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筆者の自動車・バイク人生を振り返る(その3 ::初出社の日~初めてのクルマ乗り換えまで)

1.始めに・・ 

 少々投稿の順番が違ってしまい申し訳ないが、noteを始めたきっかけに、55歳の今、一度ここで人生を立ち止まって、幼少期から好きだったクルマ、バイク、その他夢中になった趣味やコレクション等についての様々な出来事を、その時々の時代の変調と合わせて、思い出すままに(少々〝悪んぼ”したことも含めて)を振り返ってみた。
 文章ばかりでつまらない内容だが、筆者の人生を振り返るつもりで、主だったことを筆者一個人の自分史のつもりで執筆していこうと思う。
 特に、昭和40年前後に生まれた方々に、当時はそうだったな~と思い出していただければ幸甚である。
 ただこの内容は、あくまでも一個人のことなので、興味がない方はスルーして頂ければそれで良い。


2.初出社~集合研修

 確か、初出社の日は、昭和60年3月23日だったと思う。
 年明け早々、事前に入社式の日程や、来社時の注意事項、その企業(以下、会社)の中で毎月発行されている社内報も合わせて、書類一式が自宅に送付されてきた。その書類の中に、その社内報に「新入社員紹介の別冊」が入社後に発行されるようで、それに掲載する為の原稿用紙も合わせて同封されており、顔写真とともに、出身校専攻科目、自己アピール等の欄にそれなりに真面目に記載し、写真も写真屋で撮影してもらった物を貼り付け、指定する締切日までに届くよう余裕を持って郵送した。
 現在では「入社式」というと、最終の学校の如何に関わらず、当然「スーツ」姿で臨むのが普通だが、当時その会社は、高校卒の者は、学生服で出社するように、とのことだった。卒業したのに学生服とは・・と、少々違和感は感じたものの、会社の指定である以上従わなければならないし、そもそもその時点でスーツなど持っておらず、もちろん着用したこともなかったし、ネクタイの締め方も知らなかったので、それまで着慣れた学生服でよいということで、逆に安心感もあった。
 そして、初出社の日、緊張しながら入社式会場に「初出社」。クルマでの通勤は、会社の許可が出るまで禁止だったので、会社へは、これまた高校卒業まで乗り続けた自転車で出社。会場の建物の玄関には、受付担当の先輩女性社員の方が、受付事務を行い、どの部屋へ行けば良いのか説明してくれ、緊張が続く中、その部屋へ入った。会場内は、パイプ椅子が整然と並べられ、着席位置が指定されていたかどうかまでは憶えていないが、とにかくある席へ着席して、入社式開始時間を待った。そこそこ大企業であったため、新入社員の人数も多く、地元採用だけで50人以上はいたようで。入社式会場は、満杯だった。今で言う「密」状態である。やがて定刻となり、入社式のオリエンテーションがあり、そして入社式が始まった。そこでトップの方々からの訓示を受けたが、その時も今もそうであるが、こういった「偉いさん」は新入社員から見れば、雲の上の方々であり、受けた訓示内容も、学生から社会へ出るということについて・・等、新入社員に対するごくごく一般的な内容であったように記憶している。
 入社式も無事に終わり、これで初めて正社員となった訳だが、会社としては、その後にいきなり現場に放り込んで、仕事を憶えさせるようなことはない。それなりの大企業であり、地方工場といえども相当に規模の大きな工場で、多岐に渡っての事業を行っていたことから、様々な工場や事務部門等、仕事の内容も、配属先によって全く異なってくる。その配属先が決まる(実際には決まっていたのであろうが)まで約2週間、集合研修ということで、就業規則や給与の仕組み、各工場見学、少々嫌だった宿泊を伴う研修等々のスケジュールを終了した後、いよいよ緊張の配属先を指定する辞令交付である。順番に名前が呼ばれ、それぞれ○○工場や、○○部といった職場への配属が読み上げられていく。そしていよいよ自分の番。配属先となったのは、ある電気関連部品を作る工場での勤務であった。幸い、求人票のとおり、事務系ではなく工場勤務で、交替勤務の職場への配属であったことにホッとし、辞令交付後は、それまで集合研修で一緒だった其々は、各配属先の職場に移動していった。もちろんその後もクルマ通勤は許されず、いつもその日の研修が終わっては、自分のクルマ(その1・・の終わりの方で執筆した、卒業前に兄からプレゼントされたクルマ)で、特に行く当てもなく、適当に道路を走行しながら、慣れない故に時折ヒヤッとしながらも、運転を練習した。(このクルマの車種や特徴等は、後ほどの(3.筆者のクルマについて)で執筆したい。)
 さて、配属後の電気関連部品を製造する工場でも、その工場独自の集合研修が約2週間に渡って行われる。その工場で作られる製品の用途や、製造工程、それぞれの工程毎の工場見学や、電気や機械、化学系の専門教育、そしてここでも嫌な宿泊研修があった。そしてその研修中に、とてつもない「事実」を耳にした!。何と、その工場に配属された者のうち、その工場内のある職場に配置される者達は、東京にあるこの工場の親工場に、4カ月または最長1年間、修行に行かなければならないと言うではないか!。名目上は、転勤ではなく、期限を区切った期間であるため、あくまでも「出張」扱い。求人票は嘘ではないのだが、もしこの事実を先に知っていれば、それこそ別の企業を志望していただろう。それでも、入社した皆が一律に知らなかったというのであれば、多少諦めというか、覚悟もできるが、一緒に入社した者の中には、就職活動の段階でこの事実を知っていた者も多く、知らなかったのは、筆者を含めてごく僅かな人数であった。要は学校へはこれらの情報は伝わっていたようではあるが、当の担任が、この事実を話してくれなかったことが、その時になって初めて分かった。就職内定が決まった際は感謝しただけにその反動は大きく、この時程担任を恨んだことは無く、今も思い出すたびに腹立たしい!。だが中には、憧れの東京暮らしが出来ると喜んでいた者もいたが、筆者にとっては、1週間程度ならともかく、最低でも4カ月等、ヘタをすれば1年という長い期間、親元を離れて暮らす等ということは、全くもって願い下げである。理由としては色々とあるが、とにかく大好きなクルマの運転が出来なくなるということを筆頭に、またこれは筆者自身の性分で、この年になってもなおも続いているが、見ず知らずの人前で食事することが出来ないという、小心者であるからでもある。加えて食べ物については少々好き嫌いが多いこともあり、親もその辺りはそれなりに心得ていて、特にダメな食材は食卓には載ってこなかった。基本的には魚介類は大好きだが、肉類の大半は正直ダメで、最悪なのが、全ての鳥肉料理であった。このような食事に関することと合わせて、それまで当たり前に行ってくれていた洗濯や、衣類の調達等もすべて自分で行わなければならず、食事については、出張先の工場に独身寮があり、そちらで食することは出来るものの、前途の通り、人前での食事が出来ないことと合わせて、好き嫌いだらけの筆者としては、親元を離れるとなると、正直言って辛かった甘ったれ者である。最後の望みは、配属先の工場内で、どの職場に配置されるか・・であり、何とか地元に残れる職場に配置されたいと心底願っていたが、結果は残念ながら、「東京行き」となってしまった。この東京行きが決まった際、その時点で会社を辞めようかとも思ったが、家族にそれを打ち明けられる勇気もなく、仮に相談したとしても、否定されて説得されることは火を見るよりも明らかだ。そこから東京への出発までの数日は、とにかく憂鬱で、それでも何とか出発までの間に、精一杯運転を楽しもうと、家に帰るとすぐに、行く当てもなくクルマで出かけて行った。

3.筆者のクルマについて

 さて、自分が運転免許を取得して、初めてのクルマとして、兄がそれまで乗っていたクルマを、お下がり兼お祝いということで、無償で貰えることとなった、その記念すべき第一号車が「三菱 ギャラン Λ(ラムダ)GSR」である。年式は昭和52年式で、譲り受けた時は8年落ち、走行距離は確か8万6千km位だったと思う。今の時代でこそ、8年8万キロ程度では、筆者に言わせれば、新車も同然ではあるが、当時は、車歴10になると、その後は毎年車検になる程、耐久性は褒められたものではなかったが、それでも、「ワインレッドメタリック」カラーが似合う2ドアクーペボディに、角形4灯ライト、スラントノーズの顔は、今見返しもカッコイイと思う。また、このモデルの代表的な特徴として、サイドまで回り込んだ一体物のリアガラスとタルガトップ風のルーフ。そして、室内といえば、運転席の前にずらりと並んだ沢山のメーター類と、1本スポークのステアリング等、当時としてもスペシャリティー度は抜群であった。装備においても、パワーステアリングこそ付いていなかったが、電動リモコンミラー(もちろんフェンダーミラー)、パワーウインドウ、FM・AMラジオ+カセットステレオ、純正アルミホイール、果てはエアコン(クーラーではない)も装着されていた。エンジンは2000cc4気筒、ツインキャブ仕様。動力性能そのものについては、それ程力強い訳ではなかったが、これも排ガス規制真っ只中に生まれたクルマの宿命であり、それでも免許取り立ての筆者に対しては必要十分だった。というより、運転するのが精一杯で、加速力やブレーキング、コーナリング云々等を評価できる余裕など無い状態だったというのが本当のところだが、とにかく自分で動かせるということが嬉しくて仕方なかった。トランスミッションは、当時のクルマ好きのお約束である5足マニュアル。他のグレードには、オートマチックも用意されていたようだが、その当時のオートマチック車は、マニュアルミッション車に比べて、加速性能、燃費ともに劣るというのが定説で、筆者自身もその後40代半ばまで、新車、中古車を問わず、ずっとマニュアル車に乗り続けた。その頃の同級生達のクルマといえば、定番のスカイライン(いわゆる「箱スカ」「ケンメリ」「ジャパン」の類)やローレル、カローラレビン、スプリンタートレノ、セリカ、マークⅡ3兄弟等々の中古車が殆どで、もし今まで持ち続けていたら今頃数百万円。車種によっては、一声数千万の車種も、その頃はそれこそ数万円で叩き売りされていた時代であった。また、例え中古車といえども、セドリックやクラウン等を買える者は殆どおらず、たまに見かけたとしても、父親のクルマに初心者マークを貼ったものだったりして、筆者の周りには、新車なぞ買えるようなリッチな者は居なかった。そして筆者の第一号車「ギャラン ラムダ」に乗れたのは、高校卒業から出張に出かける僅か数週間の間だけで、それからは暫しの間お別れとなってしまった。

4.出張中の生活

 さて、愛しの「ラムダ」と一旦お別れした後、上司の引率で、親工場へ向けて出発する日がやってきた。当日筆者は、父親に集合場所まで送ってもらったが、そこには、一緒に行く同級生達の友人達が、自分達の愛車を半分見せびらかすように、多数見送りに集まっていた。中には、羨ましくも彼女がいる者もおり、泣きじゃくる彼女を慰めつつも、当の本人はケロっとして、〝都会”へ行けることを楽しみに、一行は出発した。当時はまだ瀬戸大橋は繋がっていなかった為、四国と本州の往来は船に乗らなければならず、船で大阪へ着いた後、新大阪駅までバスで移動し、そこから新幹線「ひかり」に乗車して東京へ向かった。そして、東京駅から電車を乗り継ぐこと1時間半少々、工場のある街に降り立ったが、その時に見た景色は、失礼ながら「ここって本当に東京都??」と思う程の小さな街だった。今まで住んでいた故郷と変わらないどころか、駅から遠くなるにつれて、更に田舎町の風情漂うところで、水田こそ見かけなかったが、道中あちこちに畑があり、そこには肥やしが撒かれていて異様な匂いが漂っているところすらあった。それこそ10年前に、自宅前にあった畑と同じである。〝都会”暮らしに憧れてウキウキした気分でやってきた同級生は、当初の嬉しさなどどこかへ飛んでいってしまったようで、すっかり意気消沈している。それでも、駅から工場まで、30分あまりの距離を徒歩で移動し、全員無事に当面の勤務先となる工場に到着した。
 挨拶もそこそこに、まずはオリエンテーションから始まり、実習する工場に案内され、そこで個人用ロッカーや、社員食堂等一通りの説明を受け、翌日の朝の予定の説明を受け、その日は終了。その後、生活の基礎となる住居へ案内される。本来なら、独身寮が宛てがわれるはずだが、人数も多く、また親工場独自でも、多くの新入社員を受け入れていたことから寮はほぼ満室であったため、我々修行者は、会社が借り上げたアパート2室に5~6人毎に別れ、当地での生活が始まった。
 今でこそ、個人のプライバシーが尊重される世の中だが、その頃はそこまで配慮などされる訳がない。プライバシーのプの字もなく、逆にタダで住める分、ありがたく思え・・と言わんばかりで、言ってみればタコ部屋、飯場のような生活が始まった。特に嫌だったのが、一人になれる場所が無いということで、聞きたくもないハードな音楽を聞かされ、見たくもないTV番組を見せられ、戸にもかくにもプライベイトというものが無い、辛い生活が続いた。仕事(実習)そのものは楽しかったが、それ以外には、楽しみ等無いに等しく、精々持参したカセットテープを、これまた持参したウォークマンでヘッドホンを通じて聞くのが唯一といっても良いような状態だった。最初のうちは皆で都心まで出かけて、都会の空気を味わったりしたが、コンクリートとアスファルトだけの都会には馴染めず、その後はいくら乗り物好きな筆者でも、電車にまで乗って、遊びに行こうとは思わなかった。
 季節は、春から初夏、そして梅雨の時期を迎え、傘をさして通勤する日も増え、足元がびしょ濡れになりながら歩くのも苦痛で、せめてもの救いは、会社での仕事(実習)が嫌ではなかったこと位で、それ以外は、何かに付けて我慢の日々が続き、漸く、第一段階の4ヶ月目の終了時期が近づいてきた。そこで、地元へ戻れるか、それとも更に、それまでの倍以上の期間を、ここで過ごすのか、ソワソワとする日が近づいてきた。そしてその日が遂にやってきて、実習者全員が、会社の一部屋に集められ、実習元の課長からのお達しが聞ける日となった。まず何名かの名前が呼ばれたが、その中に自分の名前は無かった。そのあとに続く言葉は、「今言った人達以外は、今後は地元の工場で勉強していってほしい」とのこと。つまり、自分は、地元に戻ることができるということである。その言葉を聞いたとき、一人で無意識にガッツポーズをしたらしいが、自分では憶えていない。嬉しさのあまり、居残る者達には誠に申し訳ないが、そのような仕草をしたらしい。そして、それから1週間程度のお盆前に、漸くこの辛い生活から元に戻れることになり、再び「ラムダ」と一緒の生活が出来ると思うと。嬉しくて仕方なかった。
 帰任の折り、居残る者達の見送りを受けながら、軽やかな足取りで駅へ向かう。そして電車に乗り込み、皆に手を振りながら、嬉しい嬉しい帰路に付き、その日のうちに無事に自宅へと戻ることができた。

5.地元工場での実習とクルマを運転できる生活

 地元へ戻った直後の、数日間のお盆休みは、とにかくクルマと共に過ごした。久々の運転ということで、少々緊張したが、クルマ自体はもちろん、運転席から眺める前方の景色は、まさに前途洋々だった。クルマ通勤こそまだ許可が出ないものの、遠い彼の地での実習の後はまさに自由時間。自宅に戻った翌日に早速近所のオーディオ専門店を訪れ、その場でローンを組んで、カーオーディオ一式を購入してその場で取り付けてくれ、それからは好きな楽曲に囲まれ、合わせて、好きなホームオーディオ達とも再開し、やがて交替勤務に入る頃には、目出度く、クルマ通勤の許可が下り、堂々と会社の正門を通って社内の駐車場に停められるようになった。会社の先輩の皆さんも見た目には、少々強面の人もいたが、クルマ好きの先輩も多く、我々のような「子供達」を、後輩として歓迎してくれ、様々な仕事を教えてもらうことができた。モノづくりのスタートとしての材料チェック~機械へセットしての生産手順、途中の検査等、必要なことを一から指導してくれた。また、職場内での同好会等で、大好きな釣りに誘ってくれたり、また、夜勤終了後、そのまま24時間営業のお店(今のコンビニの走りのようなストア)に一緒に行って、雑誌の立ち読みや、小腹が減ったと言って、サンドイッチ等を奢ってくれたりもした。今思い出しても、青春時代の楽しい時期の一つだったと思う。こうした生活が数ヶ月間続き、そこで、またまた変化点を迎えることになった。

6.早くもクルマを乗り換え

 高校を卒業して半年少々で、何と、早くもクルマを乗り換えることとなったのだ。別にそれまでのクルマが嫌になった訳ではなく、また筆者自身、他に欲しいクルマが現れた訳でもなかったが、丁度兄が好きな車(当然中古車)に乗り換えたいということで、前回同様、それまで兄が乗っていた車(今度はローンが残っておりこれを筆者が引き継ぐという条件付きであったが・・)を、筆者が引き続いて乗ることになり、兄が購入する中古車の、下取り車として、ラムダが手元を離れることになったのだ。この次のクルマは「マツダ コスモ リミテッド」。今で言うラグジュアリークーペである。降って沸いた話ではあったが、実は、筆者自身もそれまでのクルマも、それ程長くは乗れないだろうと思っていた矢先のことであった。その一番大きな理由は、燃料供給の不安であった。これまで乗ってきた「ラムダ」は、昭和52年式であるということは、少し前に書いたとおりであるが、その頃のそこそこスペシャリティーなクルマやスポーツカーの燃料は、ほぼ決まって「有鉛ハイオクガソリン」が指定されていた。その頃の排ガス規制強化に伴う形で、燃料そのものにも環境性能が求められるようになり、当時は当たり前だった有鉛ガソリンに含まれる、文字通りの「鉛」が、環境に対して有害とのことから、世は丁度同じハイオクガソリンでも、「無鉛」が当たり前になりつつあった頃である。事実、それまでの「ラムダ」に乗っていた頃から既に地元の田舎でも、有鉛ガソリンを扱うガソリンスタンドが少なくなり、近所に1件、それも、地下タンクではなく、ドラム缶で仕入れてくれていて、給油の際は、手動式ポンプで入れてくれていた頃の話である。クルマ自体も、当時の8年落ちとなっては、何時どこが故障してもおかしく無い時期でもあり、仮に故障しなくても、燃料がなければ、いくら完調な車にしたってお手上げである。この為、冒険がてらに遠出することもままならず、近距離をウロウロする程度のことがやっとだった。その気になればエンジンをオーバーホールして、無鉛対応することも可能ではあったが、それなりに多額の費用が掛かる上、親兄弟も、それなりに古くなって故障リスクも高くなったそのクルマは思い切って諦め、兄のクルマを引き継ぐようにと勧められた。そんな訳で、ラムダが自分のクルマになって半年少々、しかも、例の長期出張で、実際に運転してこれたのは、ほんの数ヶ月間しかなく、さすがに、下取り車として引き取られていった際、後付けで取り付けていたカーオーディオユニット一式を取り外し、車体は綺麗に洗車してワックスを掛け、室内のホコリを払って掃除機をかけ、精一杯綺麗な状態にしてあげ、後髪を引かれながらも、ありがとうと思いつつ、我が手元を離れていった。

 長々と執筆してきたので、読んで頂けている皆様も飽きてきたと思うので、次の愛車となった「コスモ」については、次回の(その4・・)から、改めて執筆していきたい。

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