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【小説】夜雪と見紛う悪夢

 山の麓から少し離れた場所に広がる小さな村は、夜が深くなる前に明かりを落とす。かつて名のある権力者が辺りを支配していた頃、既に人のいなくなった村だと思わせるためにしていた対策が今も残っているのだ。日が落ちるのと共に床についていた頃よりも村の夜は明るいが、日が落ちて数時間もすれば村は闇に溶ける。

 雪の積もった夜は一段と冷える。村を白く染める雪は山ほどは積もらないが、代わりに村に静けさを落とす。屋根に積もった雪が一向に溶けず、火を焚いても室内はあまり温まらない。湯を張った風呂で体を芯まで温めなければ、夜は眠れないほどだ。

 体が冷えてしまう前に眠ろうと言うヨヴェと共に寝室に向かう。窓から差し込む月の明かりで照らされた部屋は殺風景で、眠るためのベッドが置かれている以外は何もない。

 薄い布団を捲り、体を潜り込ませる。火を焚いたまま眠って燃えた家があるため、それ以降火を焚く家は無くなったのだ。シェーナはヨヴェの胸に顔をうずめ、それに答えるようにヨヴェがシェーナの頭に手を添える。こうして体を温めながら、朝を迎えるために瞼を下ろす。静かな夜だった。



 細い路地を走っている。雪が積もるほど下がった気温の中、額に汗を滲ませていた。
 おい、こっちだ。早くしろ──。
 背後から聞こえてくる声に体を震わせながら、それから逃れようと走り続ける。かれこれ何十分も走り続けて、足の裏から血が滲んできた。途中で脱げた靴を履きなおす余裕もないほど絶えず追いかけてくる男たち。どうして自分を追いかけているのか分からなかったが、直感的に捕まるのは良くないと感じ取っていた。

 口から漏れる息が白く染まって視界を阻害するが、そんなこと気にしていられなかった。頼れるのは星明りくらいで、僅かに見える路地の向こうへただただ走り続ける。そうしなければ、すぐに追いつかれてしまうから。
 雪で白くなった路地は綺麗に見えるが、実際はガラクタやガラス片が散乱するごみ箱のような場所だ。裸足で歩けば怪我なしでは済まない中を、痛む足で地面を蹴りながら走っていた。

 ──いたい。あしが、いたい。
 走り続けて感覚の無くなってきた足が、今地面を蹴っているのか前に進んでいるのかもわからない。いつも通りに走る感覚だけを頼りに動かしているだけだ。まるで下半身だけが自分のものではなくなったよう。上半身が宙に浮いている。
 どれだけ息を吸っても、酸素が足りない。
 大きく脈打つ心臓は、目視だけでその存在を見て取れた。薄い布だけを身に纏った体は細く、隙間から覗く体には骨が浮き上がっている。対照的に下腹部はむくんでいるように膨れていた。
 こんな体で走り続けられているのは、奇跡に近かった。しかし、追いつかれるのは時間の問題だ。

 複雑に入り組んだ路地のお陰で距離を保てているものの、失速すればすぐに捕まえられてしまうだろう。大きく角ばった指が近づいてくる幻覚。考えるだけで恐怖に襲われるが、それが走り続けられる原動力でもあった。
 ──にげなきゃ、いやだ。

 背後から聞こえ続ける声は、確実にシェーナを狙っている。
 あっちだ、回り道しろ──。

 固まっていた男の声が分散する。一方から迫っていた男から逃げるだけでは終わらない。あの角から現れるかもしれない、そんな恐怖が追加され、シェーナは息をのんだ。
 乾燥した喉が空気すら受け付けなくなってきた。吸おうとすると咳き込んでしまう。足は止められない。

 雪を踏みしめる音は、足音を消してしまう。圧縮された雪が音を吸収する。音がどんどんと小さくなっている、──いや、音に変わりはなかった。むしろシェーナと男たちの距離は縮まってきているので、音は大きくなるはずだ。
 まともに息を吸うことができていなかったため、聴覚が力尽きようとしているのだ。
 掠れた自身の呼吸でさえも小さく聞こえる。体は重たいままなのに、息をしている感覚がしない。

 ──きこえない、きこえないきこえない。
 それでも背後から決まってくる男の気配は消えないのだから、気味が悪い。背筋に走る嫌な気配から逃れるために必死に地面を蹴り続ける。
 どうして追いかけられているのか、もう考えている余裕などなかった。

 ここしかいられる場所が無かった。気づいたら一人、食べるものは無く、寝る場所も見つからない。シェーナほどの小さな子供が壁に寄りかかってうずくまっている姿を見つけては、ここは彼の場所なのだと思い離れた。
 自分の居場所が見つからない。座っても良いと言ってもらえる場所がない。異国に迷い込んだような居心地の悪さに囚われていたシェーナがようやく見つけた場所だったが、どうやら安心して眠れる場所ではなかったらしい。
 この辺りに誰もいなかったのは、全員がこうやって捕まってしまっているからではないだろうか──。

 失速したシェーナの肩に、力がかかる。後ろに引っ張られた反動で尻もちをついたシェーナは、僅かに見える空に輝く星を認めた。
 ──ああ、いいな。そこがいい。

 伸ばしかけた手を強く握られる。首に巻き付いた腕で体を拘束され、身動きが取れない。被せられた布の中で息を吸えば、布が口に纏わりつくだけで酸素なんて入ってこなかった。目の前が見えない。ただ耳元で男の声が大きく反響して聞こえ、それが世界の全てのようだった。



「──いやだぁぁ!」

 悲鳴に似た声で目を覚ましたヨヴェは、同時に腹に強い衝撃を受けた。
 みぞおちを押さえ込み上がる吐き気に顔を歪める中、何かが落ちるような音が耳に入る。痛みに耐えながら視線を向けると、隣で眠っていたはずのシェーナの姿が無かった。床を何度も叩く激しい音と共に、絶えず何かに怯えるようなシェーナの言葉にならない悲鳴が響いている。

「ああああぁぁぁぁぁ!!」
「シェーナ!」

 ベッドから下りて駆け寄ったヨヴェだが、無作為に振り回される腕に体を打たれる。容赦なくぶつけられた力は、子供だからと侮れたものではない。迫りくる何かを寄せ付けまいと必死に腕を振るう様は、化け物を目の前にしているようである。実際、シェーナは目を開けていた。二人以外誰もいない部屋を凝視し、それに対して奇声を上げている。彼には何かが見えているのだ。ヨヴェには見えない、何かが。

 シェーナの腕を掴むと、彼は体を硬直させる。黒目の縁が全て見えるほど見開かれて涙が滲んでいる。
「いやだああぁぁぁぁぁぁ!! ああああああぁぁぁぁ!」
 真正面で受ける声の圧は、普段の姿からは想像もつかない。死の淵に立っているかのような絶望と恐怖が入り混じり、感情を制御することが出来ないでいる。

 いくら体を揺すってもその体勢を崩さないほど過剰に力が入っている。そんなシェーナの体を何度も揺すりながら、負けじと声を張った。
「目を覚ませ! シェーナ! ここには僕しかいない!」

 シェーナの声色は変わらない。子供が泣きじゃくるものとは違う。世界の終わりを見ているような悲鳴は、わずかにヨヴェの心の余裕を失わせる。同じように叫んでしまいたい。そうすれば彼は叫ぶのをやめてくれるだろうか。彼が目を覚ますほど大きな声で叫んでしまえば──。しかし、そんなことをしてもシェーナの安心に繋がることは無いと分かっている。

 泣き叫ぶシェーナの腕をお互いの体で挟み、背中に手を回す。体が潰れてしまいそうなほど強く抱きしめると、シェーナはそれに抗えない。

 顔を胸に押し当てて視界を暗くしてから、ゆっくりと後頭部を撫でる。すると恐ろしいものが見えなくなったのか、シェーナの叫び声は徐々に治まっていった。

「シェーナ、大丈夫だよ。僕しかいない。落ち着いて」
「あ、あ、ああ」
「ちゃんと息をして。吸って、吐いて」
 小刻みの呼吸をする体は震えているようだった。ヨヴェの服を強く掴むシェーナは、何度も聞こえるヨヴェの声でゆっくりと落ち着いていく。

「ヨ、ヴェ。ヨヴェ、」
「吸って、吐いて。上手だよ」
 彼の膝裏に腕を差し込み、背中を支えたままゆっくりと立ち上がる。ベッドの毛布を背中に被せ、何度も背中を擦りながら外を目指した。

 わずかに雪が降っている。粉のような雪が黒の中を舞い、頭に乗った雪はすぐに消えてしまう。凍てつくような寒さだ。服の裾から入り込む冷気はすぐに体温を奪っていく。覗く白くて細い足をゆったりと進めながら、大丈夫だよと何度も囁いた。

「びっくりしたんだね、もう大丈夫だよ」
「うん……」

 鼻を啜るシェーナの声は掠れていた。脇の下から背中に回された手はしっかりとヨヴェを掴み離さない。空気に触れた足は驚いたようにぴくりと跳ねて、毛布の中に隠れてしまう。ヨヴェの腕の中で丸くなったシェーナの鼓動は、歩みに合わせて落ち着いていく。
 一歩進むたびに、うん、うん、と少し高い声を漏らすヨヴェは、鼻歌を唄っているようだ。
 額に感じる心臓の音と重なり、シェーナはゆっくりと瞼を下ろす。

「寒いね、誰もいないよ」
「うん」
「みんな寝ちゃっているんだね」
「うん」
「もう大丈夫?」
「……うん」

 すぐ近くから聞こえるヨヴェの声。心臓の鼓動。背中を擦る優しい手。全身で感じ取ったシェーナはヨヴェの胸に顔を擦りつけると、すうすうと寝息を立て始めた。体がわずかに重たくなる。落ちてしまわないように腕の位置を整えてから、またしばらく、粉雪の降る夜を歩いていた。空気が冷えているからこそ、体温を強く感じられるのだ。

 突然夜中に叫び声をあげる様子は、シェーナがここに来た時から度々見られた。夢と現実の区別がつかない。目は開いているのに、彼は目を覚ましてなどいないのだ。ずっと、夢に見た恐怖に囚われている。寒い日には特によく見られる。過去の出来事やトラウマと似た状況であれば、それは発症しやすいのだ。
 悲鳴を上げることでしか助けを求められないシェーナは、悪夢を見る度に体を震わせている。それが冬の寒さのせいであれば、どれほど良かっただろう。

 しばらく外を歩いてから、家に戻る。毛布を掛けていたおかげでシェーナの体は温かい。ベッドに寝かせて布団を掛けると、穏やかな横顔をベッドにこすりつけた。
 こうして見ていれば、他の誰とも変わらない、幼い子供なのだ。

 乱れた髪を整え、頬を撫でる。冷えたヨヴェの指に顔をしかめるが、すぐに頬の力を緩めて眠りに落ちていく。穏やかな川の流れのように変わっていく表情を見つめるヨヴェは、その小さな体の中にある悍ましい記憶を何も知らない。
 一体シェーナがどんな光景を見て生きてきたのか、今後それを問うことはないだろう。泣き叫ぶシェーナを見るたびに、それを二度と思い出さない夜が来ることを願うが、それは一体いつになるのだろうか。

 幼い頃の記憶は、大人になれば忘れてしまう。そんな成長と共に訪れる喪失で簡単に消えるものであれば良いと願うが、あまりにも無防備に眠るシェーナの大人姿を想像することができなかった。
 今はただ、間もなく訪れる朝の到来を願うばかりだ。



 間もなくだと思っていた朝は、随分とのろまだったように感じる。じわじわと明るくなってきたのはあれから二時間後で、山から太陽が顔を出すまではさらに時間が掛かった。

 音を立てないように寝室から抜け、暖を起こす。眠らずシェーナに寄り添っていたヨヴェは冷えた足を近づけるが、それが温まるよりシェーナが起きてくる方が早かった。

「おはよう、シェーナ。起こしてしまったかな」
「ううん。なんか、目が上手く開かない」
 そう言いながら瞼を擦る。泣きながら眠ったため、瞼が腫れぼったくなってしまっていた。開けずらそうに何度も瞬きをするシェーナはゆっくりとヨヴェの隣に腰掛けると、手の平を火に向けた。ぱちぱちと弾ける明かりをぼんやりと見つめる目は、眩しそうにも見える。

「暖かいね、ヨヴェ」
「そうだね。夜は寒かったから、風邪を引かなくてよかったよ」
「うん、おそと、すごく寒かったね」
 体を左右に揺らしながらそう言ったシェーナは、夜に見た悪夢を覚えているのだろうか。たとえ過去に見た恐怖の影が小さなものだったとしても、シェーナの心に深い傷を与えていれば、大きな影となって襲い掛かってくる。
 何度耐えてきたのだろうか。きっとヨヴェと出会う前から、シェーナの中で息をしているのだろう。

 シェーナはいつも、叫んだ夜のことを確かに覚えている。淡々と寒かったねと告げる横顔に、もう恐怖の色は見られない。
 雲がかかった気温の低い日に雪が降るように、悪夢を見ることをさも当たり前のように受け入れているように見えた。そんな常があってはたまらないのに、シェーナは過ぎた恐怖に体を震わせることは無い。
 小さな体で受け止めるのに、それはあまりにも大きすぎる。

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