お仕事小説:機上の大奥にて ~保安訓練編~ 第五話(全九話) #創作大賞2024
第五話 これが地獄の保安訓練…
ああ、目の奥と頭が痛い……。
一歩一歩階段を上る時の振動で、痛みがしっかりとそこにあることを実感する。
昨日はほとんど寝てない。夜中の一時頃に終わらないことを認め、朝まで寝ることを諦めて一時間後にアラームをかけた。だが、午前二時にアラームがなった瞬間、これから起きることが信じられなかった。今さっき寝たばっかりだ。まだまだ頭がずっしり重くてだるい。しばらく布団の中で無言の抵抗を続けていたが、一瞬意識が飛んだことに気づき、ハッとする。一瞬――だったはずが、気付いたらもう午前三時、恐ろしいことにまた一時間が過ぎていた。フーと息を吐き、スッと起きると、頭はさっきより少しだけ軽くなっていた。
はぁ、やっと八階だ――とうとう、八階まで来てしまった。帰りたい。
そう思う最大の理由は寝不足ではない。
とにかく、自信が無い――。
とりあえず洪水のように溢れる情報をなんとか整理した。そして音読したて、紙に書いた。だが、それをアウトプットができるのか、正直分からない。
教室の扉を開けると、女子達の話声が飛び出してきた。その
声を注意深く拾っていく。
――トリプルセブンのプリフライトチェックは?――
――じゃあ次、ドアモード変更は?――
え……やべ、みんな普通に言えてるよ。俺は、こんなにスラスラ言えるのか……?
ガチャッ――、荒木教官が入ってくる。いつも以上にピリッとしたイヤ~な緊張感を感じる。
「では、お伝えしていた通り、ボーイング777と767の筆記試験をはじめます」
ザーと背中に嫌な感覚が広がる。ジャブもなく、いきなりストレートパンチを食らったような気分だ。
答案用紙が回ってきた。よし……やるしかない。
――ボーイング777のプリフライトチェックの手順を記載してください――
来たな――これはイケる。
えっと、ドアが完全に閉まっていること、ドアモードがマニュアルポジションであること、ドアモードインディケーターがグレーであること……と。
――ボーイング767に搭載されている緊急脱出用のスライドの特徴や各部位
の名称について空欄を埋めてください――
えっと…。今度は767だよな。777とは違って……どうだっけ?
「はい、ではそこまで。ではこのテストはこちら採点するので、前の人に回してください」
……ああ、ヤバい……かも。
背中には変な汗をかいて、ひんやり冷たい。
「では、次はモックアップに向かいます」
試練は次から次へと容赦なくやってくるようだ。荒木教官を先頭にモックアップへ進む一行は、昨日よりずっと重苦しい空気を醸し出している。
「では今からボーイング777、767のプリフライトチェックとドアモード変更を行っていただきます。一語一句テキスト通りの文言を口に出しながら、動作も合わせて行ってください」
名前順に四人のチームに分かれ、飛行機のドア周辺部のセットの前に整列する。うちのチームの担当教官のネームプレートには「唐澤」と書かれていた。唐澤教官が一列に並んだ俺達四人の顔とネームプレートをさっと確認する。
「では、太田さんからいきましょう。767のプリフライトチェックからお願いします」
「……はい」
前に進み出て、飛行機のドアの前に立つ。テキストにのっていたアレやアレの実物がこれか。正直、今まで飛行機のドアに注目したことはないが、本物さながらに作られていることが分かる。えっと……767ね。まずは……。
「ドアが完全に閉まっていること」
ドア一周をなぞるように指差し確認を行う。えっと次は…?
「……と……、ドアモードがディス・アームド(スライドが出ないポジション)であること」
あれ、ドアモードってどこで確認するんだ?
「……えっと……」
「ドアモードはここで確認します」
唐澤教官が助け舟を出してくれる。言われてみれば、テキストの図のそのままだ。
「ありがとうございます……」
あれ、次は……なんだっけ? え……? あれ……?
昨日の夜、詰め込んだじゃないか。どれだ、どれだ……あれ?
完全にフリーズした。頭が真っ白だ。
「……はい、もう結構です。下がってください」
唐澤教官の声が、無機質に冷たく響いた。
身体が動かない。目の前が真っ暗で、顔が熱い。背中にいる三人はこんな俺をどんな目で見ているのだろうか。
「では、一ノ瀬さん、同じく767のプリフライトチェック、お願いします」
一ノ瀬が前に出る。……一ノ瀬だってきっと俺と同じように……――。
「ドアが完全に閉まっていること、ドアモードがディス・アームド(スライドが出ないポジション)であること、アームドインディケーターがホワイトであること」
一ノ瀬は、サッサッと的確に指差し確認をしながら、一寸たりとも言い淀むことなく文言を言い終えた。
「はい、問題ないです。では、そのままボーイング777のドアモード変更をお願いします」
「はい」
はぁ、完璧だ――。
文言は泉のようにコクコクと湧き上がっているかのようだ。テキスト上でしか見たことがない扉のレバーとかハンドルなんかを、迷いもなく指さして、動かしていく。
もう、頼むから、これ以上は勘弁してくれ……。
それから何個かのドアを回った。俺は、相変わらずぐちゃぐちゃに散らかった頭の中から、やっとの思いで言葉を絞り出しだ。もう立ってるだけでやっとで、ようやく見つかった言葉をとりあえず投げてみたりもした。
もう、半分ヤケクソだった。
「違います」
「もういいです」
唐澤教官から飛んでくる簡潔で鋭い言葉には、怒りの色は見えなかった。その裏にあるのは、むしろ軽蔑のような冷え切った感情なのかもしれない。それが、余計に苦しかった。
階段を上がる。
やっと本日の山場の実技を終えたというのに、達成感なんて一ミリもない。この訓練所に来て、今が一番足取りが重い。
なんでだよ。寝ないでやったじゃん。二時間寝ちゃったけど……、二時間しか寝てじゃん。それでもダメっていうのかよ。
……ってか、俺ってこんなにダメなヤツだったんだ。いっぱしの営業マンとして、ちゃんと家売って成果出してたじゃん。なのに、なんでこんなに言葉が出てこないんだよ。あぁ、恥ずかしい。恥ずかし過ぎる。初めの自己紹介で、営業としてそれなりにやって来た感出したくせに。ダッサ。一ノ瀬もダッサイヤツだと思ってるよな。……山口さんも。あぁ、消えちゃいたいなぁ。目が急にトローンと温かくなり、鼻の奥がツンとしてきた。あ、ヤバいかも。
なるべく誰とも目を合わせないようにして席につく。急にコントロールが聞かなくなった鼻水を、周りに気づかれないように注意深くすする。
そして、荒木教官が来た。無意識に目をそらす。
「では、これから、ボーイング737について扱っていきます。ボーイング737は小型機で、全日本帝国航空が保有する機材の中で最も小さいものになります。777、767との最も大きな違いは、通路が一本であることで……」
おそらく、今までの流れと同様なら、737のテストは明日行われる。このパンク中の脳みそで、そしてこのボロボロのメンタルで、新たな機材の知識など入ってくるのだろうか……。普通に考えると、入らないだろう。ごちゃごちゃにとっ散らかった引き出しに、さらにもの詰め込んだら、いよいよ何が入ってるんだかわからなくなって、取り出したいものも取り出せなくなるんじゃないか。
そう言ってる間にも、どんどん授業は進んでいく。そして俺はその授業を頭半分に、心の中の自分と討論している。ああ、もう入るか入らないかじゃなくて、入れてみるしかない。
今回の授業の内容は、絶対一回で覚えてやる! 戦闘態勢をとる。が、、頭の中はやっぱり洪水状態だ。正直、途中何度も何度もべそをかきかけた。この年で恥ずかしいけれど。ああ、無理だ。こんなの覚えられっこない。
――途中から、気づいたら諦めることを忘れていた。授業の終わりの時間も、気づかぬうちにやってきた。
「はい、では今朝行ったテストを返却します。名前順にお呼びしますので、取りにきてください」
完全に忘れていた。心のうちに無意識的に存在していた憂鬱の根源に突如向き合わなければいけなくなった。胸がじーんと痛む。
「太田さん」
「はい」
死刑台にでも上るような気持ちで、荒木教官のもとに向かう。何か言われるかな、思わず目をつぶりたくなる。荒木教官の目がチラッとこちらを見る。くる! っあれ……何も言われない、大丈夫だったのか……?
「あとで」
荒木教官は油断しかけた瞬間、口を開いた。
答案用紙の右側に七十五点の文字。数字には丸がついている。
「八十点以下の方は追試です。点数部分に丸がついている方、後ほど指示をいたします」
――俺は追試なのか。たしかに自信はなかったけれど、正式に突きつけられると、くるものがあった。学生時代、手を抜いて追試になったことはあった。でも、やれることをやったうえで規格外の烙印を押されることはなかった。
こっそり一ノ瀬の答案を盗み見る。案外みんな追試なんじゃないか?
だが、そこには当たり前のようにある百の数字があった。
喉元まで出かかっていた共感を募る言葉を飲み込む。コイツはあっち側の人間だ……。
誰か仲間はいないのか? それとなく周りを見渡すが、それっぽい顔をしている子はいない。
「ではみなさん、お疲れ様です」
しばらくぶりの葉山さんは相変わらず女神だ。優しいという意味の女神ではく、天性の美貌と気品という意味での女神。俺達のクラスの担任ではあるけれど、サービスの教官なので、保安訓練中はあまり顔を合わせることはない。
灰色のカバーオールに身を包む俺達は、女王に謁見するドブネズミのようだ。
「はい、では本日は異常となります。太田さん、このあと教官室に来てください」
「……」
返事ができなかった。部屋の中の何人かが、こちらを振り返った。その何気ない視線が、チクチクと心を刺す。