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母に笑顔を取り戻したアイスクリーム

「私には何もないんだな」
熱中できることを探したいと思いながら、あれこれ手を出すもどれも中途半端。結婚していないし恋人もいないし、友人はそれぞれ忙しい。ひとりぼっちだな。今日も淡々と事務仕事をこなし、呟きながら会社を出る。

ふと携帯を見ると父からメッセージが。
「お母さんがくも膜下出血で倒れました。これから手術です」

母、くも膜下出血で倒れる

幸い手術は無事終わった。脳神経外科でMRI検査前に倒れたため、処置は速かった。でも、コロナ禍で病床には行けない。時々来る、看護師や医師の電話が頼りだ。手術から10日後、父が母と電話で話す。看護師がかけてきた電話でついでに話させてもらったようだ。両親が趣味でやっている畑の様子はどうだと。同じことを何度も聞いてくる母。畑が一番気になっていたようだ。

嫌な予感がしていた。これまでの母なら、娘や息子はどうしているかと聞いてくるはずだ。父に聞く。「お母さんは私たちのことを覚えているのか。医師は脳に障害があるとは言っていなかったのか」。「いや特に」父はそこまで深く考えなかったようだ。

母はなぜか家族の誰にも言わず、脳神経外科に通っていた。なぜ一人で脳神経外科に。MRI検査前だったなら何回か通院しているはずだし、頭痛などの症状があったはずだ。

母と私は仲はいいほうで、週末はよくウォーキングに行ったりランチをしたりしていた。だが、年々体の不調やご近所や父の愚痴が増えていき、話を聞くのが辛くなっていた。だから話をそらしたり、あまり長い時間話さないようにしていた。

心配した叔母から電話が来る。最近、長電話がかなり来ていたと言う。母は抑うつ状態に近かったそうだ。「誰も私の話を聞いてくれない」。心に何かがずしんと来る。

母、予定より10日早い退院

手術から一か月後。オンライン面会ができると聞いて、仕事を休み父と向かう。倒れてから一度も母の顔を見れていない。面会直前に担当医師から父に電話が来る。「退院予定まであと10日ありますが、今日連れて帰りませんか」。父も私も顔色が変わる。何が起こったのか。

「数日前から認知症を発症しています」
その言葉で目の前の風景が変わる。他の人の荷物を自分のものと思って触ったら、それを責めた人達への不信感で言動が変わってしまったそうだ。他の人たちと仲良くやっていたと聞いていたのに。幸い身体機能に問題はないから動き回れてしまう。入院中に認知症を発症することは時々あるが、早いうちに元の環境に戻ったら良くなる可能性が高いと言われた。

久しぶりに見た母の顔。温厚で人懐っこかった母が別人のようだった。周りへの不満をずっと口にする。父と私はなるべく母に明るい話題を振ろうと必死だった。面会が終わった瞬間、「連れて帰ります」と父は言った。

病院から帰って私はすぐ父と弟に厳命する。「怒らない、責めない、怒鳴らない」「みんな笑顔で行きましょう」。病院で5年ほど事務経験があった私。怒ってしまうと母の症状は余計悪くなってしまう。必死だった。

母の認知症は思っていた以上に良くならなかった。野菜を茹でるためにお湯を沸かすと、1センチに満たない深さに水を入れて火をつける。トイレの場所も分からなくなっていた。落ち込む母に「そんなこともあるよ」「大丈夫、大きい問題じゃないよ」と必死で声をかける。

母、大好きな畑に行く

退院して数日後、父は母を連れて畑に行こうと提案する。車で3時間かかる場所だ。今の母にはかなり遠い。
「お母さんに思い出してもらいたいんだ」
父から聞いたことない言葉だった。

何度も通った畑へ向かう道。父の期待むなしく、母はどこを通っているかや今まで入ったレストランは覚えていないようだ。それでも畑が見えると母は喜んだ。畑に着いた途端、素早く収穫を始める母。スナップエンドウをほいほい摘んでいく。「雑草は鎌を使った方が速く取れるのよ」と、鎌や鍬をシャッシャッと雑草を刈り出す。元の母が戻ってきたようだった。活き活きと動いている母を私たちは一か月ぶりに見た。畑に連れてきて本当に良かった。

脳に障害が少しあると医師からは言われていたが、その一つが自分の体力が分からないこと。心配でずっと見守っていたが、数分間、目を離した間に母は野菜の中に倒れていた。電池が切れたように体力が切れてしまったのだ。母を車に連れて行き休憩させる。

他の障害としては記憶が混同していること。亡くなった人が生きていると思っていることが特に多かった。畑仲間の友人に会って喜んでおしゃべりしていたが、昨年亡くなった友人の旦那さんの話をした時はドキッとした。母と話す前に、父がお仲間たちに「そういう思い違いがあるので、旦那さんが生きているように話すかもしれません」と伝えてあった。

ただ、尿意だけは困った。尿意が分からないのだ。大人用オムツを用意はしてあったが、退院から数日しか経ってなく母に提案できなかったのだ。受け入れるのが難しいだろうと、父も私もなかなか言えなかった。畑にいても何度か失敗しちゃったと母は恥ずかしそうに私に教えてくれた。


母、道の駅でアイスクリームを食べる

帰り道。父がトイレ休憩に道の駅に寄ろうと提案する。母が好きなお花もたくさん売っているからちょうどいい。母と一緒にトイレに行く。すると母がいつまで経っても出てこない。何度もビデから水が出る音がする。心配になって声をかける。「お母さん、大丈夫?」「うん、大丈夫」

このやり取りを3回目して「お母さん、私お手伝いしたいからこのドアを開けてくれないかな」。母の顔がようやく見える。「水を流すボタンが難しいの。お水が飛び散っちゃって」。申し訳なさそうに私を見る母。「大丈夫、お水は拭けばいいんだから」。ビデの水が飛び散ったトイレを拭き終わりやっと出たら、父が心配そうな顔をして待っていた。今まではお買い物したり車で仮眠したりしているのに。

飛び散った水で濡れたズボンの母を隠すように車に向かう。疲れ切ってぐったりしている母の着替えを後部座席でさせる。そんな時、父が言う。「あそこのアイスクリーム美味しいようだから、皆で食べようか」。両親を車に残してアイスクリームを買いに行く。食べる体力あるのかな。食べられるのかな。

3人分のアイスクリームを買って車に戻る。「お母さん、アイス食べられる?」「食べる!」。おなかはすいていたようだ。ものすごい勢いで食べ始めた。

「美味しい!」
退院してから初めて見た母の笑顔。最後に会ったのは入院する2週間前だった。1か月半ぶりの笑顔か。久しぶりに母が笑った顔を見た。父も私も笑顔になった。「美味しい、美味しい」と私たちもパクパク食べ始める。美味しいと喜ぶ母の笑顔を見つめながら。

次に畑に来た時に、父は保温ポットを持ってきていた。「お母さんがこの間すごく喜んでいたから、アイスをこれに入れて持って帰れないかな」。その場で食べるために買ってきたアイスで試してみたが、ポットにはうまく入らなかった。持って帰れなかったが、母はまた笑顔で食べてくれた。

両親と畑に来た帰りにはアイスクリームを食べるようになった。母の笑顔を見るために。

母の笑顔が私の喜び

それ以来、畑に行かない日も母の笑顔が見たいと思うようになった。母が明るくなる言葉をかけるようにし、母が喜ぶものを買って帰り、冗談もたくさん言った。

母の笑顔でこんなに幸せになるなんて、以前は気が付かなかった。「私には何もないんだな」と思っていたのに、こんな近くに幸せがあったなんて。なぜ、もっと母の話を聞いてあげられなかったんだろう。なぜ、もっと母との時間を大事に過ごさなかったんだろう。

それから、道の駅でアイスクリームを見ると母を思い出す。大事なものを思い出させるのが、私にとってはアイスクリームだ。

「私には何もないんだな」
私にはちゃんとあった。すでに持っていた。もうないものを探す必要はない。あるものをしっかり大事にする。あの日のアイスクリームがそれを思い出させてくれる。

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