筆者の自動車・バイク人生を振り返る(その4 ::マツダ コスモの悲劇→その後のクルマについて)
1.始めに・・
少々投稿の順番が違ってしまい申し訳ないが、noteを始めたきっかけに、55歳の今、一度ここで人生を立ち止まって、幼少期から好きだったクルマ、バイク、その他夢中になった趣味やコレクション等についての様々な出来事を、その時々の時代の変調と合わせて、思い出すままに(少々〝悪んぼ”したことも含めて)を振り返ってみた。
文章ばかりでつまらない内容だが、筆者の人生を振り返るつもりで、主だったことを筆者一個人の自分史のつもりで執筆していこうと思う。
特に、昭和40年前後に生まれた方々に、当時はそうだったな~と思い出していただければ幸甚である。
ただこの内容は、あくまでも一個人のことなので、興味がない方はスルーして頂ければそれで良い。
2.人生2台目のクルマ「マツダ コスモ」
さて、今回は、人生2台目のクルマとなった「マツダ コスモ リミテッド」についてから。
マツダの「コスモ」といえば、初代「コスモスポーツ」を思う方も多いと思うが、その時の筆者のクルマは、当然そのような絶版の名車ではなく、2代目の「コスモ」である。2代目初期は、丸型ライト4灯式でデビューし、そのフロントグリルの形状から「バリカン」と呼ばれていたことを思い出す。筆者のクルマは、その2代目のマイナーチェンジ版である角形2灯式ライトとなったモデル。エンジンは、マツダを代表する「13Bロータリーエンジン」を搭載し「ラグジュアリークーペ」に相応しい動力性能を持っていた。しかし、一方の負の面として、当時から言われていた「燃費の悪さ」については折り紙付きで、極力大人しく走っても、リッターあたり6km程度しか走らず、安月給+各種ローン返済のため、常に金欠だった筆者たる上、このクルマでも、あまり長距離のドライブをすることは終ぞなかった。まあ、これには燃費云々の理由だけでなく〝方向音痴”という、ドライバーとして致命的な弱点を持つ筆者ゆえ、一度知らない土地へ行ってしまえば、帰って来れるかどうかも心配で、地図を見ながらなどと言っても、自分が今どこにいるかすら分からないのが普通だったので、いくら地図を持っていたとしてもほぼ無意味、いわば「宝の持ち腐れ」である。この方向音痴のせいで、その後のクルマ人生も、「カーナビ」という、筆者にとってのクルマ人生を変える「最強の武器」が現れるまで、中々遠出することもなかった。
3.初めてネズミ捕りに捕まった!
このコスモに乗るようになってからは、燃費の実態を認識したところで、そればかり気にしても、それこそ勿体ないというか、コスモに対して申し訳ないので、たまにはパワーに任せて加速を楽しむこともあった。そんなある日の会社への出勤時、運転免許取得後、初めて「交通取り締まり」(通称:ネズミ捕り)に捕まった。その時の速度は、40km/hの制限速度に対して、20数km/hオーバーだった。その時の警官は、「カモがネギ背負って・・・」と言わんばかりに「お兄ちゃん、ちょっとスピード速いから免許証持って降りてきて~」と、笑顔満面で言われ、もう一人の警官も、「暴走ほどではないけんど、違反は違反だからね~」と、こちらも半笑い。捕まった筆者を見て「馬鹿な奴だ」と思っていたかも知れないし、それに加えて自身の成績も上がることを喜んでいたかも知れない。そんな訳で、少々腑に落ちない思いをしつつも、違反したのは自分なので仕方ない。その場で、違反切符にサイン+拇印し、反則金納付書を渡されて、その場から「釈放」された。これに懲りて、その翌日、速攻で「レーダー探知機」を購入し、その後はこれに何度か「助け」られ、購入金額は多少張ったが十分に元はとった。現在も、最新型が出るたびに機種をチェックして買い換え続けている筆者である。(勿論スピード違反の常習者ではない)
4.初めての「停止命令」
当時は、暴走族が蔓延っていた時代でもあり、警察、特に「交通機動隊」(以下「公機」)は、警察の中でも、暴走族と呼ばれる連中はもとより、(真面目な?)我々一般のクルマ好きの間でも、二目も三目も置かれる怖い部隊で、警官の目つき、対応共に、近所の交番の巡査さん達とは訳が違っていた。下手に逆らったりすると、即パトカーに乗せられて署へ連行される、そんな時代であった。運転中に、初めてこの「公機」に停止命令を受けたのも、このコスモになってからである。別に違法な改造をしていた訳ではなく、アルミホイールをほぼ同じサイズの社外品に変えていた程度のクルマである。
それは、昼~夜勤の業務を終了し、夜中に帰宅中のことであった。とある交差点を、青信号のためそのまま直進して通過しようとした際、右側に信号待ちで停車しているパトカー(これもマツダのルーチェ。当時仲間内では有名だった公機のパトカー)が見えた。別にこちらは悪いことをしている訳ではないので、疚しいことはないのだが、時折後方を見ながら、そのまま走行していたところ、予想通りそのパトカーが真後ろについてきた。もちろん赤色灯もサイレンも無しでである。こちらは最初からパトカーと分かっていたので、慎重に制限速度を超えないように注意しながら、知らないふりで運転していた。その後もそのパトカーは、こちらにスピード違反をさせようとしているのか、今でいう「煽り運転」のように、車間距離を詰めてきたり、左右にクルマを振ったりして威嚇してくる。やがて、〝テキ”も痺れを切らしたのか、赤色灯を回し、拡声器で「前のクルマ、停まりなさい」とのアナウンス。言われる通りにそこで停車したところ、パトカーから二人の警官が降りてきて、開口一番「このクルマ〝お前”のか?」と言ってきた。いくら警官で、年上の人かもしれないが、いきなり〝お前”は無いだろう・・と、少々ムッとしたが、天下の「公機」様ゆえ、そうそう逆らうことは出来ない。そして「免許証出して」と言われ、素直に提示すると、こちらの顔と免許証の写真とを見比べている。「こんな夜中に何しよんぞ」という高圧的な質問(というより尋問)に、「夜勤の帰りです」と丁寧にご回答。そんなやり取りの間にもう一人の警官は、筆者のクルマの前後左右をくまなくチェックし、何か指摘するところがないかを探している。やがて何かを見つけたようで、前の方で、その偉そうな警官と一緒に確認した後、「ちょっと降りて来い」とこれも命令口調。何を言われるのかと思いきや、当時はまだ初心者マークの頃だったので、「初心者マークの位置が低くて見えにくい。もっと見やすい場所に貼り直せ」との指摘。その時は、フロントバンパーの下側に貼っていたので、取り敢えず言われるままに、その場で剥がして、ボンネットの上に貼り直し、これはこれでチョン。その時、車内のコンソールに置いていたタバコとライターを発見され、これまた「お前、未成年(その時はまだ19歳だった)の分際でタバコ吸いよんか!」と、鋭い指摘。さすがにこれは、筆者としても法違反であることは重々承知の上での行為。だか、その頃の男どもは殆どが喫煙者。高校生までは、厳しく取り締まられていたが、高校卒業後は事実上黙認されていたような時代だったので、こちらとしても無防備だった。幸いこのタバコについては、「20歳までもう少しだから我慢しろ!」という注意だけで済み、そして最後に「気をつけて帰れよ」と言って、去っていった。
今、警官がこんな態度を取ろうものなら、機転の利く者なら即座に録音して、あっという間にSNSで拡散。当の警察は、マスコミの袋叩きに遭うだろうが、時は昭和61年の頃。教師の体罰とともに、警官も指導の名のもとに、若者に対して少々高圧的な態度を取っていても、誰も何も言わなかった。刑事ドラマでさえ、刑事が犯人でもない人間を平気で殴っているシーンも当たり前にあったし、犯人逮捕のシーンでも、犯人を殴るわ蹴るわで、犯罪者に対しては、人権など無いに等しいような世の中であった。
5.コスモとの突然の別れ
そんな「コスモ」だが、多少機嫌を崩すことはあっても、概ねトラブルというものはなく、日々燃費を気にしながらも、元気に走っていてくれた。そんなある休日、突然の別れを迎えることになってしまった。
36年前の話なので、もう時効だと思って恥を忍んで執筆するが、そう、自損事故によって、一瞬のうちに廃車にしてしまったのである。ほんの数秒くらいの出来事だった。もちろん元を正せば、大した運転技術もないのに、山中の下り道路、しかも、〝滑って下さい”と言わんばかりの砂利道で無茶な走り方をしたがための、言わば「自業自得」というものだが、その時突然コスモは何の前触れもなく4輪ともにスライドを始め、立て直す間、というか、為す術+時間も無く、そのままクルマごと道の脇の数m下の谷へ飛び込んでしまった。転落の際は、道からジャンプしたような感じで、谷底の地面にノーズから着地し、そのままドンもり返って屋根から横転。その間の時間は何秒だったか・・。幸い、着用していたシートベルトが、前に飛び出そうとする体をシートに留めてくれ、Aピラーが屋根が潰れるのを防いでくれたため、生存空間は何とか残され、また、更に幸運なことに、燃料たるガソリンに発火することもなく、何とかドアも開けられることが出来たので、自力でクルマから這い出し、数mの高さの土手を、草木を掴みながらよじ登っているところへ、通りかかった後続のドライバーさんが見つけてくれて手助けしてくれ、無事脱出に成功した。(この時のドライバーさん。もし憶えてくれていて、これを読んでくれていましたら、その節はありがとうございました。その後も無事生き続けております。)
この時ほど、地面への衝突のショックを吸収してくれた車体全体と、シートベルトに感謝したことはない。また、「慣性の法則」というものを、心底実感した時でもある。最初に着地してから車体が静止するまでの時間が、「一体いつ止まるのか」と、パニック状態の頭の中の冷静な部分が考えながら、完全に止まるまでの時間が、ものすごく長く感じられた。本当に幸いなことに、他人の体、同じく他人の財産を傷つけることもなく、自身の体へのダメージも、後日軽いむち打ちのような症状が出たくらいで、擦り傷すらなかった。
その後の事故処理、クルマの引き上げ等は、筆者自身の親兄弟、親類が対応してくれて、無事に処理できた(親兄弟、親類縁者に感謝)ので割愛させて頂くが、翌日になって、それまで普通にあったコスモが居なくなったということが、ものすごい心理的なショックとなって襲ってきた。クルマ「コスモ」ロスという現実。夢ではない。いつもの駐車場にあるはずの「コスモ」がもう居ない。そしてこの先戻ってこない。正直本当に涙が出た。自分のミスで起こしたことだけに、自分で自分を責めたが、それこそ後の祭り。もうどうしようもなく、〝途方に暮れる”とはこの事だと、身に染みて思った。
6.亡き「コスモ」の後続のクルマとして・・
しかし、いつまでも悲しんでいるわけにも行かない。現実的には、まずはは会社に行くためにのクルマが必要だ。幸い、親類から軽自動車を借り受けることができたので、当面の足については何とかなったが、いつまでも借りている訳にはいかない。早急に次のクルマを確保しなければならないが、それまでのクルマが突然廃車なったため、次にどのようなクルマに乗りたいとかは、そもそもハナから考えていなかった・・というか、その時の状況からして、次のクルマの購入に際して、選り好み出来るような状態ではない。何件かの中古車店を廻って品定めしたが、何しろ急なことゆえ、資金がないということと合わせて、コスモのローンも残っているため、少々古くても安価なクルマにしなければならない。それでもクルマ好きの筆者としては、少々古るくても良いから、自分なりに納得できて、最低でも車歴10年までは、そこそこ飽きずに乗り続けられるクルマにしたかった。そして、近所の中古車店で、昭和55年式の「トヨタ スプリンター 1600GT(TE-71)」が適価で売られているのを見て、紆余曲折を経て、最終的にこれに決めた。今、旧車として大人気の「AE86」の1世代前のクルマで、トヨタの名機「2T-G」エンジンを搭載したカローラ・スプリンターのセダンモデル最後のFR車である。スタイルは、ごく一般的な4ドアセダン。同車種の他のグレードとほぼ変わるところはないが、当時としては高性能車の象徴とも言える「DOHC」エンジンを搭載した、言わば「スポーツセダン」である。見た目の華やかさはないものの、当時ラリーやダートトライアルのベース車両となっていただけに、それなりのポテンシャルを持つクルマとして、自分なりに納得して購入することとなった。このクルマについても、購入後に様々に手を加え、そして、人を乗せての移動等、色々な出来事があったが、それは次回の(その5 ::~)で、改めて執筆したい。
それではまた次回に。
(本年中に読んでいただいた皆様、良いお年を。そして、年明けに読んでいただけた皆様、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?