見出し画像

初めて旅先の日常に触れた旅 〜カンボジア・シェムリアップ〜

初めて旅先の日常に触れた旅

こんにちは。
今日は、POOLOの課題記事である「私の最初の旅」について、述べていく。
最初の旅、という話になると遥か昔のことになるので、今回は私が旅をする上で特に大切にしている「旅先の日常をお裾分けしてもらう」ことを、意識するきっかけになった旅の話をしていく。

初めて自分で稼いだお金で行ったカンボジア

遡ること約10年前。
高校の頃の友人が旅に目覚め、もとより海外に興味があった私に、東南アジアに行きたいと声をかけてくれた。

遺跡に興味がある私は、ずっと行きたかったところの一つ、アンコールワットを見るために、カンボジアなら行く!と答えたことで行き先まで決まった(当時東南アジアに興味がなかったにもかかわらず、カンボジアで東南アジアの面白さに気づいてしまったことはいつか別の機会に)。

私とその友人のほかに、ノリでついて来た共通の友人が1人。今思い出しても、アレはこれまでの旅の中でも記憶に残る珍道中だったが、これもまた別の機会に。(3人が揃うとよくこの時の話を未だにしてしまう)

現地ガイドのコムロンさんに、バイヨンやアンコールワット、ベンメリアなどたくさんの遺跡に連れて行ってもらった。

現地の水浴びスポットで水遊びをしたり、初めての蓮の実を食べたり。

内戦中の痛々しい記憶の残る、キリング・フィールドにも行った。

当時から国際協力に興味のあった私。
キリング・フィールドに胸を痛めることもあったが、そんな私の先入観を塗り替える出来事があった。

先述の有名どころの遺跡の他にも、田舎の方のマイナーな遺跡にも行った。

そのうちの一箇所で見た親子のことが、今でも脳裏に焼き付いている。

どんなところにも日常がある

これまで自分の足で歩く旅の経験があまり多くなかった私は、この旅で自分の価値観を揺らがす出来事と出会う。

私はカンボジアで初めて、物乞いと出会った。

物乞い他人に物を恵んでくれるように頼むこと。また、その人乞食(こじき)。

Weblio辞書

その存在がいることは知っていたが、自分の目で見るのは初めてだった。彼らは惜しげもなく地雷で失った四肢を見せつけるように座り込み、手で何かを掬うような形を作ってこちらに差し出す。

かわいそうだからとお金をあげてしまうと、その方法でお金を稼げると考えて社会復帰を諦めてしまう、と何かで読んだ知識を思い出す。私は、コムロンさんの後ろをついて、颯爽と彼らの前を横切った。

物乞いは遺跡までの通り道に沿って座っていることが多い

皺のある顔でしかめっ面を見せてくる老人たちの前を過ぎ、遺跡にたどり着いて靴を脱ぐと子供たちが寄ってくる。

すると、コムロンさんが子供たちに紙幣を手渡している。
今のは何?と聞くと、靴を見張っててもらうんだと返ってきた。
お金を渡さないと靴を持って行かれてしまうから、と。

何とも複雑な気持ちになる。
私が履きつぶしかけているスニーカーですら、欲しいものになってしまう。

遺跡を見終えた後、しっかり私たちの靴を見張っていてくれた子供たちの前で、靴を履き、遺跡を後にする。

先ほどはあまり見えていなかった物乞いが並ぶ通りも、よく見てみると、四肢をなくした老人たちのほかにも、はだしで駆け回る子供たちや、そのお母さんたちも老人たちの後ろで座っている。

お金をくれと、手をこちらに寄こす老人たちの後ろで、きゃーと子どもの高い笑い声が響いている。そんな子を抱き上げて、目元を柔らかく緩め、愛おしそうに見つめる母親を見たときに、何とも不思議な気持ちになった。

こんな日本じゃありえない状況で、日本と同じように母が子供を愛おしそうに抱き上げている姿。

暮らしの質や文化が違えど、わが子を愛する母親の愛情は何一つ変わらないのだと、思い知らされた。

そして、その表情は自分たちの貧しさを嘆いている顔ではなかったのだ。
ただ、目の前の子を大切に思う。それだけだった。

そこで私は、自分の中に先入観があったことに気づいた。
途上国の人は、貧しい暮らしをしている、かわいそうな人たちだと、そんな考えが自分の中にあったことに気づいたのだった。

ガイドのコムロンさんの人生に触れる

私たちがカンボジアに滞在している間、ずっと私たちのガイドをしてくれたコムロンさん。

友人が構えたカメラに向かって乾燥したワニ肉を食べようとするコムロンさん

どこか適当で、なぜか観光客の私たちと一緒に楽しんでいた、日本のガイドだったらありえない体験をたくさんさせてくれた、最高のガイドである。

彼は、戦争博物館に足を運んだ時、自分も昔は一人の軍人だったことを教えてくれた。銃を持ったし、生き延びて逃げ帰る訓練もしたと。

戦争博物館の展示品

そして、戦争は終わった。

それまで、自分たちが磨いてきたスキルがいらなくなった。
そんな彼は、観光ガイドになったんだと。

カンボジアでは観光ガイドで、そこそこ稼げるらしい。ただし、どの程度稼げるかは、そのガイドが何か国語を話せるかに依存する。
そして、観光客で多いのは日本人、中国人、韓国人。

今は韓国語と中国語も勉強中なんだ、と答えた彼は当時幼い愛娘の父親でもあった。
彼の日常は、それまで生きてきた三十数年で大きく変わっていった。
それでもその変化に適応して、自分の生活を守り続けていた。
コロナ禍でどんな影響があったか少し気になるところではあるが、その件については、そのうち連絡を取ってみようかと思う。

まとめ

私がカンボジアに訪れたとき、国際協力がやりたいという志はすでに持っていた。しかし、土木インフラを乱立させればいいというわけではないことを、この旅をとおして重々思い知らされた。

たしかに、インフラ整備はその土地の社会便益を大きくすることができる、大規模プロジェクトである。
しかし、その一方でインフラ整備の影で稼ぐ方法をなくしてしまった、家をなくしてしまったという話も聞いたことがある。

つまり、誰かのいつもの日常を壊すリスクを大いにはらんでいるものだと、気づくことができたのだ。
自分ごとに置き換えると、公共の福祉とはいえ、みんなのために住んでいた家を追われるのも、職を失うのも、どうしようもない不安が付きまとう。

昨今の国際協力の仕方は多岐にわたるものの、土木インフラと雇用や暮らしはあまり紐づいてプロジェクトが発注されているイメージは湧かない。
しかしそのような課題は、おおむね同時に起きてしまうもので、政府側がそこまでフォローできているのかも、あまり表に話が出てくることがない印象である。

そんなときに、どうしたら彼らを社会のつまはじきものにせずいられるかが、本当に現地のためを思うプロジェクトになると私は信じたい。
少なくとも、そこで私は見捨てるような協力者にはなりたくないなと、思ったのであった。

いいなと思ったら応援しよう!