修羅場経験の話をしようか。 - こういう組織はもう辞めにしよう
「修羅場経験」
今日は振り返ってみればとても辛かったことの話をします。修羅場とも言うらしいです。最後には学びや考え方についても少し書いてみたいと思います。長文になってしまいました。タイトルは、こちらの本からインスピレーションいただいております。
そもそもこの記事は、同情をかいたいための記事ではありません。比較をされたいためでもありません。また、修羅場は経験する必要がないならそれに越したことは無い、ということもしっかり述べておきます。また、逃げる勇気もとても大事です。一人でも共感していただいたら、また辛いことを経験してる人が一人でも救われたら、と思い書いています。修羅場が絶対必要、ということを言いたいわけではないということをしっかり述べて本題にはいります。むしろ、こんなことが起こる組織は作っちゃいけないんだと思っています。そういう組織を作らないための教訓です。
(追記パラグラフ)
大事なことを新卒時代の同期がしっかりと補足してくれていますので、ぜひこちらもご覧くださいませ。
(追記終了)
ところで、
新卒で入った会社が解散・倒産・撤退し、およそ90%の社員が一気にいなくなった経験をしたことがある人はどれくらいいるでしょうか?
それほど多く無いのではないでしょうか。多くて無く良いと思います。私はそんなまれな経験をした一人です。年末になると思い出す光景があるのです。これなんだかわかりますか?
外資系企業が日本のオペレーションの撤退を意思決定。ほぼすべての社員が一斉にいなくなった後のオフィスの写真です。25人ほどいた社員がいなくなりデスクなどが夜逃げのごとく無くなり唖然としました。これは年始の写真です。年末になるとこの光景がついよぎってしまうのです。これにより多くの辛いことが起きました。このことから感じたことや学んだことがありましたのでここに書きたいと思います。およそ9年前のことですが、大変鮮明に覚えてるのです。それでは。
記事のおおまかな内容
日本オペレーション閉鎖の物語り
修羅場経験と学び
考え方の変化
後日談
日本オペレーション閉鎖の物語り
2010年、それは突然の出来事だった。何も知らされない日本社員。アメリカ本国から役員が数人、東京オフィスにやってきた。突然始まるミーティング。日本法人社長と本国の役員、そして社員という設定だ。会議は全部英語。日本法人の社員でも英語が全員できるとは限らない状態だった。上の方々がミーティングに続々と呼ばれる。でも、私はなぜか途中でミーティングの通訳をさせられることになり、呼び出された。
その時私は新卒で入社し3年目。主に業務改善/ITコンサルタントとして、常駐を主にしていた。プロジェクトが無いときには、自社製品のプロダクトサポートも担当していた。そんな中、突然呼び出しをくらい「英語で通訳せよ」と何の背景もなくミーティングに突っ込まれた。日本で生まれ育ち、海外旅行や1か月程度の海外経験しか無かったが、英語がそこそこ話せるという噂が社内で立ち、なぜか通訳をさせられることになった(らしい)。これが後に、悲劇の引き金になるとは思いも知らず…
どうやらこのミーティングは内容云々ではなかった。英語が話せるかどうかの試験だったのだ。本国役員が帰国ししばらく経ち、英語が話せない社員を中心に退職勧告が出され始めたのである。何も知らない社員たちは「戦略上の理由により、あなたのポジションは無い。(いついつまでに)退職することを勧める」といういわゆる外資でよくあるポジションクローズによる退職勧告の通達が一気に出された。と、先輩から聞いて知った。社内はパニック。弁護士に連絡をする社員もいた。しかし、中にはリークから知っている人もいた。パッケージをもらって辞められる美味しい話なんてそうそうない、という人もいた。かという私には、勧告が来なかった...
なんで自分には来ないんだろうと思っているのもつかの間、当時の社長からミーティングをセットされた。
「この会社は日本のオペレーションを閉鎖する。私もそのうち辞めないといけない。そこで徳永さんには、私が次に行く会社で雇いたいから少し辛抱して。」
と言われ、私は信じた。信じてしまったのである。待ったのである。この言葉を残し、なんの挨拶も無くいつのまにか社長はいなくなった(いつが最終とかも知らされず)。ほんとにいつのまにかいなくなっていた。結局、残された社員は3人だった。
・自分
・マネージャー(自動的に私の上司。2、3回同じプロジェクトを担当した)
・総務の方
・本国が送り込んできた雇われ新社長(この方はとてもいい人だったが、買収元の人らしくよく知らされず社長になったとのことで何もできなかった)
そもそもことの発端は2006年だったのであろう。この会社は買収されていた。米国の企業が米国の企業に買収されていた。よくあることだ。私が新卒で入ったのは2008年。就活は2006、2007年だったので、それとほぼ同時期であった。この事実は内定時には知らず、知らされたのは入社日直前の3月だった。
会社が買収されるとすべてが変わることがある。まさにこの会社だ。
私たちが新卒入社の面接を突破し、内定式周辺には4-50名弱いたと思う。しかし、入社してみると30名強か40名弱に減っていた。オフィスも狭くなっていた。特に何か異変があったのかとか考える余裕もない新卒ぺーぺーだったが、振り返ってみると何かあったのであろう。ここから人が増えることがなく人はどんどん辞めて行っていた。そして、2010年に一気に閉じたという流れであった。
というのがこの写真が物語っているのである。
修羅場経験とそれからの学び
さて、ここからが辛かったことである。
少し前に述べたが私はコンサルタントであった。が、会社としてはパッケージソフトをかついで売っていた。サポート契約が多くの会社と残されていた。プロジェクトが無いときはプロダクトサポートも担当していたので、そのことについてはもちろん自分は知っていた。しかし、この閉鎖処理の最も大変になるところであった。
辛かったこと 1 - コントロールできないことによる謝罪
ほぼすべての社員がいなくなったあと、ビジネス側で残された二人の責任はたった1つだった。契約変更の通達とサインをいただきにいくことである。どのような内容に変更するかというと、ポイントは以下のようなことであった。
・日本オペレーション撤退により日本語でのサポートの終了
日本語による電話、メールサポートがなくなり、これからはすべてオンラインチケットを切るようになる。英語で。
・サポート費の実質値上げ
詳細は割愛するが、要はサポート品質をデグレして、費用を上げる契約になる。(かなりきつい)
などの変更が多々あった。
これらの内容にもちろん反論は許されなかった。コントロール不能だった。そして、本国から命令されたことは「これをオンサイトで直接説明し、サインを貰ってこい」であった。サインには2パターンあった。お客様が内容を理解して同意するサイン。そして、もう一つは内容説明を受けた(が納得がいかない)というサイン。説明に行ったことをお客様に証明させるのである。
そして、マネージャーと私は、関東、東海、関西に主に行った。謝罪であった。謝罪のためだけ、そしてほぼ怒られるためだけの出張であった。新幹線はちょっと嫌いになった。こういう出張はたぶんそうそうないと今では思える。
もう10年くらい前になるが、ミーティングの様子を未だに鮮明に覚えている。2つばかり紹介したい。
つらミーティングエピソード - とある製造業の調達部門とのミーティングである。地方の工場のミーティングルームには当時、透明のガラスの灰皿がおいてあった。ダミ声の調達部長と何名かが座っていた。ダミ声の部長はタバコを吸っていた。いかにも怖い。それでも説明しないといけない。上司が説明をした。そして、その部長からひとこと。「徳永さん。若いよね、見るからに。この人(上司)が言ってることわかってる?君ならどっちにサインする?」と言われたのである。タバコが大嫌いな自分がミーティングルームにいるだけで吐き気がしそうなのに、これを言われてなんと返したら良いかわからなかった。が、「上司の○○が申していることは理解できないということはわかっています。私はこれまでコンサルタントとして顧客第一で働いてきたと思っていますが、今回だけは本当にわからず申し訳ございません、しか言えません。申し訳ございません」しか言えなかった。サインの書類はその場で破棄された。
こんなことの繰り返しであった。もう一つ思い出深いミーティングがあった。
つらミーティングエピソード - これもとある製造業とのミーティングである。上司と私がいつものように契約変更説明のミーティングに行く。開発部でヘビーに利用されていた。もろもろ説明が終わると「で、XX社長出せよ。XXさんが来ないと話にならない」と言われた。このような言葉遣いで。上司も返す言葉が見当たらないので私が返答した。「XXはすでに退職しております。申し訳ございません。」。退職メールを重要取引先にも連絡せずに、前社長は辞めていたのである。それからは静寂であった。何をこちらが言っても先方は声を発せずミーティングは静寂となった。サインももちろんもらえなかった。
そんな中、泣けてしまったミーティングが一個あった。京都のお客さんであった。
いつもどおり上司と私で京都に行く。契約変更の説明である。もはや、別人格が出てきており淡々と説明をする上司と私。そして、説明が終わる。お客様からひとこと「こんなこと説明させられる会社になっちゃったんですね。本当にお二人辛いでしょう。今まで仕事させてもらってきているので、こんなことを好きでおっしゃっているとは到底思えないのもわかってますよ。変更内容には納得できませんが、お二方が来てくれたという証明のサインします。」ミーティング後、二人で京都のカフェでこういう良い方も世の中いるんだね、と言いながら語ったのは良い思い出である。
人と会社は区別し、私も人の痛みがわかる人間になろう、とこのお客様から学ばせてもらった。また、企業の論理はかなり強いということも学んだ。末端の社員がどうすることもできない意思決定により、すべてを背負うこともあることを学んだ。
自分が納得できないことをやるべきではなく議論をしつくしたいなと思った。
また、いつの間にか辞めていった社員が取引先に私と上司のメアドを「後任」としてしれっとシェアしていたのである。私も上司もそれは知らなかった。この事に気づいたのは、取引先からメールが来たからである。
「事情は前任の方が伝えたとおっしゃていたので把握していると思いますが、○○の件、(いついつまでに)ご対応をお願いします」
こういうメールが届き、初めてこの取引先にプロジェクトがあったことを知ったのである。まったく事情を知らない私達は、対応のしようがなく、直接訪問し謝罪した。
こういうことが数件起きた。
自分がコントロールできない世界で何かが起き、なぜかそれに対して謝罪しなくてはいけないことも辛かったし、クライアントに申し訳いという辛さで心がいっぱいだった。
情報はオープンにシェアしておくべきである。というあたり前の学びがあった。反面教師として、こういう組織は絶対作りたくないと強く心に刻んだ。
辛かったこと 2 - 上司が救急車で運ばれる
新年明けて、夜逃げのごとく閑散としたオフィス。謝罪行脚を共にしていた上司がいない。とある寒い日の朝8時半頃であった。オフィスの電話が鳴り、もちろん私が取った。あー、また怒られるのかな、早いなあと思ったら違った。
「○○(上司)の妻です。いつもお世話になっております。○○なのですが、今朝救急車で運ばれまして、本日出社はできません。」と鳴き声で電話がかかってきたのである。
「いつもお世話になっております。徳永と申します。この度は大変申し訳ございません。一日も早い回復を願っております。何か弊社で必要なことがあればおっしゃってください」などと言ったが、どんなことを話したがあまりよく覚えていない。とにかく謝ったことを覚えている。。。
これはかなり辛かった。
憶測だがおそらくストレスだろう。奥様が話していた内容だと、嘔吐を繰り返しているとおっしゃっていたので、相当なるストレスで身体が弱りノロウイルスか何かにとどめを刺されていたのだろうと思った。しかし、たぶん違う。ノロウイルスであれば、一週間ほど辛いし、ウイルス性なので外出禁止がでる。でも、その上司は2日ほどで返ってきた。「石がね。」と手を挙げて笑顔で出社してきた。超人だと思った。絶対石じゃないと思ったが...察するに、当時の上司は本社から相当なるプレッシャーをかけられていたのだろう。かなりのストレスがあって、何らかの症状がひどくなり救急車に乗るくらい辛くなったのであろう。あの寡黙な鉄人の上司がである。
正直これはかなりこたえた。何がかというと奥様の鳴き声である。家族に悪影響が出てしまうくらいひどい仕事ってなんなんだろうかと自問した。家族に悪影響が出てしまうなら、即刻自分から辞めて逃げた方がマシだと思い、先にやめていった人が正解だと思った。
家族へ悪影響が出るくらいなら逃げてしまっても良いという学びである。そして、企業が自社の社員を無秩序に苦しめては絶対いけない。
自分がチームや組織を持つときにはこういうことがないチームを作りたい、と強く思った期間である。
今の自分からこの当時の自分に伝えるとしたら、「その立場なら即刻逃げろ」と言うだろう。役員や管理職であれば別かもしれないが。
辛かったこと 3 - 辞めていった社長の会社に落とされた
これはウスウス感じていたことが当たったなと思う経験である。
「この会社は日本のオペレーションを閉鎖する。私もそのうち辞めないといけない。そこで徳永さんには、私が次に行く会社で雇いたいから少し辛抱して。」
と言われ、信じて待っていた。結果的には自分が甘かった。
「徳永さん入社の承認がおりてるから、余程のことが無い限り落ちない。面談したらすぐ入れる。プロジェクトも給料もすごく良い」みたいなことを言って期待値が上げられていた。
辛かった日々が続いていたが、今より断然有名な会社に行けるなら良いなと思い待っていた。そしてついに連絡が来たのである。
「今度面談があるから、意思確認だけして終わり。リラックスしてね」
と呼ばれた。そしたら、偉い方が2時間弱くらい面接をしてきた。それなりに準備していったが、面談ではなく完全に(圧迫)面接だった。
その後連絡が途絶えて、3週間後。
「徳永さんは入社の意思がまったくないようだ。他のことがしたいのではないかと思う。」
というフィードバックだったことに加え、余程のだった、という理由でその会社に落とされた。そのときは、この業界や転職ってほんとに厳しいんだなと思ったが、振り返ってみると私が甘かった。
自分のキャリアを人に頼るということほど愚かなことはない。
期待した自分が甘かった。と、痛烈に思った。
後で考えてみると、時期も時期であった。なぜに5か月も待たされたのに落とされたのかと思う。おそらく、クローズ処理が一段落したというのを知っていたからであろう。
大人ってこんなもんか
と思った。これを裏切りというのか。とも思ったが、自分が甘かっただけだ。無知すぎた。裏切りではない。自分が甘かった。
本音を言うと、当時はその社長を心底憎んだ。これまでありえないクローズ処理を頑張ってきたのに、この仕打ちは何だよと、心から憎んだ。あなたが全取引先に謝罪すべきだ。なんで下っ端の自分と○○さんに押し付けたんだよ、と心から憎んだ。もちろん、選考に落とされたメールにも返信をしなかった。余裕はなかった。
しかしその後、時が経つ今、別に何も思っていない。この文章を書いていても特段の怒りもない。むしろこのような貴重な経験に感謝すらしている。なぜなら、こんなに貴重な経験ができる人はおそらく多くは無いだろう。そういう経験はしたくはなかったし予想できなかったが、多くのことを学べた。みんなが経験すべきものでも無いと思う。ただ、時が経つとこうして話のネタにもなる。感謝したい。
話を戻すと、面談の後しばらく連絡が途絶えていた。察したので、いろいろな会社を受けはじめた。大好きだったウェブサービスの会社も受けていった。多くの会社に応募したが、無名の会社の三年目のぺーぺーは有名企業の書類選考すら通らなかった。書類を通してくれたのは新卒最終面接で落ちたDeNA。そして、もう一つはGREE。ともに超急成長企業であった。mixiに早々に落ちていた。GREEには大学の先輩が勤務していて書類を通してくれたのである。コネって大事だなと思った。「トクって英語できるっけ?」と言われ、「はい、拙いですけど。」とこたえたら、半分英語面接で何だこれ、と思ったがすぐに内定をいただき、GREE入社を決めた。
そんなこんなで転職活動を終えた。転職活動を許してくれた上司と当時の社長。早く転職しなさいと後押しさえしてくれた。ありがたい限りである。上司より一足先に抜けた自分は逃げていたんじゃないかと、その後けっこう悩み頭痛に襲われたが、乗り越えたのだと信じたい。
そして、一社目最後の日のことである。私が会社のThinkPadを返した日は 2011/3/11 だった。大量のExcelとパワポを使い、愛着の湧いていたThinkPadを返した日。その日は忘れもしない大震災の日であった。東京にあったオフィスビルの壁にはヒビが大きく入った。目の前の壁にヒビが入り怖かった。買収元の日本法人の人たちがいつしか合流していて、ガランガランだったオフィスにもキュービクルがあったのだが、かなり倒れ本棚もたおれていた。初めて、自信で机の下に隠れた。みんな無事だった。助かって本当によかった。しばらく待ち、私は徒歩3.5時間かけて帰宅。帰途、こんな会社には絶対戻らないと思った。
本当に記憶から離れることのない一社目の経験であった。
考え方の変化
1. 人や会社に過度な期待はせず、助けることを意識する
この経験は強烈だった。新卒で入った会社が急にこんなことになったのである。会社に期待をして頑張ったけど結局最後は謝罪行脚のクローズ処理。げっそり体重が減って家族にも心配された。
こんなときに思ったのが、人は結構簡単に見捨てるものなのかもと思った。新卒同期の @yutabnbn が言っている言葉を借りる。
もろにこれを学んだ。人を思いやり助けることは絶対に忘れてはいけないこと。
組織というのはこんなにも脆くもなることを知った。でも、当時の上司とお互いに助け合い、なんとか踏ん張れるところまでは踏ん張った。外にいた人にめっちゃ辛いって愚痴りまくってもいた。みんな温かい言葉をかけてくれた。助けるって大事だなと思った。
私がチームや組織を強烈に意識するようになったのはこの経験かもしれない。全社戦略が変わるとがらっと変わる。この経験は自分に取っては悪い方向に変わった。なるほど、人の気持ちなんて組織には響かないもんだなと思うと、周りをとりあえず助けたいと思うようになった。このあたりは、ロジックがない。
助けられると本当に嬉しい。助ける方も嬉しい。そして、学べる。これが今でも糧になっている。
他人には過度な期待せず、助けることは忘れないでいようと思っている。
2. 自分のキャリアは自分で作る
言わずもがなである。これは私のキャリアである。ほかの誰のものでも無い。自分で作る以外ない。
一社目で入社した企業は「ベンチャー企業」と言われたのを新卒面接プロセス中、何度も聞いていた。しかし、ベンチャー企業、言わゆるスタートアップは急成長を目指し、組織もビジネスも急拡大させる新しい企業がスタートアップである。
この会社は人は増えない。売上もほぼ横ばい。人数は30人くらい。これは中小企業である。「外資コンサル」かつ「ベンチャー企業」という言葉使っていた。
私は新卒で外の世界を全く知らなかった。「社長」の影響力は絶大で、言葉に酔わされてしまうこともあった。しかし、受け入れるから待て、と言われていた会社に落とされた経験から、ふと我に返るチャンスをもらった。
これは自分のキャリアである。そのために必要なスキル、マインドセットをしっかりつけないとなと思った。
小島さんの言葉を借りれば、外のモノサシを持つことはとても大事である。自分のキャリアを作るためにも、いったい自分の価値は何だろう?これから目指す姿になるためにはどんなギャップがあるだろう?と知る上でもとても大事である。
3. 成長産業・成長企業で働くことを意識する
転職活動をする上で今でも意識しているのが成長産業であるかどうか、という点。「外資」だからキラキラではない。このような衰退企業もあることを忘れてはいけない。外資への憧れ、のようなことが新卒の時にあったのも事実。今ではありえない。
訳わからず外部に放り投げると、労働市場の中でのサバイバルプランを考える良いキッカケになった。
名も知られない衰退企業の新卒三年目、スキルセットも曖昧。コネも少ない。これといった個人の確たる実績も無い。こんな人、誰がリスクをとって雇うのか?とふと思った。はっきり言って、そこからの転職活動はめちゃくちゃ不安であった。國分さんもまったく同じことを感じていたようだ。
将来のためにしっかりスキルをつける。実績を出す。それに、成長産業や成長企業で働こうと思った。成長産業や成長企業は、様々な新ビジネス・製品があれよあれよと出てくる。人がいつも欲しい。労働市場も流動性が高い。過去の失敗や上手くいった経験、仮想的に経験したことを新しい企業で活かすことができる。汎用的なスキルセットに掛け算で、自分の経験や実績を持てば、労働市場で貴重な人材になれるだろう、と思った。
どんな企業でも色々精進していると知らないうちに猛スピードで成長していると思うのだが、成長産業や成長企業で働いているとこのサイクルがものすごく早いと思う。
衰退企業で曖昧に働くと厳しく、交渉に手札が無いことも学んだ
結局GREEに内定をいただいたが第二新卒としての入社であった。当時の私の給料はGREEの新卒初任給よりも低かったので(笑)、新卒初任給の給料で入社することになった。三年頑張った。そしてこの辛い経験をしても新卒初任給と同じかと思うと同時に、提示された給料が前より高くなって嬉しくもあった(笑)。
外資コンサルでも実態は衰退企業。給料も全然思ったようにあがらなかった。前出るはあるがもう一度言う。名も知られない衰退企業の新卒三年目、スキルセットも曖昧。コネも少ない。これといった個人の確たる実績も無い。こんな人に給料交渉等の手札はほぼなかった。
市場価値を高める、というのをここで強く意識することになった。
中に入ってそれなりに頑張ると、成長企業は給料もあげてもらえる。ベネフィットとしてストック関連のボーナスももらえることもある。嬉しかった。ビジネスが伸び、それに負けじと自分も伸ばせば労働市場でサバイバルできるかもしれないと悟った。
後日談
つい最近、野村さんとお話する機会をいただき、そこでこの経験は修羅場ですね、とおっしゃっていただきはっとしたのです。
今まで、この経験はごく一部の人にしか話していませんでした。先に辞めていかれた諸先輩の方々にも伝えてないことが多くあります。というか詳しくは、ほとんど誰にも話してないです。でもこの話を少しすると、こんな経験をした人、しかも新卒でしている人はなかなかいないですよ、修羅場ですよ、とフィードバックをいただき気づきました。
確かに書いてみるとかなり辛かったなと思えます。当時は、"必死でやるしかない"、"いつか終わる"と思うのみ。しかし、振り返ると、よく乗り越えたなと思えます。辞めるときは逃げているのではないかと、頭痛に襲われる日々が続きました。かなり辛かったとき、PC版のアメピグ(終了してしまって大変つらい)をひたすらに無意識にクリックしていた時があって、精神やばいなと思ったこともありました。アメピグに逃げていました。アメピグが大好きでした。それしかなかった。でも、さすがにやばいと思いました。
この経験は辛かっただけではなく、自身に影響があったんだなと思えています。自分のキャリアやチーム、組織感などに大きく影響しているのだなと思えます。すべてから学びを得て、より心大きな人間になりたいと思っています。
最後の最後にもう一度だけ言っておきたい。修羅場は経験する必要がないならそれに越したことは無い。逃げる勇気もとても大事。自分が組織をリードするときには、修羅場ができるだけ無い組織を作り、成長して学ぶ組織を作りたいと強く思っている。
長くなってしまいました。ここまで読了していただきありがとうございます。それでは。
(カバー写真はUnsplashから拝借いたしました。Photo by Noah Silliman on Unsplash)
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