「応援できる」って、そんなに偉いことなの?
人を応援できない人間は、心が乏しい。
こんなようなことを仰っている方を見かけた。人それぞれ考えはあって当然なので否定はしない。しないけど、むかついた。なぜ、「応援できる自分は正しい」と思えるのか。不思議でたまらない。
私は小学生の時から、「自分と違う意見を持つ人間の立場にもなってみる」という癖がある。
ニュース番組を観ていた時のこと。罪を犯した人間に対して、その人物と無関係なはずのコメンテーターが、「どうしてこんなひどいことができるのか、さっぱりわかりませんね」と怒りを顕にしていた。こう言うことが正義でしょ!と言わんばかりに。犯罪を肯定するわけではないが、無関係の人間に対して何故そんなに憤れるのか。こう言っておけば視聴者の支持を得られるからなのか?
最近はこういった極端な意見は言われなくなったように思うが、当時はこんなんばっかだった。
わずか12年の人生でも、それなりに荒れた道を歩いてきたと思っていた当時の私。あまのじゃくな性格も相まって、「善悪は一旦置いておいて、この人がこういう行動をしたのはなぜか。この人はどういう環境で生きてきて、そしてこういう発想に至ったのか」などをよく考えていた。この時間を勉強に充てていたら、いい大学に入れたかもしれない。そのぐらい思考を巡らせていた。そのぐらい大人達がいい加減な発言をしていたのだ。
「人を応援できない人間は、心が乏しい」という発言をした方はきっと、やることなすこと肯定されてきた人生なんだろうなと思った。もちろん勝手な想像である。応援できないという人間は、否定されて生きてきた人が多いのではないだろうか。少なくとも私はそう。頑張っても否定され、応援なんか当たり前にしてもらえない。夢を語っても「そんなの無理」と出会う人間全員に言われてきた。こんな道を歩いてきた人間が、ひとを応援するなんていう発想にならない。反面教師で出来る人もいるだろうけど。
不要なことかもしれないが、その人の歴史を想像して、その意見・思考を理解しようとする能力が私にはある。何に活きるかは知りません。少なからず、「自分はできるけど、これをできない人間は心が乏しい」なんて発言はしない人間に成長しました。
ひとの立場に立って物事を捉える能力がある人と、将来結婚したいです。