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「結婚」の外部(五等分の花嫁」について①)

一 プロットの転換

春場ねぎ「五等分の花嫁」(全14巻、講談社、2017~2020)は、ラブコメディジャンルにあたるストーリーマンガである。

物語の梗概を最初に示しておく。男性主人公の上杉風太郎は、結婚式場で妻と出会った高校二年生のときのことを夢に見る。風太郎は転校生の中野五月と出会うが、口論により彼女と諍いを起こしてしまう。そのとき富裕層の子女の家庭教師をするアルバイトの話が舞い込む。風太郎は背負っていた家族の借金を返済するためにその仕事を引き受けるが、しかし担当生徒は五月を含め一花、二乃、三玖、四葉と五つ子の姉妹全員であり、落第寸前で転向してきた勉強嫌いの彼女たちを高校卒業まで導かなくてはならなかった。姉妹の多くと敵対しながらも、風太郎は彼女たちとの信頼関係を勝ち取り、絆を深めてゆく。

いま、テクストを全体から俯瞰してみると、序盤は男性主人公である風太郎と敵対関係にある、五月に関係する言動のモチーフがプロットの推進力となっていることは容易に見て取れるところである。「結びの伝説」エピソードをピークにして(1)、「協力関係にあるパートナー」として五月が風太郎を認めるようになる物語としてこのテクストの物語文を作成することができる。

ところが、それによってプロットの推進力となる敵対関係が解消されるので、風太郎との関係に代替して、五つ子同士が風太郎をめぐって争う物語としての性格が強まることになる。ここにおいてダークホースとなるのが、物語の後半まで内面が空白として省略されていた四葉の存在であり、その内面をめぐる謎とともに、四葉が何を選択するのかがプロットの焦点となる。それにともない、五月は四葉の援助者として振る舞うことになる。終盤の四葉の「闇」の開示は、この作品におけるストーリーから、プロットの地層が露呈したことを意味している。

つまるところ、この物語の要諦は「なんだかんだで五月と結婚するのではないか」という「正ヒロイン」をめぐってラブコメのジャンルがもたらす期待の地平(「高慢と偏見」というわけである)を、四葉の内面の「闇」(2)が一点突破したように見える点であろう。すなわち、正ヒロインかのように見える、五月によるプロットの推進力が後半にかけてズラされている、あるいはそれがあえて起爆しなかった点に、この物語の面白さとテクストの特異な点があると言ってよい。

もちろん、こうした言明はいくぶんか転倒をはらんでいる。春場が明言するとおり、四葉にかんするプロットはあらかじめ連載に先がけて決定されており(3)、その構図に従うなら四葉が花嫁になることは自明であり、序盤にかけての五月のプロットは読者の期待の地平を脱臼させる撒き餌でしかないからである。

しかし、けっしてそれは五月のプロットがこれ以降完全にテクスト全体にとって捨象されていることを意味してはいないはずである。以下、この点について、テクストでどのようなプロットと諸モチーフが連関しているのかを確かめることで論じていきたい。それは恋愛に結実しなかった物語が、はたして結婚をめぐる異性愛体制下のテクストにとってどのような意味を持ち得るのかを見極めることを意味するだろう。

(1)春場は、「実は漫画もずっと、アニメを意識して作ってたんです。」「特に4巻くらいまでは、1クールでアニメ化するならこのくらいの話数で、こういう展開が必要だろうって考えて構成してましたね。」と発言している(「完結記念座談会! 春場先生と担当編集が『五等分の花嫁』のすべてを振り返る」(https://pocket.shonenmagazine.com/article/entry/gotohbun_20200224、2021年8月27日最終閲覧、現在リンク切れ)。そのため原作4巻までのプロットが五月を中心に緊密に構成されてあると言えるのも、こうしたメディアミックスを前提とした物語作成によるためであろう。このことは、マンガとアニメを比較してどのようなストーリーが取捨選択されつなぎ合わされているのかを実証することが更なる論として必要とされることを意味している。

(2)「そうした時々垣間見える昔の面影とか、姉妹への引け目みたいなところが、僕は四葉の魅力じゃないかと思っていたんです。(……)あれ〔第3巻27話〕以降、読者側も四葉の闇が見え隠れする回を望んでいるような気配があって……。四葉って闇を抑えきれなくなったときに魅力が出るんだなぁって(笑)。」(春場ねぎ・週刊少年マガジン編集部監修『五等分の花嫁キャラクターブック 四葉』講談社、2020、75-76頁)と春場は発言している。

(3)前掲『五等分の花嫁キャラクターブック 四葉』、74頁。

二 四葉の喜劇

五月のプロットのモチーフを明確にするためにも、四葉のプロットがどのような構造で成り立っているのかを最初に見ておきたい。

四葉が花嫁になるまでの物語は、古典的なロマンティック・コメディの物語構造をもつものとしてそれに比することができる。具体的には、三〇年代ハリウッド映画のロマンティック・コメディの変形として比較検討が可能である。

日常言語学派哲学者のスタンリー・カヴェルは、シェイクスピアを淵源としてハリウッドのロマンティック・コメディに至る、結婚をメインモチーフとしたコメディの系譜を「再婚喜劇」と呼んで定式化している(4)。いま、カヴェルの再婚喜劇論の骨子を田崎英明の検討に従って要約すると、以下のようになる(5)。

①ロマンティック・コメディは、近代の懐疑論の反駁という意味をもつ。世界は実在するかや他者の心は存在するかといった懐疑に対して、世界や他者への信を肯定するジャンルである。

②宗教戦争や内戦など社会関係を破壊する力に対して、ロマンティック・コメディは結婚を通して社会関係を結び直し修復するジャンルである。

③そうした社会関係の修復には、両性同士の関係の修復を伴う必要がある。すなわち、集団としての男性と集団としての女性の関係の変化によって社会関係の修復がなされる。

以上を定式化して、田崎は「ロマンティック・コメディとは、人間と人間の関係を破壊する力に対して人間が他者と和解する能力が、婚姻(現代では恋愛)において勝利する物語である」と述べる(6)。

別のところでカヴェルは「映画の主題は――映画のなかの二つのジャンルである「コメディ」と「メロドラマ」から判断するならば(…)――、女性の創造であり、教育を受けたい、自らの物語に声をもたせたいという女性の要求である(あるいは、かつてはそうであった)。それを結婚の可能性という形で描くのがコメディである。結婚という選択肢を拒否する形で描くのがメロドラマである。」とまとめているが(7)、再婚喜劇というジャンルを定式化してカヴェルが述べるのも、女性自身の声(欲望)の承認と確立が、離婚から再婚へと至る一連のシーケンスによって成立することだという主張である。その際に伴うのが、田崎が述べる意味での、社会関係の修復というリペアの物語ということなのである。

「五等分の花嫁」で四葉が演じることになる彼女自身の物語も、つまるところ「再婚喜劇」という定式に則ってこうした社会関係のリペアと自身の欲望の承認というモチーフを伴っているとひとまずは言うことができるだろう。以下、その様相を追ってみよう。

一度京都で風太郎と出会った四葉は、「必要ある人間」になるために、「私はお母さんのために/風太郎君は妹さんのために/一生懸命勉強しよう!」(11巻36頁)と将来への約束を交わす。こうした約束は言うまでもなく、結婚の誓いに相当する、二人の関係を未来に投企し成立させる最初の行為遂行的発話である。物語的には、この約束を最初の象徴的婚姻と捉えることができるだろう。

だが、こうした人間相互の社会関係を破壊する力もまた再婚喜劇には存在するのだった。四葉のプロットの場合、その力は四葉自身が所属する家族の内部そのものから到来する。すなわち、シスターフッドの崩壊である。

二乃が述懐するように、「私たちが同じ外見/同じ性格だった頃」「まるで全員の思考が共有されているような気でいて居心地がよかった」(第6巻41頁)五つ子の調和状態から、四葉が変容したきっかけは、約束を結んだはずの風太郎と親交を取り交わそうとする一花への嫉妬からである。この感情の出来は、五つ子個人の感情の発生であると同時に、欲望の発生の起源でもある。この出来事によって、四葉は他者と識別するための記号としてのリボンを結んでキャラとして生成することになる。

こうした感情と欲望の力が家族関係とともに最初の約束を崩壊させることになる。すなわちシスターフッドの崩壊と四葉の落第による約束の破棄である。

一花への嫉妬から、他者に「必要ある人間」として認められるようになるという約束は、他者にとって「一番」で「特別」な人間になるという形で、四葉自身にとってその意味がズラされることとなる(第11巻59頁)。ここにおいて、四葉にとって自身のズレた約束そのものが、他者すなわちシスターフッドを崩壊する力へと変貌を遂げてしまうのである。これによって生じた五つ子間の不和は、最終的に四葉を破局へともたらすことになる。

だが結局自らの破局を救ってくれたのは姉妹であり、その反省から四葉は風太郎や姉妹の援助者という機能に四葉は徹することになる。そうした援助とはつまりシスターフッドの修復であり、五つ子と風太郎との関係を取り持つことである(第11巻75頁)。

しかし、風太郎はただ一人、家庭教師と生徒の関係で「最初に変わってくれた」(第3巻145頁)人物であると四葉を承認するようになり、四葉に告白をする。その後風太郎は四葉にプロポーズを申し込むが、このシーケンスは重要である。なぜならこの風太郎のプロポーズによって四葉は、最初に京都で出会ったときから風太郎を好きだったという記憶だけではない記憶、すなわち「小さい頃の夢」であった「お嫁さん」という欲望の記憶を想起するからである(第14巻125頁)。この二回目の「約束」こそ、四葉のもつ、遅れて到達する真の欲望への自己承認である(第14巻127頁。ちなみにこのページで約束の投企とともに五つ子の視線が挿入されているのは象徴的である。この五つ子、すなわち社会的な関係であるシスターフッドの修復というモチーフが貫徹されているからである)。ここにおいて四葉の「声」がもたらす再婚喜劇のプロットは頂点に達すると見てよい。

(4)Stanley Cavell, Pursuits of Happiness: The Hollywood Comedy of Remarriage, Harvard University Press, 1981(邦訳、スタンリー・カヴェル『幸福の追求 ハリウッドの再婚喜劇』石原陽一郎訳、法政大学出版局、2022)

(5)田崎英明「『ユー・ガット・メール』、あるいはロマンティック・コメディの臨界」(『現代思想』第31巻8号、2003)

(6)前掲「『ユー・ガット・メール』、あるいはロマンティック・コメディの臨界」。

(7)スタンリー・カヴェル『哲学の〈声〉』(中川雄一訳、春秋社、2008)、216頁。

三 五月の秘密

こうした再婚喜劇の様式を四葉のプロットに見い出すことができる。しかし言うまでもなく、このテクストにとって重要なのは四葉だけが主人公として存在するわけではないことである。このテクストにおける物語は四葉以外でも取り出すことが可能であり、また五つ子である以上、キャラ同士の分身的関係が物語のモチーフにおいても反照し何らかの形で反復することが期待されるからである。このテクストでは、そうした期待は、再婚喜劇が完結するためのモチーフがストーリー上はすべて四葉によって起源をもつものではなく、それゆえ必然的に異性愛結婚体制下における他の友愛の可能性が実現されるという点において結実することになる。

どういうことだろうか。ここではそうした問題を五月のプロットにおいて眺めてみたい。

再婚喜劇を完成させるために用いられた、分身として乱立するキャラを見分けるモチーフはプロット的には四葉に起源をもつものである。つまり、四葉は他の五つ子と識別してもらうために記号としてのリボンを自らに付与し、キャラの確立を意図していたことである。このモチーフは、四葉のプロットにおいては最終的にリボンの廃棄となって完結する。

しかし、この誰かを見分けるというモチーフがストーリー上で最初に展開されたのは、五月においてである。このことは序盤の主要長編エピソードである「結びの伝説」において描写されている。

五月は、当初風太郎の家庭教師としての覚悟のほどを確かめようとして林間学校に参加していた。しかし一花と密会する風太郎を発見し、その家庭教師としての覚悟という点からの疑念が、「男女の仲」を構築する可能性をもつにふさわしい人物かという点への疑念に変化していく(第4巻126-127頁)。

疑念をもった五月は、一花に扮装して風太郎に会うことでその覚悟を確かめようとするが、それを聞き出す前に風太郎に正体を看破されることで失敗してしまう。しかし逆接的にもその風太郎の行為によって五月は半ば目的を達成している。なぜなら五つ子にとって他者に見分けられることは「愛」を意味しているからである(第5巻54頁)。

このように、五月によってもたらされた五つ子を見分けるというストーリーの展開は、四葉によってテクストの固有のモチーフとして強化され反復することになる。そして遡及的に、五月を見分けた風太郎の行為は「愛」と称されることになるだろう。

しかし、五月を主人公とした、風太郎の家庭教師としての覚悟を確かめるという五月のプロットは、その後五月が風太郎に融和的になり、また五つ子を見分けるモチーフが四葉に引き継がれるようにして、その後のテクスト全体の花嫁を決定するというプロットの推進力が彼女に委譲されることによって鳴りを潜めるようになる。

しかし、この五月から四葉へのメインプロットの交代は、五月がもつ「愛」の可能性がそのまま破棄されることを意味するわけではない。それを示すのが、四葉が風太郎の恋人になる上で「まだやらなくちゃいけないこと」(第14巻32頁)、すなわち二乃の承認を得るための行動をおこす、第14巻117話-118話のエピソードである。

このエピソードにおいて、四葉は風太郎に対する思いの覚悟を伝え、それを二乃に対話によって承認してもらおうと奮闘するが、その裏で同時進行するのが五月の「モヤモヤ」を示すエピソードである。このことは再婚喜劇の様式の完成を示す上で、二乃の承認と同時に、五月の「モヤモヤ」を解消することがプロット上必要であることを暗示しており、重要かつ象徴的な挿話である。それは四葉の援助者であったはずの五月が、最終的には敵対者として四葉の前に現れることを意味しているからである。ここにおいて、五月のモチーフは最後にプロットの推進力として具現化されている。

五月は懇意にしている塾講師の下田に、自分の「モヤモヤ」の正体を突き止めるアドバイスをもらうが、それは五月にとって的外れなものであった(第14巻67頁)。

下田は五月の悩みを、男女の三角関係による嫉妬、すなわち風太郎に対する恋心として解釈しているが、五月はそれを否定している。このような五月の悩みは、無意識で風太郎に恋をしているといったこととも無縁なことは明らかだろう。つまり、四葉のプロットが体現するような、異性愛結婚体制下での愛情とは異なる愛の可能性を示している。

ではこのような五月の悩みは何を示しているのか。それは五月が何によって悩みから解放されたのかによって図られるだろう。二乃と四葉の対話を聞いて五月は「ずっとモヤモヤしていた感情がなくなった」(第14巻101頁)と、二人の関係の調停と自身の感情の融和に対して言祝いでいる。五月が祝福するのは、四葉が、二乃を含む五つ子が風太郎と「これまで過ごしてきた日々を無視」(第14巻93頁)することなく向かい合う覚悟を五つ子に対して示したからであり、二乃が四葉に対してこれからも競い合う「ライバル」として承認した関係、すなわちシスターフッドの修復と護持であり、また二乃が風太郎への情熱をいまだ喪っていないことへの感情と重ねるようにして理解する、自身の風太郎への友愛の記憶とそれをもつ「自分が輝いていた記憶」である(第14巻104頁)。五月が抱えていたのは何かが喪失することへの不安だったと言える。

このような「モヤモヤ」の解消は風太郎には「秘密」のものとしてあることを五月は語る。ならばその語り得ない欲望は、異性愛体制に承伏することがないもうひとつの真実の欲望として存在する、これからも保持される彼女自身の記憶を意味しているだろう。このことはつまり、五月が援助者として四葉の欲望に完全に備給されることのない、五月自身の「声」の在り方を示しているだろう。

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