ぜんまい人間とバタバタ子


#創作大賞2022

 

 女は、注意深くカーテンを少し開け、わずかな隙間から外を覗く。 

視線の先に、一人の男。 

男が周りを確認し出した時、女はサッとカーテンを閉める。 

そして、時計を確認した。 

「やっぱり・・・七時ぴったりだ。」 

 

 

第一章 二〇十九年 六月  

小さな道路を挟んだ向かいのアパートに、男は住んでいる。多分、彼も八階だろう。 

眼鏡をかけ、黒いVネックの肌着に紺色のジャージ姿で、頭の後ろに鳥の巣をこさえているこの男の一日の始まりの日課、それはベランダの確認だ。 

三ヶ月以上前から、男のベランダは鳩のお手洗いに認定されている。平和の象徴は、意外にもS気がある。ちゃんといじりがいのある相手を分かっている。 

平和の象徴はまた、小悪魔でもあった。今シーズンの打率は、三割五分といったところだろう。希望をもたせ、また突き放す。そんな駆け引きすらも心得ている。鳩はついに、種の違いを超え、男を貢がせた。彼はこの小悪魔のために、小さくてリアルなゴム製の蛇を買った。その贈り物を、男は一週間ほど前の晩、物干し竿の上に白いスズランテープで結び付けていた。それが功を奏し、彼のベランダはこの一週間の間、平穏を保っていた。 

だが、今日ベランダに出た男は、お手洗いを見つめたまま、二秒間動かなかった。 

やられた。 

男はようやく視線をあげると、宿敵をその目に焼き付けるべく、周りを確認した。 

私には見える。 

犯人はお前の部屋の真上の屋上で日向ぼっこをしているぞ。 

とうとう見つけられなかった男は、そっと部屋の中に下がった。 

そしてゴム手袋とペットボトルの水、そしてぐるぐる巻きのトイレットペーパーを持って、イタチのように戻ってきた。 

既に屋上でうとうとする犯人の真下で、被害者はせっせと掃除にいそしんだ。 

七時半。男は朝ごはんのバナナを食べる。彼の平日の朝ごはんは、毎日バナナだ。理由は身体に良く、手軽だから。スマートフォンで一通り朝のニュースを確認し、布団を畳み、歯を磨き、トイレに何度かこもる。 

八時。男は家を出た。手には空の二リットルのペットボトルと、ごみの入ったビニール袋を持っていた。彼は毎日ごみを捨てる。アパートの地下にあるごみ置きスペースで正しく分別して捨てたあと、もう一度階段を上り、一階のエントランスへ向かう。そして、八〇一の郵便ポストのつまみを回し、中身を取り出して広告にさっと目を通すと、そのまま傍にある小さなゴミ箱に捨てた。 

八時四分、男はいつもと同じ時間にエントランスを出た。 

男がアパートの入り口から出ていくのを見守った女は、その後冷蔵庫に向かい、個包装されたチョコレートを一粒取り出してまた布団の上に戻ってきた。チョコレートの包みを開け、口に放り込むと、コクコクと噛み砕く。チョコレートはあっという間になくなった。女はひょいっと布団から飛び出すと、また冷蔵庫に向かう。そしてまた一粒取り出して布団へ戻る。それを枕元に置いて携帯電話をいじっていたが、やがてチョコレートをまた口に放り込んだ。コクコクコク・・・またしても口に入れた瞬間噛み砕いた女は、ぬくっと起き出すと、再び冷蔵庫に向かった。 

戻ってきた彼女の手には、一袋のチョコレートがあった。 

彼女はそれを枕元に置き、また温かいオフトゥンの中に入った。 

今日、女は休みなのだ。 

八時半か―、女はお布団の中で足を動かし、行方不明になっているぬくぬくソックスの捜索を始めた。なかなか見つからない。ようやくなにか小さい布にぶつかった。よし、足を使い上まで引き上げてみる。あった。だが、もう一足がなかなかしぶとい。足を布団の隅々まで動かすが、なかなかそれらしきものにあたらない。なぜ寝ているうちに自然に脱げた靴下はこんなに見つからないのだろう。永遠の疑問だ。本当は布団をめくれば一発なのだろう。だがもうすぐ夏とはいえど、この冷えた足先のまま布団の外に出る気にはなれなかった。性分上、あきらめたくないという思いもあった。そんな緩めの捜索活動は、いつの間にか女をけだるい快楽の中へと迷い込ませた。 

―十一時半・・・・・・、寝落ちたか。 

今日は一週間に一度のOFF。この一日に多大なる期待をよせていた女に、この事実は重くのしかかった。が、彼女は切り替えが早かった。「っと!」と叫び起き上がると、凄まじい速さでトイレに向かう。トイレから戻った彼女はパソコンの電源を入れた。パスワードを入力し、また少し待つと、ようやくデスクトップ現れた。大学入学時に購入した為、デスクトップには論文やらパワーポイントやらが乱雑に並んでいる。その中の一つのファイルをクリックする。タイトルは…『ぜんまい人間』。 

 

ヨシオは、アパ―トの目の前の五段程の階段を、サッサッと二歩で滑り下りると、クルッと九十度向きを変え、勢いにのったまま歩みを進める。脇に植えられたツツジの列が終わりを迎えると、長い首をキョロキョロと動かしながら大通りの車の流れを確認する。 

今だ。ヨシオは遠慮がちに右手を挙げると、目の前に拓かれた道路に向かいスタートをきった。パッパッパッと彼の細長い脚は回転するように動き、あっという間に向こう岸に辿り着いた。そして九十度回転すると、今度は少しペースダウンして歩き始めた。右手を折り曲げ腕時計を確認する。そして、亀のように背負った大き目のリュックに手を伸ばすと、初めから少し開いていたファスナーの右側のつまみを少し下げ、リュックの中に手を突っ込む。そしてクイッと分厚い本を掴み取り出すと、それを左手に持ち替え、右手でファスナーのつまみを少し上に上げた。ファスナーは、さっきよりさらに開いており、お節介な中年女性がいたら「開いてるよ」と声を掛けるレベルだ。だが、ヨシオはそんなことは気にもせず、本からちょびっと出ているしおり部分に指を入れ、さっと左手で開いた。そして細長い首をキョロキョロと動かして器用に前を確認しながら、二宮金次郎のように読み歩いた。 

中目黒駅に着いた金次郎は、改札の手前でポケットからすっと定期を取り出し、エスカレーターに滑り乗って、満員電車にするっと乗り込んだ。 

ヨシオは、建築関連の製品から自動車の部品、医療用製品、さらにはDIYの製品まで幅広く扱っている大手メーカーに勤めている。今は歯科部門の営業職だった。今日も飛び込みで歯科医院を回り、製品のプレゼンをする。資料は先週の土曜日に完璧にまとめ上げており頭に入っている為、今さら目を通す必要などない。電車のドアの真横、STAND派の特等席を陣取ったヨシオは、優雅に読書を楽しんだ。 

 

「ハーっと」 

たか子は、画面の左上の保存ボタンを押し、ファイルを閉じてデスクトップまで戻るともう一度そのファイルがあるフォルダを開く。画面右下の時間を見て、それから『ぜんまい人間』の隣の六月十日の表記を確認した。うん、ちゃんと保存できている。たか子はパソコンをシャットダウンした。 

さて、お腹がすいた。「うーん」と伸びをしてから冷蔵庫に向かって歩く。一人用の冷蔵庫には、玉ねぎとピーマンしかなかった。肉を買ってこようか、そうよぎったが、姿見に映った起きたままの自分の姿が一瞬にしてやる気をそがせた。たか子はコンロに火をかけ、つまみを中火に合わせる。そして、冷蔵庫から玉ねぎとピーマンを取り出すと、まな板と包丁を用意して切った。切っている途中で、フライパンから煙が上がり始めた。たか子は火を止めた。そして切り終わると、また火をつけた。油を入れ、まな板を持ちあげ包丁を滑らせ具材を流し入れる。いくつかの玉ねぎが的を外れた。それをつまみ鍋に放り込んだ。コンロの金具近くのきわどいところに着地した玉ねぎもあったが、臆せず手を伸ばす。予想通りかなんなのか、まあまあ熱かった。その熱さに任せ、救出した玉ねぎをフライパンに放った。さえばしを使って炒める。ああ、いい匂いだ。たか子はこの匂いが大好きだった。玉ねぎがきつね色に、ピーマンがシナシナになってきた。ここで、思い出したように換気扇のボタンを押す。そして一つまみの塩とだし醤油と鶏がらスープの素を入れ、ブラックペッパーを絞った。菜箸で玉ねぎ一片を口に運ぶ。うん、悪くない。かすかに感じた物足りなさを埋めようと、なんとなく味噌を入れ、少し炒めると皿にさっと移す。先程付けたばかりの換気扇を止め、フライパンを水に浸すと、冷蔵庫の下の段からご飯の詰まったタッパを取り出し、蓋を軽く外して電子レンジに入れる。あたためを二回押すと、二分半という数字が出てきた。ここに来て二分半待つのか、いつものことながらそう思った。一ヶ月前に始めた意識改革キャンペーンの名残がわずかに残るたか子は、この空腹に支配された時間で何かを成し遂げようと考えた。三十秒程迷ったすえにたか子は、あたためを押すと共にスクワットを始めた。そこで、たか子は気づく。靴下で足元が滑り踏ん張りがきかない。ずぼらなたか子は考えた。今、スクワットをやる為に靴下を脱いだとしても、冷え性ゆえにあと二分十三秒後にはまた履き直さなければならない。が、空腹とめんどくささが邪魔をし、履き直しの先伸ばしが起こるだろう。足先の冷たさを感じながら、なんとなくやり過ごす自分がみえる。身体を温め、代謝をあげる為のスクワットをする為に靴下脱ぎ、その後素足で足先を冷やすとするならば、生み出される結果は果たしてプラスなのだろうか。議論は複雑さを帯びていく。残り時間二分三秒の時点でたか子は決断した。たか子は大きく腕を思いっきり前後に振ると、その場で大きく行進を始めた。脚が床に着く直前勢いを緩め、優しく床に触れる。下の住人への配慮だ。そしてその動きに飽きると、次は、お腹をツイストした。手足は気の向くままに動かした。 

「ピーッ、ピーッ、ピーッ」そして終わりが告げられた。靴下を脱がずして、静かに最大限身体を動かすことに成功したたか子は、思いの外吐息を乱しながら、達成感に浸っていた。 

そして題名の無い料理にがっついた。 

お腹一杯平らげたたか子は、また布団に入る。だが、十四時八分を指した時計を見て考えを改めた。こんなことをしている暇はない。たか子は再びパソコンの電源を付ける。ファイルを開き、先程書いた文章を読み直してみる。左右に流れる黒目の下で、口元は次第に緩んだ。パソコンを開いた時は憂鬱だった心が、すぐにワクワクで満たされていく。たか子は指を動かし始めた。その頭の中で、たか子はぜんまい人間をはじめて見出した時のことを思い出していた。それは、二ヶ月ほど前のある春の朝だった。 

 

 

第二章 二〇十九年 三月  

 

―「ピピピピッ、ピピピピッ・・・・・・、ピピピピッ、ピピピピッ・・・・・・」 

「ん―」たか子の意識が現実世界に戻ってきた。 

―そうだ。昨夜の決意を思い出した。昨日、たかこは一冊の本を読んだ。『人生を変える什の法則』、よくありそうな啓発本だった。実際内容だって、以前どこかで読んだようなものばかりだった。生まれたのは新たな発見ではなく、そうだろうなという共感。だが、何かを変えるきっかけがほしかったたか子には、ちょうどよかった。たか子は今朝、その本の一章目「早起きは八文の得。休みの日こそ七時に起きてみよう。」を実践していた。五文も上げた作者の意気込みに背中を押され、せっかくやるならばしっかり七時に起きたい、そう思って目覚ましを少し早めに設定した。いざ、目を覚ましてみると、少し眠かったがこのまま起きられる気がした。起きられるという自信に甘えて、少し布団の中でまどろんでみた。「起きたらすぐに太陽の光を浴びましょう。あなたの身体を起こしてくれます。」という教えにのっとり、全開のカーテンから降り注ぐ眩しい朝日と青い空に目をむける。すがすがしい気持ちで上体を起こした。ふと、道路を挟んだ向かいのアパートのベランダに誰か出てきた。黒い服を着た男だった。土曜日だというのに朝七時に起きる人がいるんだ―不定休、週休一、二日でたまの休みは昼まで寝てしまうこと多め党のたか子は感心してしまった。黒男の勇姿に促され、たか子もぬくっと布団から出た。 

 

次の朝、たか子のアラームの設定時間は六時五十六分になっていた。昨日味わった長い一日への充実感が、目覚めを良くした。体を起こすと、今日も青い空が広がっていた。七時まであと四分。たか子はもう一度寝ころぶと、お腹に力を入れゆっくりと手をつかずに起き上がった。早くも第四章「日常生活の中に運動を取り入れよう。」の実践を試みたのだ。腹筋を休み休み続ける。時計をみると、長い針が十一を過ぎた。あと五秒。最後の追い込みをし、七時になった瞬間たか子はもう一度だらんと寝ころんだ。この時点でもう二つの掟を実践してしまった達成感に浸る。その気持ちを盛り立てる様に、鋭い紫外線がたか子に当たる。 

たか子は、カーテンを閉めようと立ち上がった。すると、向かいのアパートのベランダのガラス戸が開いた。そして黒いVネックをと中学時代のジャージらしきものを履いた男が現れた。サンダルを履いているのだろうか、男の脚が規則正しく順番に動いた。確か、昨日も同じ光景を見た。昨日と同じ七時に。たか子は、この男が何かに似ているような気がした。 

―そうだ、鳩時計だ。二日連続時間通りに現れる米粒のように小さな男が、規則通りに時を刻む鳩時計を連想させた。頭の中に現れた鳩時計では、真ん中から鳩が飛び出し「ピッポ、ピッポ、ピッポ」と前後に動いていた。その横ではぜんまいがぐるぐる回っている。 

鳩時計・・・、鳩男、鳩人間。違う、強調したいのはそこじゃない。もっと、機械的な・・・ぜんまい・・・、ぜんまい人間、うん、ぜんまい人間。 

こうして男は、冤罪に近い形で、恣意も甚だしいあだ名をつけられた。 

 

 夕方、たか子はそれなりに見える恰好をして、財布を片手に部屋を出た。長い一日の中で少しだらけてしまった後悔を感じながら、それでも充実した一日だったとなんとか締める為に、栄養のあるしっかりとした夕食を作ろうと思った。アパートのエントランスを出る時、足が止まった。しまった、エコバックを忘れた。まあ、今日一日くらいいいか、そう切り替えて再び歩みを進めようとしたが、妄想力に優れたたか子の脳内ではすでに、南極の小さい氷の上で怯えるアザラシがこちらを見ていた。たか子は、目を瞑り踵を返した。これもいい運動だ。 

スーパーは道路を挟んだ向かいにあった。ようやく入口の自動ドア抜けた。シャンプーがきれていたことを思い出し、二階へ行くためにエレベーターを待つ。扉が開き、目の前の男が扉の横のボタンの前に滑り込む。あれ―、目の前に現れた黒いVネックに見覚えがあった。ゆっくりと視線をあげる。―ぜんまい人間だ。近くで見ると、細長い男だった。たか子はぜんまい人間と反対の扉の前に立った。エレベーターにはぜんまいとたか子の二人きりだった。 

ぜんまいは、ポケットに手を突っ込むと、鍵を取り出した。それはストラップのような装飾品がついていない生の鍵だった。ここは駐車場もない二階だてのスーパー、ましてぜんまいの家はスーパーの隣だ。なぜ今鍵がいるのだろうか。たか子が思った瞬間、ぜんまいは、その鍵を鉛筆のように持ち、二階のボタンをさっとタッチすると、そのままの流れで「閉」に触れ、ポケットに戻した。その一瞬の手さばきは、熟練した者のそれだった。 

二階につくと、たか子は「開」を押し「どうぞ」と促した。そして会釈をして颯爽と去るぜんまいの後ろ姿を見守った。 

その後頭部には、オカメインコのように一つの毛束がぴょんとそりたち、歩みにあわせて揺れていた。 

 

 家に帰ったたか子は、買って来た食材を玄関に置きっぱなしのまま、すぐにパソコンのスイッチを入れた。乱雑に並んだアイコンの中からWordを探す。 

そして、真っ白なキャンパスめがけ、憑りつかれたように指を動かした。 

それは、ぜんまいで動く人間の話だった。感情や世間体によって動く人間達の世界の中で、ぜんまいによって効率的に動く人間の話。 

私は啓発本に影響されて早起きし、温かい布団が気持ちよくて二度寝をする。買い物に向かう時はなんとなく鏡で全身を確認し、それなりに身なりを正す。 

だが、ぜんまいによって機械的に動くぜんまい人間は、時が来たら目覚め、すっと布団から出る。手を洗うという無駄な動作を省く為、鍵を使ってボタンを押す。近所のスーパーでの買い物において、不要な寝癖直しなどしない。 

実話と妄想によって紡がれていったぜんまい人間の日常は、それはそれは爽快で滑稽で、なぜだか心が躍った。たか子はいつまでもキーボードを叩き続けた。 

その夜、台所の流しの下にしまってあったカップラーメンを啜ったたか子は、第三章「身体はあなたが食べたものでできています。自分の身体は自分で作りましょう」に背き、第七章「出会い、発見を大切に。心が動いたなら、書き留めて大切に温めて、自分のものにしましょう」を夢中で体現していた。たか子は、心をほくほくさせながら、その文章に『ぜんまい人間』というタイトルをつけて保存した。 

 

 

第三章 二〇十九年 七月  

 

「あのさ、馬場さんはさ、営業成績挙げる気あるの?」 

上司の小宮の言葉を思い出し、途中、何度か歩みが止まる。考えだすとどんどん吸い込まれていく。追い越していった人が、突然止まった自分を振り返って見た時、理性によってやっと思考の渦から解放される。 

―「多くの人が、自分の為に集まってくれる、そんな瞬間は人生においてそうありません。その中で、最も幸せな瞬間である結婚式のお手伝いをすることが、自分の喜びになり、やりがいにつながると確信し、志望しました」― 

たか子が、キラキラした目で面接官に思いの丈を語ったあの頃から、もう三年がたつ。 

クリスタルウエディングに就職して、様々な部署を経て、今、念願叶いウエディングプランナーをしている。たしかに結婚式は、人生の一番幸せな瞬間と言っても過言ではなない。そこに携われることは、幸せなことなのだろうとも思う。 

だが、どこの業界もそうであるように、きれいなだけの世界ではなかった。 

新郎新婦の話を聞き、その要望ならば本当は他の式場の方が適していると思っても、強引に自分の式場で実現するプランを提供しなければならないし、本当はあまり変わらないのだけれど、多くの種類の飲み物が選べる値段の高いプランをおすすめしなければならない。成約数や客単価アップというこちら側の思案は、幸せな瞬間への期待から生まれる魔法の言葉「せっかくだし」によって、笑顔でもみ消され、受け入れられてしまう。 

そうやって日々積み重なる罪悪感も、式本番の新郎新婦の笑顔や感謝の言葉によって、これでよかったのだと割り切れるものなのかもしれない。 

三年たった今でも、たか子が煮え切れずにいる理由の一つは、営業成績が振るわないことだった。たか子は、知識はあっても話すことがどちらかというと得意ではなかった。早口気味になってしまったり、顔が赤くなったり、質問に対してうまい表現ができないことがある。ちょっとしたからくりがある高めのプランを紹介する時、迷いが言葉の節々に表れる。別に、仕事に支障をきたすほどではないが、ぺらぺらとなんなく安定感のある話を展開する同僚や後輩を見ていると、自分はこの仕事に向いていないのではと痛感する。 

心の中では、誰よりも新郎新婦の幸せを願っている自負がある。その為の勉強にも時間を掛けている。だが、自分の不器用さや、営業成績の存在によって生じる不純物が、この仕事は自分の生きる道ではないかもしれないという迷いを生む。しかし、その考え自体が、成果の出せていない自分を棚に上げて世界を憂う未熟者の逃げ道のようで、情けない気持ちにもなる。 

子供のような純粋な思いや透明な仕組みだけで成り立っている世界など、この世に存在しないだろう。 

今逃げたら、きっと、どこに行っても、同じようにその業界の不純を見つけ憂い、自分の不出来を棚に上げる名もなき者のまま終わるんだ、そんな気がしてくる。 

「言いたくないけど、今季の営業成績、後輩の森田さんより低いよ。先輩よね?指導する立場のあなたがそれで、どうするの。」 

たか子の胸はキューっと締め付けられ、喉の奥が熱い。 

森田は入社二年目、たか子より一年後輩だった。森田が入社してきた時、たか子は先輩として、新人がすべき雑務や暗黙のルール等を教え、その重要性を説いた。だが、なかなか伝わらなかった。 

新人雑務の一つである朝のトイレ掃除も、森田がしっかり行えるかが心配で早めに来てみると、森田はまだ来ておらず、たか子が代わりにやることも多々あった。 

「あ、先輩、おはようございます。掃除、すみません、ありがとうございます。」 

先輩方より少しだけ早く来て、悪びれた様子もなく挨拶する彼女に、たか子はいつも「あ、大丈夫だよ。」考えるより先にそう言ってしまい、そんな自分が嫌になった。 

社長は言った。細部にこそ神は宿ると。マネージャーも言った。挨拶や掃除など、誰にでも出来ることを一生懸命できる人が、仕事ができるようになる人です、と。でも、実際に軽々と営業成績を挙げるのは、律儀に掃除をしている私ではなく、何事も器用にこなし振る舞う森田の方だった。 

森田は当初から、怒らない、いや怒れないたか子を幾分なめていた。だが、今日営業成績を抜かれたことで、ついに仕事を教える資格すらない先輩に成り下がってしまった。 

歩いては止まり、止まっては歩きを繰り返してやっとの思いで駅に着くと、電光掲示板を確認する。遅延により電車がくるまでにまだ二十分ある。一日中ヒールに押し込まれ続けた足が、座れと訴えかけてくる。潔く従いホームにあるベンチに座ると、また思考の渦に飲み込まれそうになった。たか子はiPhoneを取り出し、なるだけがむしゃらで前向きな曲を探した。音楽に逃げてしまった罪悪感は、すぐに消えた。 

みなとみらい駅から、たか子が降りる渋谷駅までは四十分程だった。この時間を何か身になるものに使わなければと思ったが、心は音楽に奪われたままだった。この曲を聞くと、未だに何も手にしていない自分が正当化させる。どん底を生きることが素晴らしいことに感じられ、熱いものが込み上げる。―ドブネズミみたいに、美しくなりたい―渋谷駅に着いたたか子の心は、もうドブネズミだった。ホームに降りたドブネズミは、サササッと人の間を縫うように進み、エスカレーターの隣の階段を駆け上がった。 

田園都市線に乗り換え、一駅目の池尻大橋で降りる。 

駅を出てアパートの前のスーパーに入った。今夜はカレーにしようかな、そう思いながらカゴをとり野菜売り場に目をやると、―いた。 

ぜんまい人間だ。ぜんまい人間は、大根を真剣に見ていた。たか子は、ぜんまい人間を注意深く監視しながら、足早にジャガイモ、玉ねぎ、人参を選びカゴに入れていく。今日は、ぜんまいの観察という最重要任務の傍らの買い物であるため、入り乱れたジャガイモの中からTop of the ジャガイモを選ぶ作業が免除されたことに、たか子は少しホッとした。そんなたか子とは裏腹にぜんまい人間は、真剣なまなざしでTop of the 大根を選んでいるようだった。たか子はぜんまいを待つ間、珍しい野菜コーナーで時間を潰した。「コールラビ、コールラビ、コールラビ・・・・・・」真面目なたか子は、受験生のように口ずさみ知識として蓄えようという、いつ役に立つのかまるで分からない作業に取り掛かっていた。そろそろかと思って大根売り場に目をやると、ぜんまい人間はもういなかった。野菜売り場全体を見渡したが、そこにもいない。たか子は慌てて肉売り場へと進む。すると、ぜんまいがいた。ぜんまいは鶏肉を選んでいた。たか子は目を疑った。鶏肉を選んでいるぜんまい人間のカゴに中に、緑と赤の何かが見えたのだ。なんなんだ、あれは。居ても立っても居られなくなったたか子は、自らも鶏肉を買う人を演じることにした。「あ、安い」とってつけたようなセリフまで添えてぜんまい人間の隣に並び、そっと彼のカゴの中に目を落とす。ブロッコリーとトマトが寄り添っていた。 

たか子の眉間にかすかに皺が寄る。大根を選ぶのにあれだけの時間がかかったというのに、なぜトマトとブロッコリーがこの短時間で選ばれたというのだろう。たか子は、前提を疑った。大根を選ぶ彼の姿を見て、無意識に自分と同じTopを選ぶという業を背負った人間だと決めつけていたが、本当にそうなのだろうか。むしろ、大根はイレギュラーだったのではないか。そうだ、滑稽なまでに効率的で無駄のない人間は、野菜を選ぶのにそんなに時間を掛けるだろうか。大根を長い時間を掛けて選ぶということは、効率的なのか、それとも時間の無駄なのか、深まる思考に比例して、たか子の顔はどんどん険しくなる。そこまで考えて、たか子は気持ちをスーパーに戻す為に強引にまとめた。彼は、過去に大根と何かあったのかもしれない。 

鶏肉も人並みの時間で選び終えたぜんまい人間は、次にカレー粉のコーナーに向かった。それは、偶然にもたか子が立ち寄るべき場所だった。あれ、まさか、たか子の鼓動がわずかに高まる。一瞬わからなかったが、そのまさかだった。ぜんまい人間が迷いなく手に取ったもの、それはカレー粉だった。なぜ一瞬の空白があったのか―それは、ぜんまい人間が選んだのはたか子が見慣れた固形タイプのものではなく、粉末タイプのものだったからだ。もう一度、ぜんまい人間が買ったものを思い出す。大根、トマト、ブロッコリー、鶏肉、そして粉末のカレー粉。まさか、その一見まとまりの無いメンバーのチーム名がカレーだったなんて、たか子は唖然とした。―同じカレーでも、例えるならば、たか子のは小学校で、彼のそれはインターナショナルスクールだ。 

迷った挙句、ぜんまい人間と同じ粉末のカレー粉を手に取ったたか子は、レジに並ぶ彼をしれっと追いかけた。ぜんまい人間はぜんまい人間らしく、必要なもの以外には目もくれない。いつもならお買い得になっているスイーツや飲み物コーナーをしばらくぶらついた後にレジに並ぶたか子は、この人は何が楽しくて生きているのだろうと思った。 

そんなことを考えているうちに、ぜんまいの番になった。ぜんまいは、クレジットカードとポイントカードをスッと取り出した。そして、「レシートはいりません。」まだ聞かれてもいないのに高らかに告げた。パートの田中さんはいきなりの宣言に少し驚いたようだったが、「はい、承知しました」と大人の対応をみせた。その後、無駄なく会計を終えかけたぜんまいだったが、田中さんの最後の質問に言葉を詰まらせた。「袋はいりますか?」コンビニの入り口のメロディのように自動的に発せられるこの問いに、ぜんまいから返ったきたのは「あー、・・・・・・っ大丈夫です」という歯切れの悪い答えだった。ん、今の間はなんだ、たか子は親指と人差し指であごの先をつまんだ。考える時のたか子の癖だ。先程の高らかなレシート不要宣言からのスマートなお会計の流れからは少し意外なこの間の意味が気になった。 

「次の方どうぞー」すっかり物思いにふけっていたたか子は、レジ打ちの田中さんに病院の受付の人のようなセリフを言わせてしまった。はっとしたたか子は、まず財布を探す。鞄の奥底に自らの意思で隠れていたような長財布を取り出す。財布をあけると、お札入れから皺皺になったレシートの束がはみ出している。金額は千六百八十七円。これは現金で出すと、財布がすっきりするぞ、たか子は小銭入れを確認した。銅とアルミの小銭がたんまりある。よし、いける。たか子は位に関係なく目に入った十円玉と一円玉をお会計のトレーに出していった。だが、六十六円まで出して、悲劇が起こった。「すいません。やっぱりカードでお願いします。」小銭たちを、財布に戻していった。戻りたくないのだろうか、無性に小銭がつまみにくい。 

小銭のみならず周りの人間たちも茶番に付き合わせていしまったという自覚があるたか子は、袋の有無を聞かれて反射的に断ってしまった。かごを台の上に載せて、人参、玉ねぎ、ジャガイモをバックの中に入れる。その後、ぐるぐるに巻かれたビニール袋を切って広げると、肉を入れ、バックに入れた。なんとか納まった。 

先程のゴタゴタの間にスーパーを出たであろうぜんまいを思う。彼もきっと、あの大きなリュックに食材を詰めたのだろう。袋の有無を迷ったのは、大根がリュックに入らないことを気にしてのことだったのだろうか。しかしたか子は、ぜんまいが大根を手に持つことに抵抗を感じるような人間だとはどうしても思えなかった。 

家に帰ると、「粉 カレー 作り方」で検索をかける。粉というだけで構えていたが、単純にルウが粉に代わっただけで、カレー作りの工程そのものは、ほとんど変わらなかった。ルウと違って味がほとんどない粉の場合は、めんつゆを使って味を調節する。いつもより和風にできたカレーは、たか子の口にあった。この味ならば、先程のぜんまいの食材のチョイスも納得できる。イメージがインターナショナルスクールから私立の小学校くらいになった。 

自分一人が食べるものだからと、とりあえず野菜を入れた名もなき料理を作ることが多いたか子だが、自分の為に題名のついた料理を作って食べることに充実感を感じ、忘れかけていた第三章を思い出した。 

夏の七時はまだ明るい 

―カナカナカナカナカナ―蝉達が奏でるどこか憂いを帯びた音色が、昼間の嫌な記憶を思い起こさせる。だが、道路を挟んだ向かいに、自分と同じように私立小学校カレーを食べているぜんまいがいると思うと、なぜだか少し楽になった。周りの人間に・・・、上司や後輩や同僚にどう思われようが、いいじゃないか。自分らしくやれば、それで。 

 

「ピピピピピピピ、ピピピピピピピ」アラームが鳴った。手探りで携帯電話を探し、時間を確認する。六時五十八分。起きる時間だ。脳がだんだん起き始めていく中で、昨日の小宮マネージャーの言葉が思い出された。布団の中で、冷静に今の自分の状況を整理し、思った。―会社に行きたくない。 

そんなたか子の視界の先で、今日もぜんまい人間は七時と共にベランダに現れ、清掃状況の確認に入った。首が左から右に動いていく。そして右端で止まった。今日はされたらしい。 

ぜんまいの首は三秒間右端に留まったままだったが、四秒後にはすっと部屋に戻り、十五秒後にはフン掃除三点セットと共に戻ってきた。ゴム手袋をした手に持ったクルクル巻きのトイレットペーパーでそっとフンをとり、ペットボトルに入った水で流して一旦部屋に戻る。そして再び手ぶらで登場し、物干し竿の上の蛇の角度の調整を行った。 

努めて、報われなくて、落ち込んで、工夫して、また努める。 

何度フンをされても、三秒で立ち直り淡々と掃除をするぜんまいの姿は、どんな本よりも人生の本質を物語っているように覚えた。 

―会社に行こう。 

なるべく感情のスイッチを切り、余計なことを考えずに淡々と支度をしていると、なぜだかいつもより早く準備が終わった。そこで気分転換の為に、今日は最寄りの池尻大橋ではなく、中目黒まで歩いてみることにした。玄関のエントランスを出ると、ちょうど向かいのアパートからも人影がするっと降りてきた。それは、昨日共にカレーを食べた男だった。時計を見ると八時四分、ちょうどぜんまいの出勤時間だった。大きな道路を一本挟んだ向かいにぜんまい―ぜんまいも中目黒駅に行くとするならば、どこかのタイミングでたか子側の道路へ渡ってくるはずだった。 

その瞬間はすぐ訪れた。ぜんまいは車の流れを確認し、途切れたところで軽めに右手を挙げると、細長い脚を小刻みに回転させてこちらに渡ってきた。道路を渡る時手を挙げるルールは、大人になっても有効なのか―ピーターパンのような男だと思った。駅へ続く信号は赤だった。たか子とぜんまいは隣同士で信号を待っていた。心の中ではもう日常生活のパートナーのような仲だが、実際は赤の他人だ。 

たか子は声を掛けかけて、怖気ついた。しかし、その瞬間、昨日からのテーマソングが流れ始めた。そうだ、ドブネズミみたいに美しくなるんだ。写真には写らない美しさがあるかあら。その歌詞の何が行動を肯定する部分なのかは分からないが、曲をから漲るそのひたむきでがむしゃらな魂がたか子の背中を押した。 

「あの・・・・・・」 

ぜんまいがくるりとこちらを見た。 

「はい」ぜんまいは顔色変えずこちらを見た。 

「あの、何度かスーパーで見かけたことがあったので、もしかしたらご近所なのかなと思いまして。」 

ぜんまいは暫く黙ってこちらを見ている。 

「駅前のLOOPEによく行きませんか?」 

「ああ、たしかにそれは僕ですね。」 

「ですよね。たまに見かける人が、今目の前にいたので思わず声を掛けてしまいました。驚かせてしまって申し訳ないです。」 

「いいえ、大丈夫ですよ。」 

「それはよかったです。せっかくなので、今度ご飯でもいきましょう。」 

ドブネズミのせいなのか、思いの外大胆なことを言い出す自分に驚き、「では、また」と慌てて付け足した。あくまで社交辞令だったことにしようという作戦だ。 

「そうですね。」ぜんまいは相変わらずひょうひょうと答えた。 

「では、また」と言ってはみたが、信号がなかなか変わらない。このセリフは、離れる時に使うからこそ効力を発揮するものだ。使ったあと、こう何秒も隣に居ていいものではない。 

不自然極まりないこの状況によって、その裏に隠した動揺が見透かされそうでドキドキした。いや、待てよ。相手はぜんまいだ。他人の心などに関心はないはずだ。たか子はここに来て急に強気になった。無効の「またね」を発動してから、首は前しか見れない程固まっていたのに、ぜんまいを横から拝んでやろうとさえ思っていた。たか子が右上に視線を移した時、ぜんまいとぱちりと目があった。 

「土曜のお昼はいかがですか?」 

「あ、いいですね。行きましょう。」 

その時のたか子の「あ」は、突発的に出るリコーダーの鋭音のように一オクターブ高かった。 

信号の粋な計らいによって、結局駅までぜんまいと一緒に歩いた。会話の大半はこの大通りに軒を連ねる飲食店の変化だった。つまり、話はそれほど弾んではいないということだ。だが、どこまでもひょうひょうとしているぜんまいとの時間は、思ったより苦ではなかった。 

改札までくると、ぜんまいの手にはいつの間に定期があった。たか子は慌ててSuicaを探した。だが、こういう時は決まって見つからない。改札を通り、たか子がついて来ていないことにようやく気づいて振り返ったぜんまいに、たか子は先に言ってくださいと頼んだ。 

ぜんまいは、少し考えてから、「分かりました。ではまた。」と言って颯爽と歩きだした。 

どうやらたか子とは反対の電車のようだった。 

 

 ぜんまいは、どんな気持ちで約束をとりつけたのだろう。電車に揺られながら、たか子は考えた。不思議だった。ごくわずか情報と勝手極まりない妄想が作り上げた彼は、感情などほとんど無い機械のような存在だった。そして、さっきまで目の前にいた生ぜんまいからも、感情はほとんど読み取れなかった。自分を女として見ていた訳でもなく、誘われたことに気を遣ったようでもない。心底謎であった。 

 

待ち合わせ場所はスーパーの前だった。 

たか子は十分前からスーパーの向かいの歩道を、道行く人々に交じって行ったり来たりしていた。もう梅雨は明けたのだろうか、真夏日のような気候の中で汗ばみながら通行人A 

を演じる意味が自分でも良くわからない。アパートの入り口にぜんまいの姿を確認すると、たか子もスーパーに向かった。そして、ぜんまいと同じようなタイミングでスーパ―の前に着いたのだった。 

「どうも」 

「どうも」 

「何か食べたい物ありますか?」 

ぜんまいが尋ねる。 

「そうですねー、何でも好きです。」 

「そうですか、だったら西口の前の喫茶店にでも行きましょうか?」 

「いいですね。」 

「じゃあ行きましょう。」 

たか子は安心した。ぜんまいは見慣れたVネックに、白いパンツだった。財布と生の鍵はポケットに入れているのだろう。 

「暑いですね。」 

中身の無い会話をなんとなくしていると、喫茶店ついた。五段程の階段を下る。地下に作られたようなレトロな雰囲気のこの店がたか子も好きだった。 

席に着くと、ぜんまいはコーヒーとナポリタンを、たか子も同じものを頼んだ。 

客はたか子達の外に、幼い子連れの家族がいるだけだったので、コーヒーはすぐに運ばれてきた。 

「・・・じゃあ、まず、自己紹介でもしましょうか。僕は、ゼンマンヨシオで・・・」 

「ゼンマイ?」 

「いや、善万です。善悪の善に一万円の万で・・・」 

「ブッ」タエコは飲んでいたコーヒーを噴出した。そしてその反動で、顔中に飛び散ったコーヒーが鼻の中に鋭くINし、むせかえる。 

・・・・・・ぜんまいは、黙ってテーブルの隅の束になった手拭きを手渡した。 

「すみません」それを受け取ると、たか子は、片手で口元を押さえたまま勢いよく席を立つと、後ろ側へと走って行った。 

ヨシオは思った。そっちは『STAFF ONLY』だ。 

ドアの前まで走り、たか子は無駄のないターンをきめた。 

そして、今度は競歩でよしおの方に向かってきた。 

よしおは思った。そろそろ何か言わなければ。 

「ナイスターン」 

たか子は、よしおの目を見た。 

「ありがとうございます・・・・・・。」 

トイレに無事ゴールしたたか子を見届けると、よしおは前を向き直した。 

奥のテーブルの三歳児が、眉間に皺を寄せながらこっちを見ていた。ナポリタンを食べる手が止まっている。 

よしおはジェスチャーで食べ進めるように促すと、ポケットから手帳を取り出し、何かを書き始めた。 

たか子は、『TOILET』の札の下に勢いよく駆け込んだ。そこには手洗い場はなく、茶色い扉があった。開けると、便器と小さな水道だけがあった。鏡はないようだ。 

蛇口をひねり、水を出すと、それを両手の中に貯め、勢いよく顔に掛けた。―大は小を兼ねる。たか子はノールックでのTRYを試みた。 

念の為二回程顔をすすぎ、手を服で拭いた後、顔をトイレットペーパーで拭いた。 

はぁ、盛大にやらかした。相手がぜんまいといえど、その反応が気になった。だが、そんな自分を棚に上げ、第二波がたか子を襲う。 

「・・・ふ・・ふふ・・・」 

まずい。今笑うのはさすがに非常識だ。だが、笑ってはいけないと思えば思うほど止まらないのが笑いだ。ぜんまい人間の苗字が善万だったことを笑ってはいけないと思う過程で、ぜんまい人間が善万だったことを思い出し笑ってしまう。たか子は発想を転換し、いっそこの出来事をなかったことにしようと考えた。目を閉じて、呼吸だけに意識を集中する。 

ようやく頭の中が無になりかけた。すると、次なる煩悩が生まれる。 

そういえば、昔似たようなことがあったっけ。大学時代の友人の結婚式に行った時、新郎の職場が入れ歯製造会社で、祝辞を述べる人間が皆、入れ歯製造第二部、三部、四部の人間だった時だ。入れ歯は多くのお年寄りを幸せにしているすばらしいものだ。笑ってはいけない。失礼だ。 

―思い出してはいけないことを思い出してしまった。そう気づいた時にはもう遅かった。新婦の上司の挨拶の締めの言葉「入れ歯だけに、かみ合わせの良い家庭を築いてください。」を思い出し、たか子は再び笑い出した。 

「ハハハハ、ハハハ、ハハハハ、ハハ」 

トイレからかすかに漏れる笑い声に、よしおは恐怖のようなものを感じた。 

 

「ごめんなさい。お騒がせしました。服とか汚れてないですか?」 

おでこにトイレットペーパーを付けながら爽やかな笑顔で言うたか子を見て、よしおは思った。無かったことにしよう。 

「お疲れ様です。つまり、僕は善万善男です。」 

動揺は、接続詞の選択ミスとなって表れたが、この女は微塵も感づいてはいなかった。 

三歳児はもう、口までぽっかり空いていた。よしおは、もう食べ続けろと促すことは無かった。 

 

「今日は、すみませんでした。驚かせてしまって。でも楽しかったです、ありがとうございました。」 

「いえ、僕も楽しかったです。ありがとうございました。」 

二人はスーパーの前で別れた。 

ぜんまいと、互いの仕事のこと、好きな料理、休日の過ごし方、色々なことを話した。メーカーの営業職をしていて、自炊ならカレーが便利で、読書が趣味。終始ひょうひょうと自分のことを端的に話す姿は、まるで他人の事を話しているかのようだった。仕事もカレーも料理も、さして好きなのか分からなかった。たか子と話していて楽しいのかも、よく分からない。次があるのかも分からなかった。 

だが、たか子の心は満たされていた。ぜんまいを見ていると、自分が許される気がした。 

人々が互いに監視し合い、値踏みし合い、感情という軸のもと打算的に振る舞う世の中で、自分の軸を貫き生きるぜんまい人間が醸し出す違和感は、他人を排除するものではなく、許すものだった。それは、滑稽で、温かくて、優しい違和感だった。 

人目を気にして、おどおどしている自分。嫌われたくなくて、不要な言葉のクッションを挟む自分。不器用でどんくさい自分。自分を信じきれない自分―そんな自分を変えていける気がした。 

 

よしおは、アパートの入り口に入ると、エレベーターの前を通り過ぎ階段に向かった。 

かつてない程の興奮を感じていた。漲る熱に身を任せ、ぐいぐいっと力強く、そして規則正しく階段を上がっていく。彼女は、想像以上にバタバタしていた。おかげで柄にも無く、八階までの道のりに階段を選択してしまった。これは無駄ではない。エネルギーの放出だ。 

初めて会った時、エレベーターに乗り込んできた時、鋭い視線感じた。大人がそんなに自由に人を見ていいものかと思った。そして会計の時、僕の前で順番を迎えた彼女は、バタバタしていた。お会計の時の流れなど、決まりきったものだ。お金を払い、ポイントカードがあれば提示し、お釣りを受け取る。それだけのはずなのに、目の前の女はバタついていた。僕はそれが不思議で、興味が湧いた。 

よしおは家に着くと、手を洗い、部屋着に着替えた。そして大きなリュックから一冊の本を取り出し、机の上に置いた。タイトルは『人生を変える什の法則』。しおり部分に指を入れ開き、第七章「出会い、発見を大切に。心が動いたなら、書き留めて大切に温めて、自分のものにましょう」を読み直す。そして、黒いシャープなパソコンを立ち上げる。整理されたスタート画面。その中から『バタバタ子』のファイルをクリックした。 

馬場たか子、ババ タカ子、バタ子。偶然の一致ではあるが、自分の見つけた宝の正当性を示しているように思えた。 

 

 

第四章 二〇一九年 九月  

 

「ピピピピピピピ、ピピピピピピピ」アラームが鳴る。 

女は、注意深くカーテンを少し開け、わずかな隙間から外を覗く。 

視線を向けた向かいのアパートのベランダに、ちょうど鳩がとまった。 

しかし、男は現れなかった。 

九時。男は眠らまなこでベランダに出ると、一瞬、顔をしかめた。 

またやられた。掃除が面倒だったので、あと回しにすることにした。 

昨晩、遅くまで仕事をしていたので眠い。だから、二度寝をすることにした。 

 

「そのようなご要望でしたら、うちより他社でやった方がいいかもしれませんね。例えば、スターウエディングさんのプランでしたら、比較的お安く、友人も少し招いた家族メインの婚礼が可能だと伺いました。」 

まだ若い佐野さんと渡辺さんカップルは、来週スターウエディングに行くそうだ。 

たか子の営業成績は、相変わらず中の下だった。成約率が低いうえに、客単価も安い。 

上司の小宮は、もはや呆れぎみなのか、以前より何も言って来なくなった。言われるうちが華だったのだろうか。 

もう、良い部下にも良い先輩にもなろうとはしていなかった。 

たか子は一途に、人の幸せのお手伝いをしていた。周りの目が全く気にならない訳ではない。だが、縁あってたか子のもとで結婚式を挙げていくカップルたちの笑顔に、心が満たされていくのを感じた。 


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