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【エッセイ】ふっと一息。

 地面ばかり見ちゃいられんと思うと同時に、顔を上げすぎても疲れると思うことがある。



 段々気温が上がってきて、あっという間に夏が近づいてきている気配がする。一カ月もすれば六月の末、ということは夏も間近。
 心地よい夜の眠りを妨げる蒸した夜がまだ来ていないことにほっとしつつ、きっとそんな日がすぐに来るのだろうと思うと毎夜々々を噛み締めて眠らなければならない。

 少し暑い夜に窓を開けると、冷たい空気が入り込んできて、それが心地よい。エアコンをガンガンに効かせた寒いくらいの部屋で布団を被って眠るのが気持ち良いのと同じで、少し肌寒い部屋で眠るくらいがちょうど良いのだと思う。眠る前の火照った体を冷やしてくれる、夜風は自然の扇風機。


 どうも五月は体が重たくて仕方がない。季節柄か別の要因か。何をしても気が乗らず、「なにをやっとるんだろうか」と思いながら仕事机と向き合う日々。果たして椅子に座っているだけなのかと言われればそんなことは無い、やるべき仕事はこなしているし、たまのミスは許してほしい。
 それでもたった一つのミスが大きく見えてしまうのは、その他のできて当たり前のことがどんどんと小さくなってきているからなのかもしれない。そのためには、新しい業務の携われるように学ぶことが必要になってくる。


 そんな鬱々とした気持ちの時は、本でも読もうかねと思うのだ。そうすればこの気持ちも少しは紛れるかもしれない。
 終業し帰宅、気づくとスマホの画面を見つめて一時間が経っている事は何度もある。おやまたこんな時間。あんなに帰宅したら本を読むんだと意気込んでいたのに、帰宅した途端にこれだ。
 最近始めたどうぶつの森ポケットキャンプは3DSやswitchのものよりも複雑性が無くて楽しい。もしかしたらおしゃんな建築や街並みを作ることは向いていないのかもしれない。自分のキャンプ場をメイクアップしようとしても、結局気に食わなくて最初に戻る。悲しきことかな。

 家に帰るとやる気が削がれてしまうということは誰しもにあることで、実際SNSを見ていると同じような経験をしている人は多いらしい。
 そんな時に「また何も得ない時間を過ごしてしまった……」と就寝直前、寝て起きれば仕事に行かなくてはならないという憂鬱と共に自分のだらしなさに悲観してしまう。


 こうしていつもと変わらない日々を送っていると、何事も成せない自分に嫌気が差すことがある。仕事でも私生活でも、何かを得たり成したり、「自分がやり遂げた」と思えることが無い日々が続くと、どうしても自分の価値を見失ってしまうのだ。

 人は成長し続けることができる生き物だ。学び、経験し、知識を得ることで必ず新しいものを見つけることができる。きっと他人がそうであると無意識に感じているからこそ、自分の足りなさが痛く刺さってくるのだ。


 では、自分にできることとは何だろう。
 自分がやりたいことは何だろう。

 そう考えた時に一番に出てくるのは、文章を書くことだった。小説、シナリオ、エッセイ、その他言葉や物語を紡ぐことができれば良い、と幾度となく思うのだ。

 だからこそ、私の中で何かを成すことということが、「作品を作り上げること」に変化してきていることに気づかなければならない。

 充実したい、何かを成し遂げたい、満たされたい、と思うのであれば、常に何かを生み出さなければならない。そうすることでようやく自分の心を満たすことができるのだと、明確に言語化しておかないと、それはもやもやとした塊のまま目の前にあり続けるだけだ。



 好きなことをいつまでも続けていくこと、それが仕事になっても趣味のままであっても変わらないのは、切り離しても切り離すことができないものであるということ。
 小説を書くことを一度辞めた私が再び言葉を紡ぐようになったのは、その時から既に私の心を満たす条件が「作品を作り上げること」だったからであろう。


 夢は大きく、期待は小さく。
 承認欲求が強い時はそうイメージして。


 とりあえず、ふっと一息。


 今晩もきっとどうぶつの森ポケットキャンプをするのだと思う。
 私の中でブームが過ぎるまでは、お相手頼もう。

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