見出し画像

【小説】無題

2022年2月1×日のはなし。




 今回もきっと口先だけだと思っていた。海に行きたいと言うだけはタダで、海までの道のりを調べても実際には行かないし、そもそもこんな冬に海へ行こうという人がいるのだろうか。

 どうせ時間が経てば忘れる願望だと思っていたから、気づけば家を出て、ラジオを聞きながら車を走らせ、そうして今、目の前に海が広がっていることに少々驚いている。

 潮風というのは冷たいらしい。いつも吹き付ける風よりもつんと鼻を突くそれは、確かに海の匂いをしていた。沈みゆく太陽は夕日と呼ばれるものに形を変え、辺りを赤く染めていく。風が立てる波に光が当たれば、青へ赤へ白へ黒へ、海は色を変えている。

 海は、まるでラジオのように鳴いている。ざざ、ざざ、雑音の交じるそれによく似ていた。しかし聞いていて耳は痛くならないし、それを聞いてぼうっとしているのも悪くはないと感じられる。

 隣に誰かいれば良かったのかもしれない。冬の海へ一人で行くような人を見て、人はどう思うだろう。幸い海には誰もいなかった。当然かもしれない。寒波が来た後の砂浜には、所々白い雪が残っている。雪にぶつかった潮風はぐんと冷たかった、のかもしれない。私は普段の潮風を知らないから。これが普通だと言われても、そうなのかと納得してしまうだろう。

 海を見たのは数年ぶりだった。職業柄、長期の夏休みが存在しないため、海へ遊びに行くことが無くなっていた。それに、この年になってくると足を出すのが憚れる。他にも腹、二の腕、そう考えれば、冬の海は肌を出さずに済む。

 だから私は、海に来たのだろうか。そう言っても、人は私を奇怪な目で見るかもしれない。だからってどうして冬なんだ。春の方が温かいだろう。それを分かってくれない人には説明したくない。

 太陽がゆっくりと沈んでいく海を見ていれば、私を呼ぶ声が聞こえた気がした。だから私はここへ来たのかもしれない。理由なんていくらでもある。


 靴をそろえ、タイツを結ぶ。足に纏う潮風に破廉恥だと笑えば、スカートがふわりと舞い上がった。


 砂浜に足を付ければ、思っていた以上に温かくはなかった。太陽の温もりを吸収しても冷えた空気がそれを奪っていくのだろう。冬の砂浜は歩きやすい。数歩歩いてから振り返れば、そこにはもう足跡は無かった。私がここへ来たという事実を消し去る潮風は、どうやら私を帰すつもりはないらしい。

 近づくごとに、私を呼ぶ声も大きくなる。だから私は歩みを進めるし、その先が海であっても構わなかった。

 はじめに私を捕まえたのは、子供だったように思う。私の足に触れるようにぶつかり、じっとこちらを見上げてくる。なあにと言っても子供は反応せず、すぐに去ってしまった。

 次に来たのは、高校生だろうか。足を強く掴まれたせいで、体が少しふらついた。十歳離れた弟はいくつになっても子供に見えるが、二十歳になれば弟も大人になる。目の前の高校生を見て、そんなことを思った。

 ふと足を止める。厚い生地のスカートは海水を吸い込み、重くなってしまった。もう少し軽い生地のものを履いてくれば良かったと思ったのち、海が私を呼んでいるのであればこうなるのは当然なのかもしれないと思い至る。重たくなったスカートでさえ、私を海へ向かわせる。

 波に押され、私の足は酩酊したように前へと進む。三歩進んで二歩下がる、それを繰り返しながら、海は私を優しく抱きしめようとする。腰に回された手は冷たかった。触れようとしても触れられない。海の手は触れられないほど柔らかいのだ。

 高校生に押され、子供に手を引かれ、私の目の高さには太陽がいた。水平線に消え入りそうな夕日も、海に抱きしめられていく。


 大きく名前を呼ばれた。


 はっと顔を上げれば、海は私を強く抱きしめた。それは、犬が顔を嘗め回すような愛情表現だった。巻き込まれた空気が母の元へ戻ろうと浮上していく。それが頬に触れてこそばゆい。ぐっとこらえて目を瞑っていれば、感覚は消えていく。ちゃんと帰ることができたようだ。

 空気がいなくなって目を開ければ、そこは暗かった。光が入らないのだ。暗闇での行動に不慣れな人間ではすぐに順応できない。でも、海が私を抱きしめてくれている事だけは分かった。背中に回された手は、強く、私を離さまいとしている。抱きしめ返せば、確かに海の感触がそこにあった。だから、暗くても怖くはない。再会を祝うように、私たちの周りを魚のように回るものがいる。私の手を引いてくれた子供も、背中を押してくれた高校生も、見知らぬ大人だって、私の名前を何度も呼んでくれた。

 帰るべき場所はここなのだと錯覚した。視界が歪み、流れ出たものは海へと溶けてゆく。どうか私は溶かさないで。海と一緒になるのであれば、私は透過された方が海は綺麗なままだ。


 海の心地よさに抱かれ、柔らかさに包まれる。重たくなった瞼を下ろせば、海はまた、私の名前を呼んでくれた。









 ────海が来いと、私を呼んだから。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?