筆者の自動車・バイク人生を振り返る(その1 ::幼少期~高校卒業まで)
1.始めに・・
少々投稿の順番が違ってしまい申し訳ないが、noteを始めたきっかけに、55歳の今、一度ここで人生を立ち止まって、幼少期から好きだったクルマ、バイク、その他夢中になった趣味やコレクション等についての様々な出来事を、その時々の時代の変調と合わせて、思い出すままに(少々〝悪んぼ”したことも含めて)を振り返ってみた。
文章ばかりでつまらない内容だが、筆者の人生を振り返るつもりで、主だったことを筆者一個人の自分史のつもりで執筆していこうと思う。
特に、昭和40年前後に生まれた方々に、当時はそうだったな~と思い出していただければ幸甚である。
ただこの内容は、あくまでも一個人のことなので、興味がない方はスルーして頂ければそれで良い。
2.まずは、筆者が自動車・バイク好きになったきっかけから
クルマという乗り物を好きになったきっかけは、筆者が小学生の頃大流行した「スーパーカー」ブームであった。ランボルギーニ「カウンタック」「ミウラ」「イオタ」、フェラーリ「ディーノ」「512BB」等、思い出したらキリがないが、見るからに未来的で速そうなクルマ達を見て、”外国にはこんなにカッコいいクルマが存在するのか!”と、子供ながらに衝撃を受けたことを憶えている。
それまで自動車といえば、当時自宅にあった父親の4ドアセダン(ニッサン:サニー)と、農業用に使用していた軽トラック(三菱:ミニキャブ)、そして母親の〝単車"「ホンダ:スーパーカブ」で、スーパーカーブームが来るまでは特に自動車には興味など無く、楽しみと言えば、夕方や夜、また休日に放送されていたTVアニメの「マジンガーZ」や「ガッチャマン」「キャプテンハーロック」等の様々なヒーロー達に憧れ、これらの番組に出てくるキャラクターのフィギアやプラモデルを親にねだって買ってもらったりと(といっても精々誕生日かクリスマスのプレゼントくらいだったが・・)いう、いわば普通の子供であった。
それがスーパーカーがブームになるやいなや、様々なスーパーカーのプラモデルやカード、ポスター、スーパーカー型消しゴム等を集めることに夢中になり、それらを友人に見せて得意になったり、逆に、友人が持っていたカッコいいスーパーカーのカードが欲しくて欲しくて、自分が持っていたカード数枚に消しゴム幾つかを付けて、譲ってもらったこともあった。また、ブーム当時には、スーパーカーを特集したテレビ番組等もあり、実車が走行するシーンを見て感動し、いつかはこういったスーパーカーに乗りたいと思い憧れ、〝三つ子の魂百までも”のとおり、その時の気持ちは今でもそのまま延々と続いている。
その後、徐々にスーパーカーブームは去ってしまったものの、それでも筆者は、スーパーカーは無理でも、高性能なスポーツカーに乗りたいと思う心はそのままで、早く大人になって免許を取って、スポーツカーに乗りたいと想いが募り、それまで気にもしていなかったクルマ達を、学校の道中や、自転車で遊びに出かける時に観察するのが一つの楽しみになった。もちろんこんな田舎の道をスーパーカー等が走っているハズもなく、左ハンドルの外車(車種はなんでも良かった。とにかく左ハンドル=高性能と勝手に思い込んでいた)や、国産の高性能スポーツカーとして当時販売されていた「フェアレディZ」や、「RX-7」等のスポーツカーを発見したりすると、それだけで嬉しくて、一人で興奮していたのを思い出す。
そしてこの頃から「トミカ」のミニカーが好きになり、家族で街中に買い物に行った時に母親にねだったり、お年玉を貰った正月の冬休みに、自分で自転車をこいで遠い街中まで買いに行ったこともあった。しかし、このミニカーにも、人気・不人気があり、スーパーカーやスポーツカーといった〝人気車種”は、いつも売り切れていて、たまにそれらに出会った時は大喜びしたものの、残念ながらそんな時に限っておこずかいが足りず、泣く泣く諦めざるを得なかったことも、一度や二度ではなかった。
3.そして時は流れ、小学校を卒業して中学生になり・・
その頃は、少し年の離れた兄達がバイクの免許を取り(その頃はまだ学校でも免許取得OKだったようだ)、自宅に”単車”ではなく”バイク”がやってきた。それを見ていた筆者は、クルマもいいが、バイクもカッコいいと思うようになり、勉強や部活はそっちのけで、漫画の単行本「750(ナナハン)ライダー」や、兄達が買ってきたバイク雑誌や、カタログ等を貪り読んでいては、それが親に見つかって「宿題やったんか」とか「しっかり勉強せんかい!」とよく叱られていた。
だが当時は、暴走族や校内暴力等が社会問題化しており、バイクの〝3無い運動”(乗らない・買わない・免許を取らない)が展開され、バイクはもとより、高性能車やスポーツカー等〝暴走”〝改造”の定番だったクルマ達についても、非常に風当たりの強い時代でもあった。そして筆者自身も、この荒れた世界で、暴走族までもは行かないまでも、一時期不良軍団に引き込まれ、警察座他にこそならなかったが、学校に親が2度程呼び出され、学校の生徒指導の先生からは元より、親からも強く叱責され、またこれらが原因で、近所でそれまで通っていた、個人で開いてくれていた学習塾も閉校されてしまい、自分なりに大いに責任を感じて反省した結果、何とか元の〝普通の世界”に戻ることができた。今にして思えば、その時の先生、親に感謝である。
今思えば、若い先生に対してはイキがっていても、ベテラン先生は怖い存在であり、少々ビンタを食らおうが、蹴飛ばされようが、それは躾の為の指導の範囲(残念ながら、今の時代に先生がそんなことをすれば、体罰だ!と訴えられて報道座他になり、先生自身が逆に責任を取らされる時代になってしまったが・・)だと自分なりには感じていて、決して逆恨みしたりはせず、自分がやったことに対しての責任として仕方がない・・と、心の中では反省はしながらも、同級生の前ではそのような素振りは見せず、〝親が2回も呼ばれた!”〝何発ビンタを食らった!”等と、自分が半分不良だったことを自慢げに話したりしていた。
幸いその後は、そういった不良グループは霧散し、皆、高校進学の準備をしなければならない時期を迎えた。筆者自身、正直勉強は(今でも)嫌いで、受験勉強そっちのけながらも、何とか高校だけは何とか卒業して、運転免許をとってクルマを買って乗りたい・・という理由で、最低限の勉強はしたものの、高卒以降の大学や専門学校への進学など毛頭考えもしなかった。
今もそうだが筆者の家(今では実家)は兼業農家で、幼い頃から農機具や、発動機等の動く機械を見てきた為か、機械類が大好きだったので、どうせなら好きな分野に進みたいということで、就職に有利な工業高校機械科を目指し、無事に進学することができた。
4.高校生活での出来事として
多少時代は前後するが、クルマの話に戻ると、その頃に発売される新車は、各自動車メーカーが、世界一厳しいと言われた排ガス規制をクリアし、再びパワー競争に突入してきた頃で、日本初のターボ車や、高性能DOHCエンジン、また、DOHC+ターボ、更にはこれらにインタークーラー搭載といった高性能車が目白押しにデビューしてきており、特にトヨタのマークⅡ3兄弟やソアラ、ミッドシップ車のMR2、ニッサンでは、スカイラインGT、RSといった、ラグジュアリーなクルマや、高性能、高級車がモデルチェンジ、あるいは新型車としてデビューし、こういったクルマ達が大人達に大人気で、その中でもお金を持っている大人達は、我先にと購入していた頃でもあったと思う。だが残念ながら筆者の家はごく平凡な家庭で、新車を買えるような状況になく、自営業者や父親が大企業の幹部で、ウチのクルマはクラウンだのセドリックだのと自慢する、お金持ちの家に生まれた同級生達を心から羨ましく思っていた。
再び話は戻るが、高校へ進学したとしても、当然まだまだクルマの免許をとれる年齢ではなく、それでもクルマに憧れ、本屋で自動車雑誌を立ち読みしたり、近くの自動車ディーラーに行って(その頃は相手にもしてもらえなかったが)何とか頼んでカタログを貰い、そのクルマが自分のモノになることを夢見たり、中古車店の前で、車種と価格を見ながら、それなりの中古車相場感を持つようになってきた。また当時TV番組で放映されていた人気刑事ドラマ〝西部警察”では、パトカーに「マシンX(スカイライン(ジャパンターボ))」「マシンRS(スカイラインRS、RSターボ」「スーパーZ(フェアレディZ)」等といった、当時大人気だったスポーツ車、それも実際のパトカーには有り得ないカスタムが施されていた車両が登場していたこともあり、家庭用のビデオデッキがまだまだ一般的でない時代であったため、見逃してしまうと二度と見れないために、いつも新聞のTV欄をチェックしながら、毎回楽しみにして必ず見ていた。そもそも、家庭でTV番組が留守でも録画できて、いつでも見られるなんていうこと自体が、遠い未来のような時代だった。
一方、バイク免許については、法令上は16歳から取得できるものの、筆者達が高校へ入学する当時は、殆どの高校がバイク運転免許取得禁止ルールとなっており、中学を卒業して就職した同級生や、高校をリタイヤして免許を取った者達が、自慢げにバイクを乗り回すのを見て、羨ましくも、また歯がゆい思いをしていたことを思い出す。だが高校の同級生の中には、在学中でもこっそり教習所に通ってバイク免許を取得し、それが学校にバレて、1週間だか10日間位だったかは失念したが、その間自宅謹慎で学校出席停止、また謹慎期間が終わって復学する際には、学校に免許証を没収され、坊主頭になるというルールだか指導だかわからないが、とにかく、このような制裁を受けることとなっていた。当然、こういった学校内で〝前科”が付くと、学校から企業への推薦にも影響し、希望する企業等への就職も不利になった。
今思い出しても、工業高校だけにほぼ男子校であり、また、センパイ達や、周りの同級生も、少々グレかかった者も少なからずおり、不快な思い出こそ多いものの、楽しかったというような良い思い出はなく、とにかく早く3年生の年末の、車の運転免許取得解禁を、指折り数えて待ち焦がれて過ごしてきた3年間であった。
そして・・
5.待望の、運転免許取得解禁
を迎え、いの一番で、教習所入学手続きを行い、早速、学校帰りや土曜の午後からの教習所通いを始めた。教習所で初めて運転したクルマは、当時のローレルセダン。最初は教習コース外周を走行することから始め、その後クランク路走行や車庫入れ、坂道発進、縦列駐車等の教習を経て、仮免許試験に無事合格し、路上教習へ。その際、様々な厳しい指導を受けながらも、何とか補習なしで無事卒業検定にも合格。因みにその日の卒業検定では、一緒に受験した十数名の中で、最も成績優秀だったらしく、それで目出度く表彰されることとなり、思わぬ嬉しい出来事に、皆の前で照れながらも表彰状と記念品を貰うことができた。
教習所卒業後は、運転免許センターにて学科試験を受けて、これに合格しなければならないが、同級生数名と一緒に国鉄(現JR、しかもまだ電化されていなかった為、ディーゼル車両)に乗って運転免許センターに行き、近くの〝事前講習塾”を受講し、こちらも無事に合格となり、その日のうちに免許証を受け取ることができた。それまでの人生で一番うれしかった日でもある。しかしながら、実際に運転できるようになるには、3月1日の高校卒業式まで待たなければならず、免許取得後は、高校卒業まで、免許証を学校に提出する必要があった。
そして晴れて高校卒業式の日、式が終わって、卒業証書が各自に交付され、運転免許が返却され、遂に嫌だった高校生活が終わったということが、本当に嬉しかった。その時は、後に高校生活以上の厳しい社会の現実を味わう事になること等全く想像もせず、正に晴れ晴れしい気分であった。
卒業式の日には、同級生の中に少々ズルい奴がいて、卒業式までにクルマを購入し、卒業式の日の朝に、学校近くの空き地だか駐車場だか知らないが、そこまで運転してきてそこへ停めておき、卒業式終了後、学校の周りを、けたたましい排気音を立てながら走っていた奴もいた。
6.当の筆者についても、実は免許取得前からクルマを持っていた
(兄からのお下がり兼お祝い)。卒業式終了後に帰宅し、そのまますぐに、緊張しながらもクルマに乗って路上に出た。当初(今でもそうだが・・)右折が苦手で、まずは右折しなくて良いコースを選んで緊張の中、手に汗をかきながらドライブ。後日母親を隣に乗せての路上走行。母親も数回しか運転したことがない息子の運転に同乗することに結構緊張していたようで、少々速度が上がるとすぐに「もっとゆっくり走らんかい」と、まるで命乞いをするように注意を受けたことを思い出す。こうした日々が、就職先の会社の入社式前まで続き、それまでの人生の中で、最も解放された気分を味わえた時間であった。
(その2・・へ続く)