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'より良い世の中'とは?
若い 頃から長年、公平な市場の元で正当な競争をすることが'より良い世の中'に一番近づけると思っていた。
外の競争にさらされない、例えば市役所での窓口でのサービスの悪さ。規制に守られた、銀行の旧態依然としたプロセス。
それに対し、市場の競争があるところではどんどん良い商品とサービスが開発され、ユーザーに選択されて、幅広く行き届く。
規制をなくし、市場に取り込み、ユーザーが選択肢を多くもつことが、'より良い世の中'につながっている。高度成長時代の学生時代、世の中全体が着実にゆたかになった確かな手触りもあったり、その中で自分自身も競争に真正面から挑んで成長できたという実感もあった。いつしか競争が'より良い世の中'を作る、全く疑いのない指針になっていた。
やがて幸せな高度成長も終わり、バブルが崩壊し、格差が声高く叫ばれるようになっていった時も、100%ではないと思う面もあったものの競争から'より良い世の中'を導く以外の新たなやり方は見当たらず、変わらずビジネスの中で競争の中から'より良い世の中'を導くことを考え続けた、20年を超える企業人生。
その疑いのない、しっかりとした足元がガラガラと崩れたのは、東大の授業でやっていた「クイズ&ギャンブル・ゲーム」をALIVEでたまたま受講した3年前。世の中を歪にしか見れない人間の弱さを体感し、さらにその歪さをより見えているのは、努力して競争条件で勝っている層ではなく負けているマイノリティ側であることに、足元がぐらぐらと崩れ去るような衝撃を受けた。
確かに格差が広がっていることは知っていた。でも、競争で実現している全体の'より良い世の中'をマイノリティ側も享受している以上、格差は社会として受け入れないといけない仕方のない部分もあると考えていた。
努力して競争に比較的勝っていると思っていた自分の感じる'より良い世の中'は本当に'より良い世の中'だったのか。勝っているマジョリティ側には見えていない都合の悪い世界を、そのまま見えないことにしていなかっただけなのではないか。
今考えていることは、'より良い世の中'を作るために、恵まれていないマイノリティの起点で考えることが、競争すべき視点ではないかということ。これは決してマイノリティのための人間愛からきた純粋なものではない。
マイノリティの直面している困難のなかに社会の歪さが隠されているとすれば、それはマイノリティに止まらない幅広い世の中へのインパクトがあるのではないか。
資本の論理の中で、しゃかりきになって、お金が潤沢なマジョリティのために良い商品・サービスを提供することがそこからマイノリティも含めた全体の'より良い世の中'につながると信じていていた。
そこから、マイノリティの声に傾けることで世の中全体の歪さに手を突っ込んで、マイノリティに止まらない全体の'より良い世の中'のための社会のインパクトを目指していく。
単純にいうと、マイノリティの持つ社会の課題とマジョリティ側になりやすいビジネスをつなぎ、'より良い世の中'へ。
社会の課題とビジネスをかき混ぜる、自身のライフワークの意味を改めて考えてみた。