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お仕事小説:機上の大奥にて ~保安訓練編~ 第七話(全九話) #創作大賞2024


第七話 頭を下げて~HEAD DOWN!!

 ――ボーイング777に搭載されている緊急脱出用のスライドの特徴や各部位の名称について空欄を埋めてください――

 ああ、これね。えっと、このスライドは、着陸時には外に出る際の滑り台になるけど、緊急着水時は救命ボートになって……で、ボートについてるこのロープの名前は……そうそう、脱出の際に使うロープだから、エスケープロープ!

 放課後、教室で一人、テストを受ける。
 このクラス二十人のうち、テストに受からなかったのは俺だけなのだ。
 さぼった訳ではないのに追試、こんな経験は実のところ人生で初めてだった。
 俺はそんな規格外に出来が悪いやつだったのか――昨日俺を苦しめていた気持ちは、実はもう消えかかっていた。エアポケットとでもいうのだろうか、寝不足とか焦りとか色んなものが重なって、偶然こんな結果になっただけだ。

「はい、そこまでです」

 荒木教官が答案用用紙を回収にくる。
「今から採点するので、少しお待ちください」
 荒木教官は俺だけのためにこの教室にいる。申し訳なさでいっぱいだ。

「答案用紙をお返しします」
 いきなり緊張感が押し寄せ、胸が痛む。若干薄目になりながら、答案用紙の右上を確認する。
「あっ」
 そこには百の数字が。
 思わず荒木教官の顔を見る。
「合格です」
「あ、ありがとうございます!……貴重なお時間をいただいてしまい、すみませんでした」
「すみません、ではなく、申し訳ございませんでした、ですね」
 あ、そうだった。CAの世界では、「すみません」ではなく「申し訳ありません」を使うことを訓練所から徹底される。仰々しい表現な気がして、なかなか慣れない。

「あ、すみ、申し訳ございません」
 荒木教官の顔がほころんだ。心の中がジュアっと熱くなる。

 
「では、本日からプリフライトチェックやドアモード変更などの日常的な業務ではなく、緊急時の対応についての実技を行っていきます」

 真顔で話す荒木教官。モックアップで、お馴染みのローテンションラジオ体操と、少しだけテンションが上がるスライド滑走を行った後、マットの上で体育座りをして荒木教官の話を聞く。

「客室乗務員の最大の使命は、お客様の安全を守ることです。私たちの一挙一動は、お客様の命に関わります。緊急着陸、着水時の機内は大混乱です。その中で、全員のお客様に的確な指示を届けるために、できる限り大きな声と身振りを意識してください」
 以前の緊迫したロールプレイを思い出す。

 ボーイング777のドアの一部のセットの前に並ぶ。唐澤教官が口を開く。
「では、まずは太田さん。ここにある、ジャンプシート(CA用のシート)に座って、着陸姿勢をとってください」
「…はい!」

 着陸姿勢とは、緊急時にできるだけ衝撃を小さくするためにとる姿勢のことで、機首に向かって前向きのCAシートか後ろ向きのシートかによって、とるべき姿勢が異なる。今回は前向きのシートなので、足を肩幅に開き、おへそを見るように首を丸める。

「はい、ではボーイング777-300のR5(前から五番目の右側のドア)です。機が急降下中!」
 唐澤教官の声量が跳ね上がる。

「頭を下げて~HEAD DOWN!!  頭を下げて~HEAD DOWN!!」
 腹の底から声を張り上げる。男の野太い声が、一帯に響き渡る。急降下していく航空機。着陸時には凄まじい衝撃が襲う。お客様の命を守るために、しっかりと衝撃防止姿勢を取り続けるように、何度も何度も叫び続ける。
野球部の練習を思い出す。久しぶりに出した大声、なんだか気持ちいい。

「機の完全停止!」
 唐澤教官の声が刺すように響く。 
 飛行機が完全に止まったら、次はパックスコントロール、つまり、お客様を落ち着かせる。
「大丈夫!! 落ち着いて~!! STAY CALM!! 」
 両手を大きく上に広げて、奥のお客様にまで届くように、大きな声で語りかける。並行して、ドアにある小窓から外の様子を確認する。

「外は陸!」
 三回程お客様に語りかけた後、唐澤教官の指示が入る。よしキタ! 着陸した。

「シートベルトを外して~!! OPEN YOUR SEATBELT!!」
 さて、次は…? そうだ! シートベルトを外して自由の身になったら、次は脱出だ! ドアを開けるんだっけ? いや、その前に外の状況を確認して、担当ドア開放の可否を判断する。

「NO FIRE!(火事なし!) NO FUEL LEAK!(燃料漏れなし!)SPACE AVAILABLE!(スペースOK!)DOORMODE AUTOMATIC OK!(ドア、自動モードOK!)」
 昨日千回以上口ずさんだであろう文言。トイレ、風呂、通勤時、どこにいても念仏のように口ずさんでいたこのフレーズが、一息でパッと出た。っしゃ! ドアを開けるぞ! この大きなレバーを左に回して……。

「ドア、開けるんですか?」
 唐澤教官の声が飛んでくる。えっ?
「ドア開け……開けます!」
「脱出指示は誰が出すんですか?」
「脱出指示……あっ!」
――そうだ、脱出指示を出すのは、飛行機の最高司令官であるPIC(機長)だ。
「ピリリリリリ!」
 甲高い電子音が鳴り響いた。ああ、これが脱出指示か。ってかこれどうやって止めるんだ? 
「頭の後ろにある赤いボタンを押してください」
 荒木教官の助け舟により、電子音は止まる。そして、ドアについているレバーをぐるっと左に持ち上げて回す。ガチャっと音がして、ゆっくりとドアが開く。おぉ、開いた!
「今はまだスタイルが膨張していません。外に向かって突風が吹くこともあります。下に落ちたら大変ですよ」
 そうだ、スライドが膨らんで脱出用の滑り台として使用できるまで、ドアの両サイドにあるスペースにするっと入り込み、ハンドルにしっかり捕まるんだった。その間にやることは……スライドの膨張の確認だ。
「膨張確認!」
「まだ膨張していないです」
 スライドはまだ膨らみきっていないようだ。この間にやることは……脱出の準備をするから……観客への指示だ!
「荷物を置いて!! NO BAGAGE!! 後ろに下がって!! STAY BACK!! ハイヒールを脱いで! NO HIGH HEELS!!」
 全乗客が安全に脱出することが最大のミッションだ。
「スライド、完全膨張しました」
 よし、脱出だ!
「脱出!! EVACUATE!! R5OK!! R5OK!! こっちへ来て!! COME THIS WAY!! 急いで!! HURRY!!」
 片手でドア横のハンドルを握り、もう片方の手を大きく回転させながら、力一杯叫び続ける。

「はい、お疲れ様でした」
 やった、気持ちいい。完璧ではなかったにせよ、自分の精一杯を出し切れた気がした。

「では、次、一ノ瀬さん、お願いします」
 お、きたきた一ノ瀬。やったれ!

「頭を下げて……HEAD DOWN。頭を下げて……HEAD DOWN」
 あれっ? 一ノ瀬……。
「そんなんじゃ聞こえません。もう一度」
「頭を下げて~HEAD DOWN! 頭を下げて~HEAD DOWN!」
「あなたの声に乗客の命がかかっているんですよ。もう一度!」
 一ノ瀬は顔を真赤にしながら、声を出す。ただ、その声は芯がなく、必死感がまるで伝わってこない。荒木教官に何度も何度もやり直しを命じられ、一ノ瀬は完全にペースを乱されていた。いつもは泉のように湧き上がっていた文言も、今日はところどころ出てこない。一ノ瀬……。

「脱出、EVACUATE! R5OK! R5OK! こっちへ来て、COME THIS WAY! 急いで、HURRY!」
 ようやく最後までたどり着いた一ノ瀬は、死人のような真っ白い顔をしている。

「はい、では今日も一日お疲れ様でした。みなさんが待ちに待っていた金曜日がようやくやってきましたね」
 今日も訓練でボロボロになったドブネズミ達が、唯一女王と謁見できる夕礼。金曜日マジックだろうか、今日の葉山さんはいつにも増して美しく、なんだか茶目っ気があるようにすら思える。

「これから土、日とお休みではありますが、その後もまだまだ訓練は続きます。まずはたっぷり寝て疲れをとったうえで、この数日間に学んできたことをしっかりと整理しましょう。みなさん、あんちょこの準備は順調ですか?
この訓練ではこの先も覚えることが膨大にあります。あんちょこはみなさんの助けになりますので、ここまで学んできたことをしっかりとまとめておくことをおすすめします」

 平均睡眠時間二時間半の俺にとって、ようやく迎えた金曜日は、例えるならば野球部の夏の練習後に差し出されたキンキンの麦茶のようだ。氷がカランカランと涼しげになる、グラスに汗をたっぷりかいた麦茶――うっとりとした心地で、フカフカのお布団を思い浮かべる。今日は目覚ましなんかかけずに、寝れるだけ寝てやる。
 とはいえ、葉山さんが言うように、お休みだけど、単にだらだら休んでいてはいけないお休みでもある。あんちょこか――あんちょこは、制服の胸ポケットに入れておく小さなメモのことで、安全、サービスと業務が多岐に渡るCA達の秘密兵器である。うん、作ろう。ここ二、三日のギリギリの格闘を思い出し、しみじみと決意する。

「では、みなさん、良い休日をお過ごしください。それと、これから名前をお呼びする方は教官室にお越しいただければと思います。一ノ瀬さん、太田さん」

 へ? え? 思わず隣に座る一ノ瀬のを見る。彼の眉毛は若干ハの字になっている気がした。
 

#創作大賞2024 #お仕事小説部門 #CA #客室乗務員

 

 


 
 









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