「ドラゴンボール」と引き寄せの法則
自己啓発系の記事や動画を漁っていたある日「引き寄せの法則」の存在を知りました。「やり方は簡単。強く願うだけ!」と目にして「いやいやw」と苦笑してしまったり「宇宙の大法則」とか「量子が」なんてみたいな記事は自分の理解力が足りずチンプンカンプンでした。
だいたいどの解説記事にも共通していると感じたのが、引き寄せたいものを強く願うにあたり大事になる要素の存在でした。それは耳にタコができるくらい当たり前なことでした。
「ポジティブ」
「感謝」
「吾唯足るを知る」
「傲らない」
「嫉妬しない」
など、人として正しく重んじるべきことを重んじようというだけの話です。並行して「引き寄せの法則は嘘だ」とか「引き寄せの落とし穴」といった方向性の記事や解説も目にしました。危険なのだそうです。
真偽の程はわかりません。でもとりあえず信じます。
「ある」という前提に立って受け止めてみようと思います。
信じることで「引き寄せる」ことができるかもしれません。
それに、人として「正しく重んじるべきこと」を重んじてみてもいいかも。
そんなふうに思ったのです。
なぜって? 人生を変える概念に出会いたかったんです。
自分と親の自業自得が招いた過ちで不幸になっただけの話ですけどね。
ありきたりで陳腐な自業自得の不幸話です。今日はしません。
今日これからする話は僕の自業自得自慢ではありません。
するのは引き寄せの法則の話です。
引き寄せの法則で大事なのは「ポジティブ」であることを知ったとき不思議な力に導かれるように『ポジティブ→孫悟空』という思考が発生しました。だから今日これからするのはドラゴンボールの話です。
最初の思考のドミノが倒れたことで、いま僕の頭の中では次々と様々な思いが浮かんできています。
「孫悟空が先天的に引き寄せの法則使いだとしたらベジータは?」
「天才であるベジータが引き寄せの法則使いこなしてないのなんで?」
「願うだけですべてが叶うってドラゴンボールみたいだなぁ」
「努力もなしに願いって叶えられるのかなぁ」
「7つの球を集めるみたいに7つくらい大事なもんあるんじゃない?」
「7つといえば七つの大罪だよなぁ」
「七つの大罪って元は八つの想念だったよな」
「大罪ってようするに人の業、つまり煩悩よな」
「煩悩は108だから数珠って108が基本の珠数なのよな」
「そういやドラゴンボールは南総里見八犬伝が元ネタとか言われてるな」
「南総里見八犬伝にも珠があったな」
「8つの霊玉だっけか」
「八つの想念と8つの霊玉に関連性があったりするのかな」
「てかGTで邪悪龍出てきたけどあれって七つの大罪に呼応してそうだな」
「つまり引き寄せの法則って7つか8つの想念を手中に収めたらすべての願いは叶うと言っているんじゃないか? そんなわけ無いかw」
などなど突拍子もない妄想が膨らんでしまいました。
全部いっぺんにつらつらと書けるほどの文章力はありませんので今回したい話のテーマをだいたいギュッとふたつに絞ります。
まずは「孫悟空×引き寄せの法則」です。
つぎに「ベジータ×引き寄せの法則」です。
普段、詩とも散文とも分からないものしか書いていない人間がこんなものをテーマに長文を書くとか無茶なんですけど、ガンバリマス。
「孫悟空×引き寄せの法則」
:悟空は先天的引き寄せの法則使いかもしれない
引き寄せの法則を自然と使いこなしているひとのことを「天才」と呼び、意識的に使いこなしている人のことを「成功者」と呼ぶ。
こんな考え方をする人たちが一定数いることに興奮を覚えた。自分の直感通りの意見だったからだ。
頭の中に思い浮かべる「天才」たちの性格は超ポジティブだ。
最初に浮かんだのは「長嶋茂雄」
長嶋茂雄の実像は知らない。でも天才といえば長嶋茂雄だ。
感覚が思考と肉体をラグなく同期させているイメージがある。
頭の中に思い浮かべる「成功者」たちの性格も超ポジティブだ。
最初に浮かんだのは「矢沢永吉」
やはり矢沢永吉の実像は知らない。でも成功者といえば矢沢永吉だ。
思考が感覚と肉体をラグなく同期させているイメージがある。
加えて、研鑽を積み上げた結果「天才」の領域へ至っているように思う。
これは勝手なイメージだが「天才」には数種類のタイプがある。
(1)能力値が異常に高い <体> :奇才・鬼才・異才・神童
(2)知識やコツの吸収が速い <技> :秀才・偉才
(3)決して諦めることがない <心> :努力の天才
(4)ぜんぶ揃ってて際限ない <全> :真の天才・本当の天才
この4パターンだ。この分類いついては感覚的なものなのだ。いずれ思考の文章化を試みたいとは思っている。しかしいまはよしておこう。とにかくそういうイメージを持っているということだけ把握してほしい。
上の分類に悟空を当てはめると「真の天才」というイメージになる。
引き寄せの法則を自然と使いこなしているのが「天才」なら「真の天才」である孫悟空は「究極の引き寄せの法則使い」であると言える。
悟空は「強くなりたい」という思いを達成するために非情になろうとか大切な人やモノを捨てたりもしない。強い相手に勝つことよりも戦えることにワクワクしているので結果主義に走ってもいない。自分の出自に思い悩んだりしている様子もないのでネガティブではない。常にポジティブだ。修行することも楽しんでいる。
強く願うことが引き寄せの法則で、そのために必要なものがポジティブ。妄信的にならないためのネガティブ。失敗や過ちに自己否定に陥らないための正しい自己肯定感。強く願い、濁らず腐らず、気負わず欲張らず正しい努力を継続する。これらを揃えられれば揃えられるほどに引き寄せる力は強くなる。そこで慢心や傲りを抱いて正しい道から逸れることのないように突き進んでいく。
そういうことができると自分の軸や言動は変わらないのにステージがでかくでかくなっていく。それこそが法則の本質。成功の王道。だと思っている。
孫悟空はそれが自然とできている。
個人の見解だ。だがそう見えるものはそう見える。
決して「孫悟空は主人公だから際限なく強くなれるねんで」という正論に敗北宣言は出さない。意地でも和平交渉に持っていく所存である。
ちなみに作中においても悟空と引き寄せの繋がりが匂っている言葉がある。以下にセルゲーム編での悟空の台詞を紹介する。
前にブルマから、言われたことがあんだ。このオラが、悪い奴らを引きつけてるんだってな。
悟空の「強いやつと戦いたい」という強い思いが強敵を引き寄せていると書いてあるようにしか読めません。違う読み方を今日はしません!(暴)
その想いは善でも悪でもとりあえず強いやつを引き寄せます。
物事の善し悪しに関わらず人は常に引き寄せの法則を発動しているという考え方です。ポジティブな意味合いで紹介されることが多いですが実際はマイナスの引き寄せについて言及している記事なども多く存在しています。
引き寄せの法則にも陰と陽があるのだという前提に立てば引き寄せの法則はただの四則計算のようなもので、代入値や求めるXの求め方次第で計算結果が期待していたのと狂うことがあり得るってだけの話です。
悟空が来てほしいと願うだけで法則は起動する。強い奴が次から次にでてきて仲間になる相手もいます。
その中で悟空にずっとライバル心を抱き常に悟空を倒そうと本気で自己研鑽を積んでくれるのはベジータだけです。
ベジータもまた悟空を超えることを一生の目標にしていると言っていいので互いが互いを引き寄せています。
悟空は強ければ誰でもいいみたいなところがありますけどベジータは悟空以外の誰にも負けたくなし、誰よりも強い悟空を倒したいみたいな感じがするので、逆に悟空がベジータ自身よりも強くなるという結果を引き寄せていると捻くれた考え方をすることだってできます。
ではなぜ孫悟空は引き寄せの法則的思考を身につけられたのでしょうか。そもそも備わっていた可能性もありますが悟空を育ててくれたじいちゃんと亀仙人のおかげだと思います。
山奥での自由奔放な生活で無邪気に育ち、ブルマと出会い、亀仙人やクリリンに出会う。赤ん坊のときから幼少期までの生活と、幼少期から少年期までの経験がその後の孫悟空の性格と思考傾向のようなものを決定づけたと言っても良いかもしれません。三つ子の魂百までって感じですね。
孫悟空の強いやつと戦いたい願望は戦闘民族サイヤ人の血の影響もあるとは思いますが、天下一武道会で変装して出場した亀仙人相手に負け、その敗北のあと元の姿に戻った亀仙人からのアドバイスで「世の中には自分より強いヤツがたくさんいる」という認識に胸踊らせた原体験からきています。あの敗北と認識が常に強いヤツと戦うために己を強くする姿勢に繋がったのではないかと思います。だからこそ引き寄せの法則的思考が備わり「際限なく強くなることができるタイプの天才」になれたのだと思っています。
つまり、孫悟空は幼少期から青年期までに引き寄せの法則に最も大事な強く願うこと及びポジティブ、妄信的にならないためのネガティブ、失敗や過ちに自己否定に陥らないための正しい自己肯定感。強く願い、濁らず腐らず、気負わず欲張らず正しい努力を継続することのできる引き寄せの法則の天才になることができたのです。
セルゲームで悟空は負けるとわかっているのにセルと戦います。悟飯にセルの力量を見せる目的もあります。しかし悟空は勝つことよりも強いやつと戦いたいという願望のほうが優先順位が上なのです。
仙豆の使用を提案するトランクスをベジータが嗜めるシーンがあり、悟空と付き合いの長いクリリンもトランクスの意見に同調することはありません。あのシーンを「サイヤ人の誇り」と見ることもできますし、悟空が単純な勝利よりも戦うことを優先したい気持ちを表していると読み取れます。
強くなったベジータと戦いから見逃したいとクリリンにベジータを見逃す選択を伝え、その選択を「権利がある」と言ったクリリンです。地球人最大の理解者と言って過言はないのかもしれません。ふたりのあいだに友情があったと思いたいですが、先生曰く「ないぞ」という発言もあります。
ぼくは当時のアニメの記憶が色濃く残っているだけで、いま現在の設定変更部分などなどのすべてを把握できてはいません。ぼくの知っているドラゴンボールの記憶で書いています。事実と違っていたらごめんなさい。
この話は「主人公だから」とか「戦闘民族だから」で片が付く話です。でもこうやって考えるのは楽しいです。妄想、万歳!(笑)
「ベジータ×引き寄せの法則」
:ベジータはポジティブでもネガティブでもない
ベジータはプライドが高く自己肯定感がとても強い上にエリート意識も強烈でした。戦闘力のない相手は無価値だと言わんばかりに瀕死のナッパを見限る冷酷で非情さを持っていました。
サイヤ人の王子であり、生まれたときから戦闘能力の高いスーパーエリートです。実力と地位、出自までくればプライドが高くなるのも当然です。
サイヤ人は戦闘民族でありそもそも残忍性を秘めていて、星を襲っては転売するような種族。同業者であるフリーザの一族と手を結びますが実際はフリーザが支配下に置いて傭兵扱い。その後の流れをやや乱暴にザックリ言えば種族として疎ましく思ったフリーザが手駒にできそうな一部を残して星ごと消滅させたわけです。
生まれたときから力こそがすべての世界で育つのですから、甘えたい気持ちや弱音を吐きたいなんてことはできなかったはずです。サイヤ人の王子として血気盛んな一族をいずれは力をもって率いなければいけない立場が運命づけられていますから。
高い自己肯定感は己のアイデンティティの象徴であり、同時に強者であることの誇りです。
特別であり続けなければいけない。舐められてはいけない。バカにされてはいけない。いまは従わざるを得ないフリーザや幹部連中もいずれは倒してナンバーワンになる野心を抱くのは自然なことです。そういう価値観の中で大きく育ってきたベジータの人生観や人生哲学は悟空とまるで違います。
明るく朗らかなポジティブは不要であると同時に、自己肯定感を下げれば踏みにじられるだけなのでネガティブさは排除すべきものです。自分を陥れたりする相手がいるかもしれないという危機管理にのみネガティブは発動し、常に気を張っていなければいけない日々だったと予想します。
王子として浮かれてはいけない。できて当然。出来ないことがあるなんて許されない。そんな思いを胸に育てばあの性格も仕方のないことです。その苦しみから逃れるには上に行く。それも一番上に行く。それが最適解です。
ベジータが地球に攻めてきたのが丁度30歳くらいだったはずです。日頃の不満や抑えきれないほどに膨らんできた野心に目がくらみ一国一城の主になりたい気分になるには丁度いいお年頃です。
そんなとき、ドラゴンボールの存在を知ったら一世一代の好機と飛びつかないわけがない。どうやら過去に下級戦士が飛ばされたらしい辺境の惑星。支配するにはチョロいハズ。
ラディッツが負けていたとしても自分が負けるなんて有り得ない。いざ攻めてみると歯ごたえのある虫けら野郎たちもいるが負ける気がしない。ナッパが油断と慢心でやられても自分には及ばない。万が一にもこのベジータ様が負けるはずがない。そう考えていたのに、瀕死。
引き寄せの法則では「傲慢」や「嫉妬」などの想念が失敗を引き寄せる可能性が高まるという話もあるので、ベジータの傲慢さや自惚れ、強欲さなんかが引き寄せたいモノを望んでいない形で引き寄せたり、敗北を引き寄せたと解釈することができます。サイヤ人襲来編あたりにおけるベジータと引き寄せの法則との関係は悟空を通して捉えることのできる引き寄せの法則とは別の風景のようです。
物語の流れとしては悟空のわがままを聞き入れたクリリンに見逃され、ベジータは宇宙船で地球をあとにします。捨て台詞を吐いて宇宙船で帰っていくときでさえ強気です。ボロボロなのに自己否定するほど凹んでいません。
心のどこかで「油断したせいだ」「普通にやったらあんな奴らに負けるはずがないんだ」という思いがあったのだと思います。事実、このとき悟空よりベジータは強かったはずです。だから自己肯定感は揺らぎません。
傷を癒やしたベジータはフリーザがナメック星にいることを知って飛び出していきます。
自分がフリーザを超えるにはナメック星にいるフリーザを出し抜き自分だけが不老不死になるしかないからです。
道中、悟飯たちと手を組んだり幹部たちと戦って勝ったり死にかけたり、自分が現時点では弱者であることを思い知らされながらもサイヤ人の特性を活かして自分がもっと強くなれるという自信と自負がベジータを支えます。
クリリンに半殺しにしてもらってデンデの回復で一気に強くなり、最終形態に変身したフリーザを前に、自分が伝説の超サイヤ人だと息巻いた直後、圧倒的な力の差を見せつけられてしまいます。
このときベジータは生まれてはじめて己の限界を痛感し、挫折し、恐怖し、涙まで流してしまいます。戦意を失っていいようにされるベジータ。プライドと自己肯定感を失いなされるがままになってしまいます。
ですがそのとき悟空が現れます。
そして、伝説の名シーンはやってきます。
フリーザの攻撃に貫かれ、自分がもうすぐ死んでいく身であると思っているからこそ、ベジータがいつからか閉じ込めてきたかもしれない感情を嘘偽りなく表現できたのだと思うのです。
涙を流しながら、敵だった下級戦士の男に、フリーザにカウンターを当てることのできた姿に伝説の超サイヤ人になる可能性を見たからこそベジータは悟空に願いを託して死んでいくのです。
王子であること、サイヤ人の誇りを守ること、強くあり続けること、いつかあのフリーザさえ超えること。
王子としての責務でありサイヤ人の本願であるとベジータ王に言われていたのかもしれないベジータにとって、すべてのしがらみから開放される瞬間が死を目前に訪れてしまった。と同時に、目の前にジャイアントキリングを成し遂げることができるかもしれない唯一の存在。
すべてを託すことは恥の上塗りではなく、死を間際に素直になってもいいと思えるだけの「何か」を悟空に感じたからこそ正直になることができたのではないでしょうか。
そして「己の感情に素直になること」は引き寄せの法則の大切な要素。ゆえにベジータの素直な心からの願いが、引き寄せの法則の化身たる孫悟空のなかにある「フリーザを倒す(殺すではない)」という気持ちを強くさせるひとつの材料になったのではないでしょうか。
あまりに大げさな話かもしれませんが、たったひとりでこの世に生きているわけではないので、誰かの願いが自分の願いを手繰り寄せる力になるということは、綺麗事ではなく存在します。
あの伝説のシーンはその一例であると大袈裟だけど言わせてほしいです。
断言したほうが気持ちいいので(笑)
一生に一度と思って流した涙もこの世界では無為に帰す。
それがドラゴンボールの世界です。
死んだはずのベジータは突如として生き返り、地球に飛ばされます。自分が生き返るなんて思っていなかったベジータは混乱したはずです。
悟飯に殴りしたけれどピッコロに制止されてどこかへと飛んでいきます。同族のよしみとか、共闘の礼とか、フリーザを倒せと頼んでおいて息子を悟空の知らないところで勝手に殺すのはフェアじゃないとか、地球で一度は自分を見逃した借りを返すという理屈だったのかはわかりません。理由はどうあれこれまでのベジータにはない選択をします。
そこからだんだんと人生が激変します。ブルマの家で居候するようになって子どもを授かるまでになるんですから人生何があるかわかりません。
この穏やかな生活があったからこそ近年言われるようになったS細胞が活性化して超サイヤ人になったのだと思うと、あの涙がまさにベジータの人生を変えるターニングポイントです。
大きな敗北や挫折が人生を変えるキッカケとなり、全く別物の人生を引き寄せた有名人や経営者の再起した話と重なるものがあります。ある意味においてはベジータも主人公になったのかもしれません。悟空とのW主演です。
その証というわけではありませんが、未来から来た謎の青年が超サイヤ人になってメカフリーザたちを瞬殺し、自分が超サイヤ人になれないことに焦りもがき苦しみ、それでもほぼ独力で超サイヤ人に到達した描写がされるほどです。失礼な言い方をあえてすると、葛藤担当です。でも、プライドが邪魔して大失敗しても自己肯定感を下げず、ドラゴンボールでズルして強くなろうとしていたのに自分の経験だけで悟空を越えようとする真摯な態度なんかは見習うべき点であるような気がします。
でもまぁ、その後も俺様強いやっぱりサイヤ人の王子だと図に乗ったら18号たちに敗北したり、鍛え直して調子にのってセルを完全体にさせたりするので、心グセってなかなか変えられないんだなという学びを与える役回りを担当したり、セルにトランクスを殺されて後先考えられなくなったのって実は情愛が芽生えていたからなんじゃないかと思わせてくれたり、半ば自分のせいで自分が倒すはずだった悟空を死なせてしまったり、悟飯にまで抜かされた上に戦闘で足手まといになってしまい、取り戻しかけていたプライドがまたも傷つくことになります。
変わらざるを得なかった部分だけではなく自ずから己を変えずして人生は好転しないんだということがヒシヒシと伝わってきます。そう感じるのは自分自身が自業自得による大きな過ちを経て、それでもなかなか人生を好転させることができずもがいている最中だからかもしれません。
こうして「ベジータ×引き寄せの法則」を考えるようになってから思いが溢れて止まらなくなり文章が荒くなってきている自覚があります。
別の機会に話したいネタをメモりながら、最初のゴールに辿り着くために最終コーナーを曲がろうと思います。
ベジータは幼少期から青年期までに引き寄せの法則に最も大事な強く願うこと及びポジティブを備えていたものの弱肉強食の環境下では妄信的にならないためのネガティブは不要。
失敗や過ちによる自己否定は組織内での死を意味すると思われるため強気になるしかない。正しい自己肯定感では足りない。だから獣のような自己肯定感を構築し未来を切り開くための手段としての強さを願う。
ストレスからの解放のためには成り上がるしかない世界。なのに順風満帆とはいかない。利用されているだけなのがわかっているのに自由にはなれない。幹部やギニュー特戦隊のような地位にもいない。
不満を燻ぶらせ、濁らず腐らないために更に強さを求め、出し抜かれたりハメられないように常に気を張り、欲深く生きる。手段は選んでいられない。だから過剰なまでな努力をしないと安心できない。
本当のベジータのことはわからない。
失礼ながらぼくから見えるベジータの人生は山あり谷ありで、発動させていると考えることのできる引き寄せの法則は歪なままに見えます。
天才であるにも関わらず、際限なく強くなることとポジティブが結びつかなかったことは、性格のせいだとも言えるし、境遇のせいだとも言えます。
すべてを環境のせいにするなとベジータに叱られそうですが、価値観や常識は自分の過ごす社会環境によって多かれ少なかれ影響を受けるものです。
はじめて覚える言語が周囲の言語に起因するように。
それでも、どこかの段階からはベジータがぜんぶ選んできたものです。
すべてを環境のせいにできるのは別の環境を知り得なかった頃までです。ベジータは一度死んで復活し、地球で暮らすようになってから少しずつ変わっているので、決して自分の生き方を変えられないまま果てていく男ではないのです。ベジータの人生をより深く紐解いていくことで引き寄せの法則のことを深く理解できるかもしれません。
引き寄せの法則は人が正しくのびやかに成長するための秘訣だとぼくは考えています。ぼくは成長したい。いまはまだ引き寄せの法則が孫悟空とベジータという存在を通して見つめることができることに気がついただけですが、そのうちもっと色んなことに気づいて文字にしていけると思います。
この世はありとあらゆる「気づき」にあふれている。たどたどしい考えや文章も、きっとヨチヨチ歩きから成長できる。この記事の草案を書き始めてから丸2ヶ月が過ぎてもこの程度の完成度だった内容も、どんどん成長していける。時間はかかりましたがこれまで何度か長文の執筆を挫けていた自分がようやく最後の「。」まで書けることに静かな感動をおぼえているから。この感動や楽しいという感情に従って正しい努力をすれば。悟空を見習えば。ベジータを反面教師にすれば。きっと、いや、絶対に成長できる。
「引き寄せの法則は強く願うことで発動する」
・ イメージは具体的であるほうがいい
・ 貪るように欲してはならない
・ ポジティブとネガティブのバランスが大事
・ どうやら自己肯定感は低くないほうがいいようだ
「意識下の引き寄せの法則と無意識下の引き寄せの法則があるのでは?」
・ 嫉妬や傲慢、貪欲さは意識下で肥大するものだ
・ 傲慢はポジティブの暴走なのかも
・ 嫉妬はネガティブの魔物かも
ひっきりなしに、纏まりのない考えがわんさか浮かんできます。ベジータと引き寄せの法則の関係の深堀りもまだまだしたいです。ドラゴンボールの個数が七つの大罪と同じ「7」であることだって気になって仕方ない。
ぼくの引き寄せの法則シリーズにすぐ次があるのか、ずっと続けるかは正直言ってまだわかりません。でもこれからも何かしらの文章を書きます。
この記事はぼくにとって引き寄せの法則を理解するための自主勉強記事であり、ぼくの人生がこの先、書くこととポジティブを同一化するための反復練習のはじまりでもあります。今日という日が、ぼくにとっての地球復活になることを願って。