生きるのが楽しくなって、長生きがしたくなった 〜自分が素直になれた場所、POOLO JOB〜
こんにちは、白波です。
現在、TABIPPO主催のPOOLO JOBでトラベルクリエイターになるための講座を受けている。これまで多くの課題をやってきたが、ついにフリーテーマの課題が出た。
もともと書くことが好きで参加を決めたPOOLO JOBであったが、この3か月で書くこと以外にも生き方、働き方などの面でも非常に多くの刺激を得ることができた。
その中でも、自分の中で特にピンときたのが、働く(活動する)環境。心理的安全性が高い場所で、活動できたことに満足感を感じている。
一会社員として、新卒から勤めてきた私。実はずっとそういう場所が欲しかったんだろうとPOOLO JOBに参加して、気づくことができた。
今回は、心理的安全性を気にするようになったきっかけの話と、心理的安全性が高い場所で活動をした私の話を述べていこうと思う。
心理的安全性を気にするようになったきっかけ
正直に言ってしまえば、心理的安全性を気にするようになったきっかけは、新卒で会社に入ってすぐに着いた先輩と周囲の振る舞いだと思っている。
もちろん1つが100%の原因だとも思っていないので、順を追って話をしていく。
今の会社への新卒入社
私は大学院を修士で卒業し、今の会社に2020年に新卒入社した、現在4年目の人間である。2020年入社。そう、新型コロナウイルスがついに日本に上陸し、猛威をふるったあの年である。
入社式に同期みんなで出席し、約1か月の泊まり込みの研修を受け、いくつかの部署を経験した後、自分の部署に配属される。それが私の会社の通年の新入社員の過ごし方だった。
私たちは、配属が決まっている各支社でオンライン入社式を迎えた。誰も特に会話をしないまま、私たちは配属先に分かれた。
それからすぐに発出された緊急事態宣言。
入社して1週間で会社に行けなくなった。在宅勤務をした。
一応面倒を見てくれる先輩はいたが、誰もそんな働き方をしたことがなかった。私も様々なことがよくわからないまま、数ヶ月が過ぎた。
どこかで感じる違和感とそれを無視した私
その後、少しずつ出社が増えた。普段ならもう部署全体の歓迎会も終わっている頃だったが、私は同じチームのほとんどの人と話をしたことがなかった。
これは今もそうだと思うが、雑談が許される雰囲気がないのである。仕事でかかわりのない人と、会話をすることがなかった。
そして、面倒を見てくれる先輩は、ひどく気分屋だった。
分からないことを聞きに行っても、(今手が離せなくて)無理ですとだけ返される日もあれば、自分の資料の相談にこちらに話しかけに来たり、これも勉強しておくといいよとアドバイスをくれる日もあった。
機嫌が悪いときには、わからないことを伝えようとしただけでも、「はぁ?」と言われたりもした。
さらに、自分が嫌いな人間に対して容赦がなかった。
また別の5年目くらいの先輩で、何をしても怒られるような人がいた。
多分他の人もよく怒っていたから、脇の甘い人だったのだろうとも思う。それでも、そんな言い方しなくてもいいんじゃないかと思うことが溜まっていった。学生時代の私だったら、噛みついていっていたと思う。
ただ、1年目の時は本当に頼れる人が誰もいなかった。まだまだこの人から勉強させてもらわないといけない立場の人間で、明日も明後日もこの人と働き続けないといけないと思っていた。
昔からの友人にだけ連絡をとって、苦しいんだよね、と打ち明けていた。
無視を続けるには限界が来た1年目の冬
気分に振り回されるのにも慣れた頃。そのよく怒られる5年目くらいの先輩が、退職することになった。当時コロナウイルスの影響はあったが、緊急事態宣言などの行動規制は特になく、チームレベルの少人数で送別会をすることになった。
よくあるような、退職者からの言葉。そして、退職者への言葉。一人一言ずつ話す中で、私の面倒を見ている先輩から、退職する先輩への言葉の番になった。
もう嫌味を言われずに済むし、会わなくて済むんだ。よかった。
他人事ながら、そう勝手に思っていたのに、出てくる言葉はひどいものばかりだった。
その人の振る舞い一つ一つを晒し上げて、よそでは通用すると思うなと、酒のせいにしてでも笑いながら言いたかったのだろうか。
退職する先輩は、住まいも変わり遠方に引っ越すことになっていた。
もう会いもしないだろう人に、最後までそんなことを言う人がいる事実に、言葉を失った。
そして、そんなことを言うこの人のことを誰も止めはしない。後輩ならまだしも上司もそうだった。
薄ら笑って終わっていく。
今度は自分がこうなる番かもしれないとも思った。
その日から死ぬほど落ち込んだ。
1週間後には会社出勤前に涙が出るようになり、帰りも最寄り駅についてから涙が出るようになった。それでも、1年目で精神病むのは早いと先輩に刷り込まれていた私は、精神科に行かなかった。
こんなところで働くなら死んだ方がましなのではと思ったこともあったが、旅好きが功を奏して、何が悲しくて都内で死なねばならないのかと思い、死ななかった。
まだ見ていない見たい場所があるのに、死ぬことはできなかった。
年末年始の帰省のタイミングで、昔からの友人に会った。苦しいことを打ち明けていた友人だった。
同じタイミングで就職した友人は、職場の人間関係は友人自身が認められるほど恵まれた環境だった。その環境にいた友人から見ると、それはもう私の職場はひどいらしく、早くやめなと言ってくれた。少しだけ、気持ちが復活した。
コロナで、友人にもオフラインでなかなか会えなかった。
自宅と会社の往復の毎日。
何かが多分麻痺していたんだと思う。
帰省で少しだけ気持ちが復活した私は、年始以降はきつい中でも、自分の居場所がここだけではないことを思い出せた。
ただ、職場の誰も信用できないという気持ちだけは捨てられなかった。
担当の先輩だけは嫌すぎて、藁にも縋る思いで神頼みをした。
初めて京都旅行に行き、縁切りのお願いをした(縁切りで有名な安井金比羅宮に行った)。
おかげでその後2週間くらいで、ひどい物言いの証拠を残すことができた。どこまで信じられるかわからず、相談できなかった上司に提示して、担当を外してもらった(上司より神の方が信じられる状況だったのも、今思えば笑ってしまう話だ)。
それでも担当が変わっても、職場に対する違和感は払拭されなかった。
同じ職場内でも敵意剥き出しにやってくる人はいるし、それを止める人もいない。
自分のことは自分で守るしかない。
そうやって、3年間を過ごしてきていた。
POOLO JOBで自分を守ることに徹しなくていい場所ができた
POOLO JOBとの出会い
少しずつ、会社内で自分の居場所を作りつつも、仕事の理想と現実のギャップや、行きたい部署に行けないストレスを抱えたまま、2023年4月に4年目になった。
その直前に出会った、POOLO JOB。
旅好きだった私は、以前からTABIPPOのことは知っていたが、イベントなどに参加したことはなかった。それまでは、メディアとしての利用や、グッズを買ったことがある程度の距離感だった。
TABIPPOが謳う「旅を仕事の1つにする」という言葉。
私が好きなものが仕事になるかもしれない。
そんな簡単な話じゃないことは重々承知していたが、仕事が閑散期になるこのタイミングを逃せば、次は参加できないかもしれないと思った。そして、何もしないまま、また繁忙期を迎えることも憂鬱になる心地がした。
きっと次の年も、自分の行きたい部署には行かせてもらえそうにないことも、分かっていたから。
まぁ、一回やってみようかな。
違うなと思ったらこれも勉強と思うしかない。
説明会に参加してみて、率直に思ったのはそんなこと。書くことは好きだったが、私は私の好きなものと仕事に必要な資料と論文くらいしか書いたことがなかった。そんな私でもできるかどうかなんて、分からなかったから。
自分の気持ちに素直に生きたい
そんな気持ちで入った、POOLO JOBが4月から始まった。
3カ月なんてドラマやアニメの1クール分でしかないのに、信じられないような速度で私の生活を変えていった。
この3年間の鬱屈とした気持ちを、新たな気持ちで見つめなおす機会にもなった。そして、自分が何をやりたいのかを、まだ詳細には描けなくても、漠然とした形で思い出すことができた。
それができたのは、自分の気持ちに素直になれる環境があったからだと思う。
困ったときには困っていると、言っても良かった。
やりたいことをやりたいと、言っても良かった。
背中を押してくれる人が、たくさんいた。
この3カ月をとおして、社会人になってから、自分の視野が狭くなっていたことに気づいた。
一人でも、友人とも、旅をしていたあの頃。
こんなに元気になれる場所があることを、昔は知っていたはずだったのに。
すっかり忘れていた。
そんな環境を作ってくれた、POOLO JOB運営、サポーターのみなさま、講義をしてくれた講師の方々、そしてメンバーには心よりお礼を言いたい。
仕事は続いているし、部署も変わっていないけど、3ヶ月前には考えられなかったほど、生きるのが楽しくなった。大げさだなと私も思うが、本当にそんな気持ちだ。
先日のオフラインもくもく会で、3カ月で何が変わったという話になった時にすんなり出てきた言葉は、「長生きしたくなった」だった。
たまに大好きな旅をして、その短い時間だけを頼りにして生きる。もしくはその短い時間を大切な思い出として、それにすがって生きる。そんな生き方なら、無理に長生きなんてしなくていいと思っていた。親より長生きすれば十分でしょと。
でも、ちょっと世界を広げただけでこんなに生きたくなってしまったから、多分大好きな人たちとさらに世界を広げたら、もっと生きたくなるような気がしている。
まとめ
心理的安全性が、自分のエネルギッシュさに直結しているような気がしたここ最近。
POOLO JOBは、一応今日が最終発表。
定期的にみんなで会える機会は、もう私たちが動き出さないと来ないことになる。
私のエネルギー源だったPOOLO JOB。
ここで出会えたメンバーとの関係は、本当に今後も続けていきたいと思う。
みんながどんな道を進んでいくのかも、どんな面白いネタを稼いでくるのかも、全部楽しみにしている。
もちろんすぐに会える人も、会えない人もいる。しかし、ここ数年で苦しめられた原因の一つであるコロナのおかげで、オンラインなら時差はあれど、つなぐことができる。
POOLO JOBで世界の見え方が変わった私は、多分これから自分のいる環境を大きく変えるだろうと強い確信がある。
職場ガチャと言われるように、環境を変えてもなんか違うな……を何回か繰り返すかもしれない。それでも、POOLO JOBで活動ができたことを忘れなければ、「自分ってこんなに人が好きだったのか」とも思えるし、「もっとこの人に喜んでほしい、元気でいてほしい」と思って、こんなに動けることも忘れないでいられる。
私がやりたい国際協力の一つに、今を生きる現地の人が本当に幸せと感じられる手助けがある。
本当に漠然としている、やりたいことだ。
それでも、POOLO JOBで数年ぶりにちゃんと目の前の人たちを素直に愛せて、正直な自分でいられたこの経験は、明らかに私の幸せに紐づいている。
きっとこの経験が、私がやりたいことのヒントになっているような、そんな気がしている。
詳しい宝の地図はまだ手にできていない。
それでも、どこかにお宝が眠っているらしいと知ることができた。
進むには十分すぎる情報だった。
ここで最後にもう一度、お宝を私に教えてくれたPOOLO JOB関係者全員に多大な感謝を。