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【小説】夕焼け、のち、嵐。

 月明かりだけが頼りの夜道を、歩いていた。

 周囲に目印となるものは何もない。家も、畑も、整えられた道も。ただ真っ直ぐ、その先に見える小さな光を目指して歩いていた。
 そこに何があるのかは分からない。しかしシェーナは、向かわなければならなかった。誰かにそう言われたわけではなく、自分から光を目指したはずなのに、そのほかの全てが分からないなんて。きっとだからこそ、光に向かうしかなかったのだろう。

 光の向こうにシェーナの求めるものがあると信じて、歩いて行くしかなかったのだ。



 寝室から出ると、玄関の扉を開けるヨヴェの姿があった。それは既に後ろ姿で、この時期にようやく相応しくなった羽織が、入り込む風でふわりと広がった。シェーナに気づいていないヨヴェに「おはよう」と、声を掛けるが、彼は少し視線を向けただけで、すぐに視線を外へ向けてしまった。

「おはよう。少し出てくるね」
「……分かった」

 それから、風の勢いで強く閉まった扉をしばらく見つめ、入り込む風の音を聞きながら冷たくなった床板から足を離せなかった。

 キッチンには今朝採れたばかりの野菜が並べられている。少し小さくなった葉物から一枚ちぎり、食べやすい大きさにして皿に盛りつける。その他最後の収穫となった野菜たちを盛り付けると、皿を両手で持って机に置く。椅子に手を付いて、ひっくり返らないように慎重に座る。以前であればヨヴェが椅子を支えてくれたが、今この家には誰もいない。壁に吹き付ける風がこつこつと叩く音が聞こえているだけで、シェーナに優しく話しかけてくれる者は誰一人としていないから。

 ……いいの。一人でもちゃんと出来るから。
 危ないからと使わせてくれなかったナイフも、今は誰も使うことを止めない。皿洗いも一人でできるし、ベッドも綺麗に整えられる。しかしいくらそれらをこなしても、見てくれる人は誰もいないのだ。
 ──すごいねシェーナ。
 頭を撫でてくれる人はいない。その人はいつも、朝早くに家を出て行ってしまうから。

 軽めの朝食を終えて皿を洗い終えた頃、扉がノックされる。風が叩いたのではない軽快な音に顔を向けると、扉が開かれ、その先に大きな袋を抱えたマキラが立っていた。

「おはよう、いつも朝早くに悪いな」
 とても二人分とは思えない大きな米袋を抱えたマキラに駆け寄り、それをキッチン横の台の上に置いてもらうようお願いをする。シェーナの二倍ほどの重さの米袋は、ヨヴェでさえいつも重たそうに持ち上げている。
「取れたての新米さ。今年は出来が良いんだ」
「マキラのお米、おいしい」
「そう言ってくれたら作り甲斐があるってもんよ」

 米袋を置いたマキラは肩を回しながら室内を見回す。
「ヨヴェはいないのか?」
「うん」
「最近多いな」
 街へ出かけて以降、マキラはシェーナの様子見も兼ねてここを訪れることが多くなった。シェーナが目を覚ます頃には家を出てしまうヨヴェは、マキラと顔を合わせることは無い。
「外でも滅多に会わないが、どこに行っているんだ?」
「わからない。でも、たぶん」そう言ってシェーナは、窓の向こうを指差した。「ヨヴェの、かぞくがいるところ……?」
 以前ヨヴェと共に向かった、かつての彼の家。脆い柱だけが残ったその場所にきっと、ヨヴェは向かっているのと思い込んでいた。
「探してるのかもしれない」
 ヨヴェの唯一の家族。ヨヴェが幼い頃から一緒に過ごしてきた、かけがえのない家族。もう二度と戻ってこない家族の欠片を、背中を丸めて探すヨヴェの後ろ姿が簡単に思い浮かべられた。

 俯いたシェーナが縮こまったような気がして、マキラはその頭に手のひらを乗せた。わしゃわしゃと撫でられた髪は乱れ、その力強さにシェーナは体勢を崩しそうになる。
「何かあったら言えよ。俺も力になるから」
 かさついた手のひらを掲げ、マキラは去って行った。大きな背中は、下り坂に消えるまではっきりと見えた。

 ヨヴェが帰ってくるのは、日が沈み切る前の夕方だった。日の入りが早くなってきてもそれは変わらず、ヨヴェが言った「少し」が意味を成していないことにシェーナは気づいていた。

「今からご飯を作るから、待っててね」
 ヨヴェは控えめな声色でそう言うと、すぐにキッチンに立つ。見るだけで安心する柔和な笑みは無く、日に日にやつれていくように弱々しくなるヨヴェを、シェーナは心配げな眼差しで見つめていた。

「今日、マキラがお米をもってきてくれたよ」
「そうか。じゃあ、お礼を言っておかないと……」
 しぼんだ風船に空気を入れる速さで、「そういえばマキラの顔をしばらく見ていないな」と、気づいたヨヴェに駆け寄る。
「マキラもそういっていたよ。明日、家に行く?」
「……いいや、また出会った時に言っておくよ」
 しばらく膨らんでいた風船も、間もなく萎んでしまった。空気の抜けたヨヴェは野菜を小さく切っていく。とん、とん、とん、一回一回まな板を叩く音がはっきりと聞こえる。シェーナはヨヴェを見上げるが、彼はじっと見下ろすだけで、覗き込むシェーナの方を見ることは無い。大人しく小さく切られていく野菜たちを見つめる黒い瞳だが、シェーナにはそれがどこか別のところを見ているように感じられた。

「ねえ、ヨヴェ」
 まな板を叩く音は止まらない。
「ヨヴェ、ヨヴェ」
 何度も名前を呼んで、ようやくヨヴェは反応を示した。
「どうしたの」
 しかしその瞳は、相変わらずシェーナを見ていない。その背景の室内でさえ、彼の視界には入っていないようだった。シェーナはヨヴェが握ったままのナイフから指を解かせ、シンクに置く。

「いつも、どこに行っているの?」
「どこにも行っていないよ。ただ散歩をしているだけ」
「朝はやくに出て、日がしずむまで、ずっと?」
「そう。朝から晩まで、ずっと」
「どうして?」
「散歩をしてはいけないの?」
「ううん、ちがうよ。そんなにずっと歩いていたら疲れちゃうから。……ぼくが、ご飯を作るから」
「…………だいじょうぶだから」

 虚ろな瞳にどれだけ訴えかけても、それが変わることは無かった。呻き声しかあげられなくなったシェーナは、ヨヴェの手を握る。細くて白い、折れてしまいそうな指。日に日に黒く汚れていく指先からは、かすかに灰のにおいがした。ヨヴェが連れて行ってくれた場所のことを鮮明に思い出せる。爪に入り込んだ灰はゆっくりと奥に沈んでいく。そうしてヨヴェの体の中に入り込んで、ヨヴェの血を汚していくのだ。
「……、っ……」
 何度も言葉を口にしようとするけれど、シェーナの口からは何も出てこない。絞りすぎた言葉は小さな欠片になって、風に吹き飛ばされてしまう。秋風が集めた言葉の欠片は、冬の雪と一緒に凍ってしまうのかもしれない。だからきっと、もう見つけられない。
「ヨヴェ」

 耳に掛けられていた黒髪が滑り落ち、ヨヴェの顔を隠す。薄く唇が動いたかと思うと、細く息が吐き出されただけだった。それに見惚れているうちに、シェーナの手からヨヴェの指は滑り抜けてしまった。
「なんで、ねえ、ヨヴェ、どうしたの」
 ヨヴェは再びナイフを握り、料理をゆっくりと再開する。
「おかしいよ、ヨヴェ。ずっとなにも話してくれない。ヨヴェ、もっとお話してくれたのに、ぼくのことちゃんと見てくれたのに。こわい、今のヨヴェはこわいよ……」
 足にしがみ付きたくなる衝動を抑えながら、必死に意識を逸らそうとする。
 魂が抜け落ちてしまったようなヨヴェに、シェーナは縋ることしかできない。

 ヨヴェも、メルヴァも、異質な瞳でシェーナを見つめる。見知った人が変わっていくことに、シェーナは知らない土地へ来てしまったような居心地の悪さを感じていた。

 帰って来て、ぼくの知っているヨヴェを返して。

「……じゃあ、離れればいいんじゃないかな」時が止まったような静けさ。「そうすれば、怖い思いをしなくて済むから」
 冬の寒さを感じさせる凍てつく矢が、シェーナの体を貫いた。一瞬ぽかんと目を見開いたが、すぐにその言葉の重みを感じ取る。

「どうして、そんなこと言うの……?」
「シェーナが、怖いって言ったから」
「こわいって言ったけど、でもぼくは、えっと、そうじゃなくて」
 適切な言葉が見つからず、しどろもどろになってしまう。突き放されるような言葉を受けて、シェーナは途端に恐ろしくなった。目の前にいるのに、今すぐにでも消え去ってしまいそうに感じられ、慌ててヨヴェの体にしがみ付いた。

「いかないで。どこにも、いかないで!」
 家族を失った時の記憶もない、大切な人を亡くしたこともない。そんなシェーナは、ヨヴェやメルヴァが抱える「亡くす痛み」を感じたことは無く、彼らの痛みを知る術など、そのときが来るまで無いと思っていた。

 いつか人は亡くなる、そんなぼんやりとしていた死への認識が、突然色を増してシェーナを襲ったのだ。
 はっきりと黒い影を纏った、人の形をしたような何かが、窓の外からヨヴェを見つめている。だめ、外に出ちゃダメ。今外に出たら、連れて行かれてしまうから──。

「ヨヴェ、ぼくも、家族を亡くしたらかなしいってわかるよ」

 ぎゅっと胸を締め付けられる上に、眠ることもできなくなるような不安に襲われる。隣に誰もおらず、朝食の良い香りもしない静かな朝は、ぽっかりと穴が空いているように感じられて、いつもヨヴェを探していた。出かけたヨヴェが帰ってこなかったら、朝ごはんも夜ご飯も一人だったら、隣の空白を埋めてくれるのは一体誰なんだろう。そんな代わりになるような人はいないのに。メルヴァでさえ、ヨヴェの代わりにはなれない。

「さみしいの。だから、いっしょにいてほしい。ヨヴェ……」
 ヨヴェの体に手を回して、離れないように自分の手を握る。ギリギリ届いた指先ではするりと抜けてしまうかもしれない。それでもシェーナは、頼りない指先を握り続けた。

 自身の体にしがみ付くシェーナを見下ろす。小さな頭の頂上にはつむじ、右回り。黒く細い髪がうねることなく頭の形に沿って地面に落ちている。ヨヴェはその頭を、撫でることができなかった。
「…………じゃないよ」

 頭上から降ってきた言葉に顔を上げる。なんて言ったの、そう聞くと、ヨヴェはもう一度言う。

「家族じゃないよ、ぼくたちは」

 果たして自分が触れている者が何なのか、シェーナには分からなくなった。

「だから、シェーナに悲しみが分かるわけない」

 蔑むような、大きな黒が覗く瞳。ヨヴェの頭を縁取る明かりが一層眩しくて、どうしてなのかと考えている間に、するりと腕が滑り落ちていく。
 細い腕が肩からぶら下がる。先ほどまで触れられていたのに、少しずつ、霧のように解けていく。

 家族ではない、ではシェーナとヨヴェ、二人の関係は一体何だというのだろう。

 いや、本当はその答え以上にシェーナを埋め尽くすものがある。

 大切な人を失う感覚、目の前が暗く染まる。それが今、シェーナに一番近い感覚だった。

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