所で、とにかく心地よい場所で、それぞれの好きな人たちに囲まれて楽しく暮らしてほしい。最大の幸福が空から皆に降り注ぐといい。
素晴らしい書き出しである。この後、「僕は世界中の全ての人が好きだ」と話がどんどん大きくなってしまうのだが(笑)
いずれにせよ、この小説は、愛=祈りであり、なおかつ祈り=物語であるというところから出発して、私たちが物語ること(そして小説を書くこと)とはどういうことか、そしてなぜ、私たちは物語を必要とするのかを考えている(のだと思う)。小説についての小説、メタ小説と言えるかもしれない。
人はいろいろな理由で物語を書く。いろいろなことがあって、いろいろなことを祈る。そして時に小説という形で祈る。この祈りこそが奇跡を起こし、過去について希望を煌めかせる。ひょっとしたら、その願いを実現させることだってできる。物語や小説の中でなら。
小説の構成としては、小説家の主人公(治)と恋人の柿緒の物語が主軸になっており、その間に三本の短編が挟まっている。柿緒は不治の病で亡くなっており、三本の短編もそれぞれ恋人の死を連想させるものになっている。恋人の体にASMAという謎の虫が寄生し蝕む話(智依子)、壊れた夢を修理しながら夢のなかの少女に恋する話(佐々木妙子)、イヴとろっ骨融合して神と闘う話(ニオモ)。明言されていないが、これらの短編は主人公の書いた小説内小説とも取れる。恋人の死を物語にすることについて、作中で主人公は何度も非難を浴びている。
それほど長い小説でもないので、あとは読んでほしいのだが、柿緒の闘病を描いたラストパートの「柿緒Ⅲ」がとても素敵なので二点だけ紹介させてほしい。
恋人の死を物語にすること
まず、恋人の死を物語にするということについて。この点は、この本が刊行された当時流行っていた、セカチューなどの恋人病死系ドラマに対するアンチテーゼだといわれている。舞城は、恋人の死を物語にするということは、そもそもどういうことなのかを真剣に考えるのだ。
一方で主人公は、柿ノ樹という名前の人物と二人の兄弟が殺し合う話を小説として書いており、そのせいで柿緒の実の弟二人から絶交されている。実際には柿緒の名前を使っただけで登場人物は似てないし、話も架空のものであり彼らとは全く関係ないらしいが、まぁ不謹慎ではある。
「大体病院のベッドの脇であんたずっと仕事してたもんな。小説書いてよう。あんたもあの病室にいはしたけど、結局姉貴の病気からは逃けて小説の世界に逃避してたんじゃないの?俺らと一緒じゃんそしたら。それとも逃げたんじゃなくてやっぱり姉貴から小説のネタもらって書きやすかった?そう言えばあんたの小説、女の子死んでばっかだもんな。何回姉貴殺しゃ気が済むんだよ」
主人公はこの発言に怒りで震えながらも、考えてしまう。
でも僕はそんなふうに苦しむ柿緒を小説のネタとして見てたんだろうか?
柿緒の病室にいる僕に、この経験は結構いい小説の題材になるなあという気持ちがなかっただろうか?
僕は思い出す。
「ごめんね治」と柿緒は言った。 もういろいろがどうしようもなくなってからさらに時間が経って、柿緒や柿緒の家族の動揺がゆっくりと落ち着きを見せ始めてからだった。とっくに落ち着いて大体のことを受け入れたと思っていた僕が何かの拍子に泣いてしまったときだった。
ここからの主人公と柿緒のやりとりも素敵なのだが、それは是非読んでほしい。主人公は柿緒のことが好きで好きで仕方ないのだ。
いずれにせよ、闘病する柿緒の強さや、その時の出来事を主人公は書き残したいと思った。
ここで見た<死>の在り方についての確かな感触は小説に書き写しておきたい。ああいうふうに一旦は自分を覆い尽くそうとした死を退ける力強い瞬間。言葉だけと知りながらも百年後も自分達が一緒の姿を思い浮かべてみたこと。そういうことは書き残しておくべきだと思ったのだ。
少し長いけど、次の部分もよい。
僕は柿緒の死をいろんな形で書いている。 いろんな部分に、いろんな要素に分けて書いている。でもそれ自体を書きたいからそうするのではなくて、そうすることで柿緒の死とは全く関係ない別の僕の思いや気持ちを語ろうとしているのだ。
柿緒の死は、ある意味ではその道具になってしまっているとも言える。 でもそれは、柿緒の死を利用しているということではなくて、柿緒が辛くて苦しんで死にたくないと思いながら死んでいったこととその悲しみと悔しさを僕が僕の身に起こった僕の人生の要素として受け入れたということで、いまだに悲しく悔しいけれども、それは起こったこととして僕の日常として組み込まれてしまっているということなのだ。
人の人生の中に<死>はある。<恋人の死>だって起こりうる。誰にでもだ。でもそれを書くとき、それがいかに悲しく悔しいかなんてことは僕には興味がなくて、僕が言いたいのは、その悲しみと悔しさの向こうに何があるのか、その悲しみと悔しさと同時にどんなものが並んでいるのか、ということなのだ。
僕が書きたいのは、実際に起こったことのそばに、その向こうに、何があったかなのだ。
「実際に起こったことのそばに、その向こうに、何があったか」を書くこと、これぞ文学の仕事ではないだろうか。
物語こそ愛である
最後に私の一番好きなエピソードを紹介させてほしい。
闘病中の柿緒が、どこに行くのかは主人公に内緒で、一日出かける話だ。この話は小説の最後に置かれている。
「治にはねー、今日どこ行くかも何するかも内緒」
「…何で?」
「だって治に私全部見られちゃってるんだもーん。 つまんないから、何か秘密作ろうと思って。やだ?」
「別に」と僕は言う。 突然何を発想したのかと思う。 いやかどうかは、まだ分からない。頭が追い付いていない。「わかんない」
「ふふふ。今日は絶対何も説明しないからね。帰って来ても教えないからね」
「……」
「心配?」
「当たり前じゃん」
「私、浮気しそう?」
「まさか」
「なんでまさか?」
「……」
「ひょっとしたら、するかもよー。もう最期だし。 ちょっと好きな人とか気になる人に会ってくるのかもよー?」
「……」
「ハハハ、治、この期に及んでもやっぱり悲しそうな顔とかするんだね。悔しかったり、嫉妬したりするんだ。へえ」
「へえじゃないよ」
「ウチらほんとラブラブですな。 つーか恋愛って凄いね。 相手が死にかけてようがわがままだろうがお構いなしなんだもんね」
「何言ってんの?」
「私ね、治のことがもうホント、超超好きなの。愛してんの。だからね、私のことばっかり治が全部知ってんのがやなの。 悔しいの。だから今日、秘密に行動しようと思って」
舞城のこのくだけた会話の感じがよい。
そして、病室に残された主人公は、やることもないので相変わらず小説を書く。どうでもよいのだが、それがまた変な小説なのだ。「右腕にヘビを飼って未来を予知するノルウェイパンプキンは聞くところによると戦争中に生まれて空襲に遭い、産み落とされた直後に酸素マスクを付けられてボンベごと袋に入れられ、動物園の象の肛門に突っ込まれ、檻から放たれた象の中で大阪から兵庫まで渡り、象はそこで力尽きて倒れたがパンプキンは生き延びた」。この小説は『ノルウェイパンプキンの確かな明日』と題されている。こういうところにも舞城のセンスを感じる。
柿緒はどこに行ったんだろう、何をしているんだろうと主人公は考え続けるが、なかなか彼女は帰ってこない。結局、昼に出かけた柿緒は夜の22時半に帰ってくる。
「どうだった?」と僕は訊いてみる。
この質問はセーフだったようで、柿緒は、「面白かったよ」
と答える。
「治は?」
「退屈だったよ」
「のんびりできた?」
「心配とかいろいろしちゃってのんびりなんていまいちできた気がしないよ」
「でも私のベッドで寝てたじゃん。 ぐうぐう寝てたよ治」
「心配しすぎて疲れちゃったんだよ」
「じゃあ寝れて良かったね」
「どうかな。 今日あったことは教えてくんないの?」
「うん。 そう言ったじゃん」
「いつか教えてもらえんの?」
「教えてあげないよ。もうずっと」
ホントに教えてくれなかった。あの長い長い一日。寂しかったり頭に来たり悶々としたり大変だったあの日のあの退屈が、今もまだ僕の中に続いている。
主人公は、本当に教えてくれなかった柿緒の一日について、彼女が亡くなった後も考え続けることになる。そして、その空白を埋めることが、彼にとって、物語を紡ぐことであり、柿緒を愛することとなるのだ。
僕はその日の柿緒の行動をいろいろ想像する。 これまでもこれからも。
その想像は全て僕の小説の形にしない物語であり、柿緒を求める気持ちそのものだ。柿緒の居場所を仮定する。何があったかをストーリーにする。僕はそこに行きたいと思う。どのストーリーも、どの<行きたい>も、僕の愛情の反映だ。
僕は柿緒のあの日のことをよく考える。 で、ふと僕は、柿緒があのときあんなふうにして出かけて内緒のままにしているのは、まさしく僕にそのことを考えさせるためであって、柿緒が逝ってからも僕に柿緒のことを考えさせるためじゃないかなと思う。それを考えることが柿緒を愛することと同じなら、僕は柿緒の思惑どおりに柿緒を好きなままで忘れられずに何度も何度も繰り返し愛しているのかもしれない。
柿緒がいなくなってもうだいぶ経つけど僕は今でも柿緒を探している。愛している。物語を紡いでいる。
なぜ私たちは小説を、物語を、フィクションを必要とするのか?
その答えのひとつがここにあると思う。
愛は祈りであり、祈りは物語なのだ。
余談(祈りの物語としての平家物語)
24時から書き始めて今5時半、ノンストップのため脳がいよいよ停止した。
本当はこのあと、「祈りの物語」としてのアニメ「平家物語」(2022年)の話もしたかった。あれは主人公の女の子がオリキャラなんだけど、未来を予知できるって設定なのね。で、それって、話の結末を知ってる私たちのことだと思うのよ。壇ノ浦で平家が滅ぶことは誰でも知ってるわけじゃない。それで、壇ノ浦の時に、主人公の女の子が入水する平徳子(建礼門院=平清盛の娘で安徳天皇の母)に手を差し伸べて助けるのね。単に私が世界史選択だし日本史無知すぎて知らなかったんだけど、徳子って実際に生き残るんだね。オリキャラが助けるっていうのは完全なフィクションなんだけど、徳子に生きていてほしい、幸せであってほしいっていう視聴者の祈りを届けてくれた気がしてすごく感動したんだよね。で、生き残った徳子は山奥のお寺で一族の菩提を弔い続ける。最終話ラストで徳子が「祈りを、愛するものを想い祈ること、そして平家の物語を語り継ぐこと、その始まりは…」って言って、「祇園精舎の鐘の声」に続くわけ。でさ、その文言は現代の私たちも全員知ってるわけじゃない。それが、徳子の祈り(物語)は800年後にまでちゃんと届いてるよっていうメッセージに思えて泣けたんだよね。愛だなーって。感動しすぎてそのお寺(京都の寂光院)行っちゃった。
あとどうでもいい話をもう一つ。以下は吉祥寺ジュンク堂のポップ(書店員さんに熱狂的な舞城ファンがいるのだ)。

いやこの本、タイトルはさておき、内容としてはいきなり体内に虫が大量発生する話から始まるし、かなり癖強いから好きな人にいきなりプレゼントするのはオススメしないぞ。いつかやってみたいけど。