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【小説】打つ透明

 冬の寒さが、シェーナがかつて暮らしていた路地裏の刺すような空気を思い出させるように、湿気を含んだじわりと汗ばむ夜が訪れると、ヨヴェの脳裏に赤い夜が蘇る。

 今でも肌に残る焼けるような熱気は、ヨヴェの肌の感覚だけを蝕んでいく。いくら肌を覆っても擦っても消えてなくならないそれに慣れてしまうことだけはあってはならないと思いながら、慣れなければ傷が抉り取られてしまうため、心を落ち着かせるほかなかった。慣れるということはすなわち、それだけ日にち薬が効いて来てしまっているということだ。少しずつ記憶から零れ落ちてきていると感じざるを得ない。

 明かりが全て落ち切った夜。その晩に見えた美しい夜空が掠れて見えなくなるほど大きく上がった火柱が、今でも魔物のように見えてならない。

「──ヨヴェ?」
 目の前に現れようとしていた赤い魔物は、飛び込んできたシェーナの顔で追い払われた。瞬きを忘れてしまうほど見入っていたようで、瞳がひりひりと痛む。何度も瞬きをするが、すぐに潤うことは無かった。

 ヨヴェは口元を手で隠し、眉尻を下げた。
「どうしたの、シェーナ」
「こわい顔、してた」
 乾いた瞳を潤すために何度も瞬きをする。その間も繕った穏やかな表情を崩さないように、シェーナの真っ直ぐな視線に見つめ返していた。
「ごめんね、もしかしたら、もう眠たいのかもしれない」
「じゃあ、洗いもの、ぼくがしてもいい?」
 水につけたままの皿が、キッチンに残されたままだった。少し休んでからと椅子に座ったまま、長く意識を手放していたようだ。包丁などに触れると危ないからとシェーナには洗い物をしないようにと言いつけていた。しかし今日は包丁を使わなかったため、シェーナの届かない位置に片づけてある。

「じゃあ、お願いしてもいいかな。落として怪我をしないように気を付けてね」
「うん!」
 明るく返事をすると、椅子からひょいと降りてキッチンへと向かう。小さな台に乗ってようやく届くシェーナは皿を洗い始める。見て覚えたにしては慣れすぎたような動きに、普段から感じている視線の意味を知った。

 いつも椅子に座って待っていれば良いと言っても、同じようにキッチンに立つシェーナは、ヨヴェのことをずっと見ていた。
「どうしてそんなに見ているんだい?」
「ヨヴェがけがをした時、すぐに手当てをしなくちゃいけないでしょう?」
 はてさて、シェーナに手当ての方法を教えたことはあっただろうか。ヨヴェがシェーナの手当てをすることはあっても、その立場が逆になることは無かった。これもきっと、目に涙を貯めながらでもヨヴェの手元を見ていた証なのだろう。

 ヨヴェは固まった頬を両手でほぐすと立ち上がり、キッチンの横に立った。小さな手で持つには、皿が大きすぎる。落とさないように両手で持ち上げ、ゆっくりと回して洗っていく。膨らんだパンのような手を見て思わず声を漏らすと、
「ちゃんと出来てるでしょ?」
と、シェーナは背筋を伸ばした。大きな皿にてこずってはいるようだが、汚れはちゃんと落としきれている。
「うん、上手だよ」
 その言葉にシェーナはきゅっと唇を結び、儚げに誇った。消え入りそうだなんて言葉が安っぽく聞こえるのは、日毎に成長していくシェーナが儚さを失いつつあると知っているから。七歳までは神のうち、それまでは彼に儚さが残り続けると願うあまり、出会った当初の面影から変わりつつあることに抵抗できなかった。



 緩やかに役割を取り戻した聴覚が捉えたのは、静かに地面を叩く雨の音だ。ノイズのようにも聞こえるその音は、聞き慣れれば子守唄にも聞こえるほど穏やかなものだった。リズムを狂わせることなく降り続ける雨は、村に静かな眠りを落とす。

 ──あの夜は、雨が降らなかった。
 雨季の合間に現れた青空は人々を外へと駆り出させ、疲れた身体を癒すために深い眠りへと誘った。それが不幸にも赤い悪魔の襲来への気づきを遅らせ、そのまま命を失った者がいた。眠るように、熱も心地よく感じてしまうほど深い眠りの中で逝ったことを祈るほかなかった。

 せめて、雨が降っていれば。
 赤い魔物があれほど大きくなることはなかっただろうに。今晩が雨の日であることに心を撫でおろす。果たして、赤い魔物が現れるほど消し忘れた明かりがあるかと言われれば、それは無いはずだった。赤い魔物が人を吞み込んで以降、ヨヴェが明かりの確認を怠ったことは一度もなかった。
 今日も何度も確認した。だから、奴が現れることは無い。それでも、赤い魔物は今も見つめているのだ。本来の体である炎を脱ぎ捨て、あらゆる赤に化けて出てくることなんてきっと容易い──。

 シェーナを危険に陥れた赤い花もきっと、奴に違いない。
 そう思えてならなくなった時、隣で眠るシェーナを覗いた。優し気な表情で目を瞑るシェーナの静かな寝息は、雨音に交じっていく。今夜も悪夢を見ていないようだ。
 果たして僕も、過去の記憶に脅かされることなく眠れるだろうか。

 乱れたシェーナの髪を撫でる。直接肌には触れなかったが、ぴくりと体を動かしたシェーナの瞼がわずかに開いた。
「ヨヴェ……?」
「ごめんね、起こしてしまった」
 夢うつつのシェーナはシーツに顔をこすりつけ、言葉にならない声を発する。
「……あめ、降ってる」
「うん、明日も雨だろうね」
「……明日はなにする?」
「どうしようか、何かしたいことはある?」
「……おえかき、する」
「いいね、じゃあ明日準備しておくよ」
 目覚め切らない脳で言葉を紡ぐシェーナは、ふと、目の前にあったヨヴェの手に指先を伸ばした。小さな指は人差し指をわずかに隠し損ね、しかしそれは逃さまいと力の込められたものではなかった。いつもより増した温かさをじっと見つめる。
「寝れなかったら、あたま、撫でる」

 半分髪で隠れた顔は幼く丸みを帯びていたが、それが発した言葉は、ヨヴェの心を完璧の読み取った上の模範解答のような優しさがあった。どうして的確にその言葉を発せられるのだろう、まだヨヴェの半分の人生も過ごしていないシェーナは、ヨヴェから何を感じ取ったのだろう。
「……ありがとう」
 だからヨヴェは、静かに頭を枕に乗せるほかなかった。

 小さな指の間に髪が入り込む。髪に絡まることなく滑り落ちたあと再び乗せられた手のひらは、ひどく優しかった。
 誰かに触れられることがこれほど温かいと気付いたのは、シェーナがこの家に来てからだ。一人で眠っていたベッドにシェーナを招いた。当時細く折れてしまいそうな体のシェーナだったが、確かに体は温かった。寒空の下でうずくまっていたのに、体の芯にはまだ温もりを秘めていたのだ。それが布団の中でじわじわと発熱し、その晩は心地よい眠りだったことを覚えている。
 それは今も変わらない。むしろあの頃よりも温もりを増して、シェーナは隣で眠っている。撫でていた手が次第に力なく落ちてきた頃、シェーナの顔を隠していた髪をゆっくりと耳に掛けた。

「……シェーナ、お絵描きは今度でもいいかな。行きたいところがあるんだ」
 聞こえていたかは分からない。シェーナの小指がぴくりと曲がったことだけが、僅かな意識の存在を教えてくれた。



 しとしとと降り続ける雨の中、二つの傘が並んで道を歩く。シェーナの手が塞がらないようにと大きな傘を用意したが、シェーナは自分の傘を持ち出して「これで行く」と告げた。一体どこから引っ張り出してきたのかと思うほどすす汚れた傘には小さな穴がいくつも空いていたが、それでも構わないと言って傘を開いた。傘の中で眠っていた虫が、床を叩いて落ちる。転がった虫は逃げるようにシェーナから離れていった。

「前を見て歩かないと、転んでしまうよ」
 穴から入り込む雨をじっと見つめながら歩くシェーナに声を掛ける。空に向けられていた顔をヨヴェに向ける。
「今日は、どこに行くの?」
 そういえば、目的地をまだ伝えていなかった。お絵描きの予定を変えてまで行きたかった場所を、シェーナは楽しい場所だと思っているのかもしれない。
「すぐに着くよ」

 さほど遠くない場所にあるのは、それが数年前まで他と変わらぬ姿で本来の役目を全うしていたからだ。骨組みだけになった家は残されたまま、家族を亡くした者の傷が癒えるのを待ち続けている。
 もう建物としての原型を僅かにしか残していないそれを見上げたシェーナは、これはなに? と首を傾けた。通りすがりにしか見たことのないこれが一体何だったのか、この村に来た時からこの姿であったため、シェーナにはかつての姿が分からない。
「家だよ」
「屋根がない……。かべも、扉も」
「燃えて、無くなっちゃったんだ」息を吸う。「──僕が住んでいた家だよ」
「ここ、ヨヴェの家なの?」
「そう。燃えて暮らせなくなったから、今の家に引っ越したんだ。シェーナが来たのはその後だよ」
 そうなんだ、とぽつりと呟き、再び黒い骨組みを見上げる。焼け焦げた柱はまだ自立しているが、長く雨風に晒されているため、いつ倒れてもおかしくない。近くに家や畑が無いことだけが幸いで、早く片付けろと口うるさく言う人はいなかった。だからこそ手入れされるわけでもないのに残骸のまま放置され、それが風化していくことだけを遠目に眺めていることになってしまったのだ。

 残骸を見つめるシェーナには、それがどう映っているのだろうか。この悲劇を悲劇だと理解し、大きな赤い魔物の存在を想起することが──、きっと、出来るはずがない、それをヨヴェが教えていないから。
 黒い残骸が散らばる中に足を踏み入れる。木屑は少し体重を掛けただけで簡単に折れてしまう。
 しゃがみ込んだヨヴェは、残骸に目を向けた。
「なにしてるの?」
「……探し物」
 ここを片付けてしまえば、傷も早く癒えたのかもしれない。村の者が何度も代わりを請け負おうとしたが、ヨヴェは頷かなかった。幼い頃から過ごしてきた家が無くなってしまうことに胸が痛むのは確かだ。骨組みだけになったとしても、残されたそれを取り壊してしまうのは、とどめを下すような決断が必要だった。

 それ以上に、壊せない理由がある。
 母の骨が、まだ残っているのだ。
 父と兄の体は比較的綺麗なままで、彼らの部屋があった場所で見つかった。火元であった母の部屋は屋根が崩れ落ちており、ヨヴェが逃げ出した時にはすでに手遅れだと悟った。既に逃げ出していないのであれば、母さんはもう。見つかったのは母が肌身は出さずつけていた結婚指輪だけだった。

 母の骨は、何一つ見つかっていない。
 それを見つけないことには、この場所を片付けられない。

「ぼくもさがす」
 軽いシェーナの体でも簡単に砕ける残骸。隣に腰を下ろしたシェーナは同じように視線を巡らせた。
 何を探しているとも伝えていない。シェーナはじっと黒いだけの地面を睨みつけ、傘の柄を強く握りしめる。
 一度も向けられることのないヨヴェの鋭い瞳は、未だに母の骨を探している。
 視線が骨を探しているだなんてことに気づかないまま、二人の足元を濡らす雨だけがいたずらに強くなっていった。同時に、言葉も拙い子供を連れてくる場所ではないと、ヨヴェの心を少しだけ威圧した。

 同じように腰を下ろしたシェーナ、もしかしたら目の前にあるかもしれない誰かの体の一部に気づくことが無ければ良い。そうすれば、誰かを失う悲しみそのものを知らずに済むのだから。たとえ母が粉々になっていようとも、シェーナの心までもを簡単に崩れてしまうほど脆くさせる必要はないのだ。

「……シェーナ、帰ろうか」
 だからこれは、不正解なのだ。苦しみの共有は、時に人を押しつぶす。彼の優しさに甘えてしまった。
「でも、まだ見つけてないよ」
「いいんだ、きっと見つからないから」
 心のどこかで分かり切っていたことだった。赤い魔物が家を覆い尽くしてから幾年か。雨風に打たれ、獣が踏み荒らし、拾い上げることもできないほど粉々になっていれば、土の養分となるほかない。

 立ち上がり背中を向けたヨヴェは、再びシェーナの名前を呼んだ。その声が初めて、酷く寂しく聞こえたものだから。思わず彼の名前を大きく呼んでしまった。
「ヨヴェ、ぼく、さがすよ!」
 雨音を打ち消すように、張りのある声だった。
「ヨヴェが大切なもの、ぼくがさがす。そうしたら、ヨヴェ、夜に泣かなくてすむ?」
「……え?」
 困惑するヨヴェに構わず、シェーナは続けた。立ち去らずに踏ん張る小さな姿が、不動を決め込んでいる。

「ヨヴェ、たまに泣いてるよ。熱い熱いって。だからぼく、ヨヴェの頭撫でるの。ヨヴェがいつもぼくの頭を撫でてくれるから。大切なもの、見つかったらもう悲しくならない? 熱いものはヨヴェを襲わなくなる?」

 はっきりとした声だった。それはいつも以上に張られた声のせいだ。拙い言葉を使っていただなんて、勘違いだったのではと思えるほど。知っている言葉で懸命に訴えかけるそれは、どれも優しかった。だからすんなりと心に落ちていくのが、こそばゆい。
 これまで誰も掛けることのなかった言葉が、はっきりとぶつかってくる。それが確かにヨヴェを想い、心配し、力になりたいと訴えかけていることが、ひしひしと伝わってきた。
 ──ヨヴェ。
 名を呼ぶ声が、もう忘れていた声で再生される。人が一番に忘れるのは声だというのに、昨日まで聞いていたかのようによみがえってくる。

 心の底で眠っていたものが、疼いた胸元から湧き上がりそうになる。それは痛みでも苦しみでもなく、記憶だ。忌々しくヨヴェを掴んで離さない、家族が死んだ日の記憶。心の底へ、感情と共に沈み込ませたそれは、引っ張り上げられるように浮き上がってくる。吐き気にも似たそれに思わず口元を押さえる。嗚咽が漏れる。
「ヨヴェ!」
 傘を放り出して駆け寄ってきたシェーナは、小さな手で何度もヨヴェの頭を撫でた。うずくまるヨヴェと同じ位置で、そこに立っている。目の前。すぐそこ。指を伸ばした先に。

「…………帰ってきてほしいんだ」
 言えなかった言葉。言ったとしてももう叶わなかった言葉。
「大丈夫だよ。ぼくはここにいるよ」
 屈んだヨヴェの体は、傘に隠れてしまっている。そのせいでシェーナの方が大きく見えてしまうけれど、今はそれだけがヨヴェを包み込むために必要なものだった。

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