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【小説】夏風叩く窓際で

 春のように優しい色をした空が広がっている。室内から空を見上げた時にそう感じた外の空気も、日差しを浴びればすぐに熱へと変わっていく。シェーナは日差しを避けるように額に手を伸ばした。

 外に出てきたシェーナは、裏にある畑を覗き込む。先に外へ出て行ったヨヴェの背中が見える。昨日の雨を吸い込んで大きくなった野菜を収穫しているのだ。今実っている野菜を収穫すれば、そろそろおしまいだと言っていたことを思い出す。しばらくは二人で食べていけるほどの野菜が実る畑に屈むヨヴェの頭には、日差し避けの布が掛けられている。

 だから、後ろどころか左右の視界すら不十分になっているヨヴェの目を避けて家を出ることは、簡単だった。ヨヴェの背中がこちらを向いているのを確認すると、シェーナは足音を立てないように道を進んだ。日を浴び続けた地面は、じっと立っていられないほど熱されている。特に石段となればなおさら。飛び跳ねるうさぎのように坂を下っていくシェーナの手には、布に巻かれた何かが握られている。
 もう振り返ってもシェーナの姿が見えなくなったころ、ヨヴェはゆっくりと立ち上がった。覗いた窓の先には、誰もいない。外の明るさに慣れてしまったヨヴェの目には、海の底のように沈んだ闇が落ちているように見えた。



 白い服の裾を揺らしながら、シェーナは緩い坂道を下っていく。足裏から伝わる振動を膝で押し殺しながら、跳ねるように進んでいく。
 肌を撫ぜる風は生ぬるい。浮いた汗を乾かすには十分で、肩まで伸びた髪が肌に張り付くことなく揺れている。黒く艶のある髪が揺れれば、そこにいるのはシェーナだと分かるほどに。

「シェーナ」
 そんな少年を見つけたのは、マキラだった。ヨヴェと同じく畑仕事をしていたマキラは、シェーナが顔を向けるとひらりと手を振る。シェーナはそそと駆け寄り、「おはよう」と挨拶をする。既に太陽は真上に昇っているが、その日初めて会った時にはおはようと挨拶をするのが定着していたのだ。
「おはよう。今日は暑いから気を付けろよ」
 マキラが作ったという小さな塩の結晶を差し出してくれたが、シェーナは首を横に振った。
「いらないのか、美味しいのに」
 そう言って口に放り込んだマキラは、塩の結晶を口の中で溶かしていく。以前ヨヴェが貰ったものを一つ食べたことがあったが、とても食べられるものではない、と吐き出してしまったことがある。思い出すだけで口の中に唾液が滲み出す。

「……メルヴァ、いるかな?」
 手の甲で汗を拭ったマキラは、ああ、と息を吐くような言葉で告げる。
「いると思う。今日はまだ一度も見ていないけれど」
 そう言って、メルヴァの家に続く林へ親指を向ける。光の差し込まないほど茂った緑のせいで、道の先は薄暗い。身震いしそうになる体を強張らせてマキラに向き直ると、ありがとう、と頭を下げる。
「家に入る時は、扉を二回ノックして、『三月の魔女のお迎えです』と言うんだ。そうしたら扉の鍵を開けてくれる。何度か行ったことはあるだろう?」
「ヨヴェと行ったことある。でも、そんなこと言ってなかった」
「魔女の子供は七歳の年に魔女になる可能性があるんだ。だから、むやみに人と関わってはいけない。この合言葉を知っている人とだけ、関わることを許されるんだ。来年までの辛抱さ」
「じゃあ、来年までメルヴァと遊べないの?」

 マキラは唇を歪ませ、どう伝えるべきか言葉を選んだ。決して遊べないわけではない、しかし、万が一メルヴァの中にある魔女の芽が開花すれば、人を襲い始める。その覚悟があるのならば──、と言ったところで、シェーナの保護者であるヨヴェはそれを許すだろうか。
「それは、シェーナとメルヴァで決めることだ。鍵を開けるも開けないも、メルヴァ次第だろう。魔女になれば自分の意思関係なく人を襲ってしまう。きっとメルヴァは、シェーナを襲いたくないだろうから」
「そっか、分かった」
 予想外にすんなりと頷いたシェーナに目を丸くするマキラ。随分と素直だな、と口にすると、だって、と言葉を続ける。
「メルヴァがいやだって思うことはしたくないから」
 背中を向けたシェーナに声を掛ける。もしヨヴェが嫌だと言えばメルヴァに会わないのか。その問いにシェーナは答えなかった。


 太陽が沈み切る前の夕闇のような時間が広がる林は、幼い頃に過ごしていた裏路地を想起させるものだった。しかし今は、メルヴァと訪れた果樹園までの道の方が雰囲気が似ていると感じられ、もう二度と危険な目に遭うわけにはいかないと周囲を警戒して歩く。それは恐怖よりも、誰かを悲しませたくないという使命感の方が近かった。

 しばらく歩くと、特徴的な青い屋根をした二階建ての家が姿を現した。様々な装飾が施された洋風の建築物で、街に出たとしても中々見かけることのない家だ。白い壁は、薄暗い林の中であっても眩しく見える。僅かに差し込む日の光を存分に吸収する様子は、魔女の素質そのものを表しているようだと、村の人々は言った。
 二階のベランダの手すりには石膏の鳥が飾られており、いつもメルヴァがが着ている衣装が揺れている。
 玄関へ続く小道の両脇には、色とりどりの花が並んでいる。綺麗に整えられた庭には、季節ごとの花が咲き乱れる。庭が色を失うことは無かった。

 シェーナは小さく息をついてから、小道を進んだ。玄関の入り口には、なれないドアノッカーがつけられている。ヨヴェはいつもドアノッカーを叩いて呼び出していたが、シェーナの身長ではとても届きそうにない。
 周囲にどこにもメルヴァがいないことを確認してから、扉を三回ノックした。

「……三月の魔女のお迎えです」

 木の葉の揺れる音が大きくなる。

 しばらくすると、扉の向こうから小さな足音が聞こえてきた。近づいてくる足音に一歩下がると、直後に扉がゆっくりと開かれる。
「はぁい」
 柔らかい声が聞こえる。扉の隙間から覗き込んできたメルヴァは目を大きく見開いたが、気まずそうに視線を逸らした後、
「……お迎えどうもありがとう」
 そう言って、シェーナを迎えた。明かりのついていない廊下に紛れるように、メルヴァは黒い衣装に身を包んでいた。

 メルヴァに案内されたのは、玄関から入って左手にある来客用の部屋だった。白と水色の上品な色合いのじゅうたんの上の、縁をなぞるように装飾された大きなソファが一番に目に入る。ベッドかと思えてしまうほど豪華なそれに、シェーナは思わず足を止める。西洋を思わせる室内だが、閉められたカーテンが美しさを隠そうとしているようだった。

「お茶を淹れるから、座って待ってて」
 そう言ってメルヴァは一度部屋を出る。しかしシェーナはソファに腰掛けず、じっとそれを見つめていた。手で押せば、柔らかく沈む。厚みのあるソファに困惑をしていると、お茶を持ってきたメルヴァは「座っていいのよ」と、再度そう言った。テーブルにお茶を置くメルヴァを見つめながら、シェーナはゆっくりと腰掛ける。軽いシェーナでもソファに体が沈み込み、バランスを崩しかけた。

 ちらりとメルヴァに視線を向ける。彼女は向かいのソファにゆっくりと腰を下ろし、少しだけ俯いていた。
「……お迎えに来てくれた人は、招くのが約束なの」
 一体誰との約束なのか、そのことを彼女に教えたのは亡き母しかいなかった。
「行かない方がいいって言われなかったの?」
「マキラはそんなこと言わなかったよ。合言葉もマキラがおしえてくれたんだ」
「……あの人は、そういう人だから。ヨヴェ兄さんにちゃんと言ったの?」
「言ってない」
 悪びれる様子もなくそう言ったシェーナは、真っ直ぐとメルヴァを見つめている。黒く澄んだ瞳は、カーテンで締め切られた薄暗い室内であってもはっきりと見える。
「ちゃんと言わなきゃダメじゃない。きっと心配するわ」
「夕方までには帰るから」
「だとしてもよ。急にいなくなったら気が気じゃないわ。あのときみたいにもしものことがあったら」
 メルヴァの言葉はそこで止まってしまう。わざと止めたのか、その先の言葉を言えなかったのかは分からない。メルヴァはじっとシェーナを見つめ返したあと、お茶をすすった。

「……もしものことがあったら、ヨヴェ兄さんは、今度こそ私と遊ばないようはっきりと言うと思うわ」

 今はまだ何も言われていないが、言葉にしなくとも感じられる圧があった。一度家族を亡くしたことのあるヨヴェが怯えるのは当然のことで、同様に唯一の家族であった母親を亡くしているメルヴァにも、その辛い気持ちは痛いほど感じられた。だからこそ、取り返しのつかなくなる前に身を引かなければならないと感じてしまったのだ。
「もしそうなったら、もうメルヴァと遊べなくなるの?」
「遊べなくなるわね。私といたら危ないから」
 メルヴァは一息つく。「きっとヨヴェはこう思っているわ、──メルヴァは魔女だから、厄を持ってきたんだって。魔女は災いの前触れだから、シェーナが危険な目に遭ったんだって」

 厄、災い、危険。その言葉の意味をはっきり知らずとも、その言葉は成す意味をシェーナは僅かに感じ取っていた。
「ぼくが崖から落ちそうになったのは、ぼくがちゃんと前を見てなかったからだよ。メルヴァのせいじゃないと思う」
「私のせいじゃなかったとしても、人は悪いことがあったらそれを魔女のせいにしたがるの。そうやって魔女は減っていったのよ」
「どうして魔女が悪いの? 魔女は何か悪いことをしたの?」
「……してない。でも、悪いことができる知恵と力があるの」
「知恵と力ってなに?」
「頭が良くてずる賢くて、こう……ぴゅーんって魔法が使えるの」
 まるで魔法を飛ばすように人差し指を揺らすメルヴァの言葉は、上手く紡がれなくなっていく。何も知らないシェーナは、何も知らないままでいてほしかったから。

 ──魔女は知恵と力で、人間に恐れられ、人間を傷つけてきた。
 母が何度もそう言って教えてくれた言葉は嫌になるほど反芻してきた。それなのに、それ以外に魔女の悪徳さを伝える言葉が見つからない。
「メルヴァがもし魔女になったとしても、悪い魔女にはならないとおもう」
「そんなの、分からないわ」
 吐き捨てるように放たれた強い言葉だったが、シェーナは構わず返事をする。酷く落ち着いているように見える彼の言葉は、いつもと変わらずつたない。
「ぼく、魔女のことはよくわからない。でも、メルヴァの中にはすでに魔女の血が流れているんなら、目覚める目覚めないでメルヴァの優しいところは変わらないと思う」
「自分で制御できなくなるのよ。優しさがあるかどうかは関係ないわ」
「……そんなに、血が悪いの?」

 風が窓を叩く。かたかたと音を立てる窓枠は、立て付けの悪さではなく風の強さを伝えている。

「だったら、ぼくにはどんな悪い血が流れているの?」

 ──は。息を吐いたような音がした。空気を切る小さなナイフのようなそれは、一体どちらのものなのだろうか。
「何言っているの。シェーナに悪い血は流れていないわ」
「だれかを傷つけて悲しませるのが魔女の血なんだったら、ぼくも悪い血が流れていると思う。ヨヴェも、メルヴァも、悲しい顔になってるから。ぼくのことを見て、きゅって目を小さくするの」
 メルヴァは反射的に顔を覆った。自分でも意識していないことに気付かされ、今どんな表情でシェーナを見ているかというメルヴァ自身の感覚を信じられなくなったのだ。果たして、上手く取り繕うことができているのか。
 逸る呼吸を押し静め、大きく息を吐く。

「もしかしたらぼくは、魔女なんかよりも悪いのかもしれない。お父さんもお母さんもどんな人か分からないから。ぼくが路地で育ったのだって、悪い血のせいかも。捨てられたのかもしれない」
「……シェーナ、あなた」
 彼が過去のことを口にしたのは、初めてだった。過去のことを問うて困ったように首を傾けるシェーナを見て、到底思い出したくないものだと誰もが感じ、共に暮らすヨヴェ以外がそれを知ることは無かった。
 そんなことない、と言えなかった自分が嫌になる。

「悪い血を持っているなら、人に近づかない方がいいのかな。……ここにももう、いない方がいい?」
 やけに静かで、落ち着いた声色。その言葉に頷けば簡単に納得してしまうような真っ白な心臓を持つ少年に、メルヴァの体が強張った。
「……それでも、」
 ──そうだとしても。
「私はシェーナから離れたりしないわ。毎日会いに行くし、寂しい思いはさせない」
 自分自身がそうだったから。唯一の家族であった母を亡くし、一人で朝を迎える寂しさを知っているから。人が恐れるたった三文字の言葉。まだこの村で暮らすことを許されているだけ幸せ者だ。
 シェーナが何者であっても、彼を想う気持ちは変わらない。
 真っ直ぐと見つめた先に小さく座る黒髪の少年は、穏やかに頬を緩めた。

「ぼくも、同じだよ」

 シェーナの言葉は、静かにメルヴァの心を貫いた。肌の上を走っていた心地悪さが、撫でられるだけで落ちていく。大きくゆっくりと息を吸い込んだメルヴァだったが、言葉が放たれることは無かった。まるでシェーナの言葉を体の芯まで届けるための呼吸のよう。

「……今日、メルヴァに渡したいものがあったから。どうしてもメルヴァに会いに来たかったんだ」
 シェーナはそう言うと、握りしめていた布を開いて、中にあったものを差し出した。マキラと訪れた街の屋台を見つけたガラスの髪留めは、暗い室内でもきらきらと輝き、まるでみずから光を放っているようだった。
 突然視界に入った髪留めに、メルヴァは目を奪われた。

「これ、誕生日プレゼント。誕生日は、年に一回の大切な日だから」
 赤い髪の毛には、どんな髪飾りも似合わなかった。ふわふわとしているとシェーナは言ってくれるが、実際はボリュームがあってまとまらない、わがままな髪の毛だ。髪質のせいで埋もれて見えなくなってしまうことばかりで、言うことを聞いてくれない髪に何度もため息をついていた。
 きっとこれも、似合わない。目を離せられないほど惹きつけられるのに。
「……髪飾り、私には似合わないわ。こんな髪だし」
 そう言って自分の髪を指に巻き付ける。円を描くように渦巻く髪は、メルヴァが少し体を動かすだけでも上下に揺れた。
「そんなことないよ。メルヴァに似ていると思ったから、渡したいって思ったんだ」
 躊躇うことなく放たれた言葉は、メルヴァの心を揺らす。

 シェーナはソファから立ち上がると、メルヴァに近づいた。気配を察知したメルヴァはシェーナから距離を取ろうとしたが、分かりやすく下がった眉尻に、後ずさる足が止まる。そんな表情をさせたいわけではなかった、そんな表情をしたいのはメルヴァも同じだった。
 つま先立ちをしたシェーナの顔をわずかに見上げる。揺れる黒い毛先がメルヴァの肌を撫で、白いばかりのシェーナの肌が眼前に迫っている。思わず目を閉じたメルヴァだったが、頭皮を撫でる優しい感覚にゆっくりと瞼を開けると、先ほどより少し離れた場所にシェーナは立っていた。

 満足げに笑みを浮かべるシェーナは少しだけ歯をのぞかせ、小さく頷いた。
「やっぱり、似合ってる。メルヴァの赤い髪がきれいだから」

 シェーナなりの、真っ直ぐで、嘘偽りのない言葉。まるで空から降り注ぐ太陽の光のようなその言葉は、メルヴァの心をじんわりと温めていく。

 部屋の隅には、忘れられたように置かれているぬいぐるみがあった。埃を被ったぬいぐるみは、窓の外を覗くように首を傾けている。

「マキラは、遊ぶか遊ばないかはぼくとメルヴァで決めることだって言ってた。ぼくはメルヴァとこれからも一緒に遊びたいって思うけど、でも、メルヴァはぼくと遊びたくない……?」

 ──あの春の日のことを思い出す。青と緑が視界いっぱいに広がる場所で出会った日のこと。空いた穴を少しでも埋めるように現れたその少年は、メルヴァの景色を少しだけ色付けた。
 メルヴァは、──首を横に振った。赤い前髪に隠れる瞳は見せないままで。


「ぼくはまだ料理とかできないから、美味しいものを作ることはできない。でも、大きくなったら火を使っても良いってヨヴェも許してくれると思うんだ。そうしたらメルヴァの誕生日に、美味しいもの作ってあげられる。メルヴァはいつも一人できっと寂しいと思うから、その時はぼくが一緒にご飯を食べて、お誕生日をお祝いしてもいいかな」


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