生きたくないと口にする

久しぶりに更新する記事タイトルがそれなのか。

丸善ジュンク堂の、杉田俊介・森岡正博トークイベント『生まれてこないほうが良かったのか?』(筑摩書房) 刊行記念生きづらい時代の「反出生主義」、その乗り越えは可能か? を視聴した。この感想を一部だけ。

森岡氏の『生れてこない方が良かったのか?』は面白く読んだ。およそ2500年以上にわたる反出生主義的思想史の検討を通して誕生肯定の哲学を基礎づけるプロジェクトのもと、世界思想やベネターの反出生主義が検討されてゆく。『ファウスト』の誕生否定から誕生肯定の思想の劇的展開の物語はものすごい話だと思ったし、古代インドの宇宙・世界観は現代からは太刀打ちできないような複雑さを感じた。森岡氏は自身の哲学の哲学を基礎づけるにあたって、主義思想、あるいは心理学の不充分なところからは一旦身をひくわけだが、まず世界の反出生主義物語、思想の豊穣さがあることに胸を打たれた。

トークイベントでは、必ずしも哲学理論の検討だけではなく、反出生主義的思想の現代における文化的位置にまで話が及び、聞くこちらも身が入った。まず杉田氏の自分に対する反出生主義と他者に対する出生肯定のどちらもが、昼夜交代で訪れるという話からイベントの口火が切られた。正直この話は頷くところが大きかった。確かに、この両極端な思想の同居性に、現代社会のあり方が個人の身体に及ぼしてくる影響を顕著に認めることができると感じた。

杉田氏は反出生主義の常にみずからを巻き込んでいくような、そしてそれが他者に波及する感染的なあり方を「ブラックホール」と例えていたが、まさにそんなことだとおもう。生活のなかで嬉しいことがあって、またそういうことを忘れたくないと思っていても、ちょっと苦しいことがあれば前に感じた喜びの経験はすぐに飛んでいってしまって、ああもう厭な気持ちにしかならなくなる。森岡氏は反出生主義の、生れてほんの少しの痛みがあればそれは生れてこないほうが良かったという結論に行き着くことに対して異様な潔癖主義とまとめていた。少しでも痛み、苦痛があれば、全ての経験がそれに塗りつぶされて、喜びも含めた自分の生き方を全部否定することになってしまう。そのような思想がとぐろを巻いている。

杉田氏がフリーター運動やロスジェネ思想の経験から口にした労働と反出生主義の話題から、現代社会の生産・能力主義的な資本主義が、強いてくる生きづらさがある。それに対して生存肯定の思想を打ち出していく。しかしそうした肯定にすら上手く乗ることのできない身体性の経験が語られていた。こんな生き方を強いてくる社会はどこかおかしいと言える。だからといってユートピア的な生存肯定の思想に身体を塗りつぶされることもできない。杉田氏はそこでバートルビーを持ち出し、would not to be、まさにできるなら生きないほうがいいのですがという否定的な身体性の感じられ方があったという。

苦しい労働の中で鬱状態になって、掃きだめに捨てられる。反出生主義がそこに侵入してくる。杉田氏が持ち出したフーコーの論点から敷衍して、森岡氏はフーコー・アガンベン的な生権力は使えなくなった労働者が勝手に反出生主義に感染して、みずから自己破滅的に消えていく。それは結局権力に都合のよいことであり、結果的に反出生主義思想は生権力に手を貸しているのではないか、と指摘する。これは、身に入った。

日常的な生きづらさを考えると、どうしても反出生主義的考え方に傾いてしまう。しかもそれは個人的な思想、考えであり、権力からの介入を感じにくい。他者からも結局、個人で選んだことだから、とそれ以上の追求もできない。自分が思って、そして好きなかたちで口に出している反出生主義がこんなところで生権力に出会ってしまっている。思想はSNS(noteもそうです)に乗って人々に感染していく。口に出せば出すほどプラットフォームには都合がよく、収益に回収される。もっと口に出しなさいとなる。個人的に、自発的に死にたいとつぶやくことが資本になり、反出生主義は人々に感染し、使えなくなった生が廃棄されていく。結局、人の死が金になることになる。

話が大きくなってしまうところはあるが、社会の仕組みとしてはそうなる。それは、厭だなとおもった。森岡氏は、反出生主義的思想は言論では勝利することはなくて、出生肯定の思想が最後には繁栄していくことになる。反出生主義はその言論の一面的なあり方のアンチテーゼとしてあったのではないか、と終わりに述べていた。

なんで、死にたい生きたくないで盛り上がることになるのだろうとは確かにおもった(イベント批判でなしに)。だったら黙らなくてはいけない場面がある意味存在するのではないのかとも。それはSNSでこうした話題でビューを稼ぐことを含んでいる。それで権力の都合によい形で人が死ぬことになるのなら、どうしてつぶやくことができるのか。

でもそこで反問する。死にたい生きたくないを口にしてはいけないのか。そんなことはない。そうした取り憑いた病を口に出すことで生きるやり方もあるのではないか。必ずしも上からの生権力に回収されない思想の発話の仕方もあるのではないか。どうすればよいのだろう。実践の問題ではある。しかし、どれほど言えばよいのか、あるいは言ってはいけないのか、という程度の問題ではないと感じる。自分でどれほど納得して口に出せるか、だろうか。反出生主義のつぶやきを、自分の納得したあり方として。

少し前までは、こうしたことは少なくとも自分事ではないなと思ってきた。死にたい生きたくないで通してきたけど、でも結局生きているのでは、と。でもそうでもないのではないかと最近思い始めている。

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