【エッセイ】春を意識する
大人になると、青空を見る機会は減るのかもしれない。
太陽がちゃんと昇り切る前の朝。まだ淡い白の多く混じった色をした空。意識して顔を上げることもなく車に乗り込み、ハンドルを握る。雨が降っていたら今日は少し気分が上がらないな、なんてことは思っても、わざわざ灰色の空を見上げるようなことはしない。フロントガラスに落ちる水滴とその音で、憂鬱な一日は始まる。
運転免許を取ってから、私の移動手段は車が常になった。徒歩十分の距離にあるスーパーにも車を使う。だって荷物を持って歩くの疲れるもの。
高校生までは徒歩自転車電車ばかりを利用していた。小学生の頃から通学のために長距離を歩いていたから、ふくらはぎには程よい筋肉がついていたけれど、今はどうだろう。ふよふよのお肉しかついていない。
車を運転するようになってから無くなったのは、ふくらはぎの筋肉もそうだけれど、空を見る機会も減ったように感じた。あんなに空を見上げてはスマホを掲げていたのに、最近の写真フォルダには青い空が見当たらない。スクロールしてようやく見つかった空の写真を見て、懐かしさを感じている。
仕事上室内にいることがほとんどで、外に出るのは月に一回か二回ほど。窓から見える空もわずかで、今日が暑いのか寒いのか、風が吹いているのかじめっとしているのか、人の話を聞いてようやくその日の天気を理解する。
仕事を終えて事務所から出て冷たい風に顔を打たれた時、「ああ、今日はこんなに寒かったのか」と気づく。
高校生の時、夏と冬の移動教室は腰が重たかったことを思い出す。エアコンの効いた部屋にずっといたいのに、授業のために外に出なければならない。余裕で三十度を超える真夏の日、窓の外が白くなるほど雪の降る日もあった。暑いね寒いねと言いながら歩く廊下。「暑み」「寒み」とまるで人の名前を呼ぶように連呼していた日々があった。たまに「暑お」も出てくる。
下校途中、雨上がり。目の前の山の麓から伸びる虹を見つけた。空はまだ鼠色で濁っていたけれど、ひときわ大きく見えた虹を指差していた制服姿の私たちは、きっと青い空が無くとも、青春を感じていたのだろう。
通学時の電車の窓から、教室の窓から、下校途中の公園のブランコで、電車を待つ駅のホームで、そして週末は、自室の窓際で。
当然のように私の視界にあった青い空は、私が見上げなくなったことで、当たり前ではなくなってしまったのかもしれない。卒業して連絡を取らなくなった友人のように、徐々に距離が開いていることに気づかないまま。ふと思い出した時に、久しぶりにLINEのプロフィールを開いて、別人のように変わっている姿を見つける。果たして空も、全く異なった色をするようになっているのだろうか?
青い空。春の優しさに包まれたような、少し淡めの青は、夏の青空ほどではないけれど、眩しくて、釘付けになってしまった。
思わず車の窓を開ける。少しだけ冷たい風が、太陽で温められた車内の空気と入れ替わる。三寒四温の三月の中で、少しの寒さと多めの温かさを詰め込んだような風を吸い込んで、春の匂いがする、そう感じた。
まだ空を彩る桜は咲いていない。山間の集落を走る風は、自然のかおりを多く含んで、新鮮というだけなのかもしれない。芽吹きだした緑を巻き込んだ風は穏やかに、春の知らせを振りまいていく。
雨の降る日が多いが、それでも少しずつ春が近づいているのだと思うと、少しだけ嬉しかった。
四月に満開を迎えると予想されている桜。見に行きたいなと思うのは、青い空を見たからかもしれない。
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