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お仕事小説:機上の大奥にて ~保安訓練編~ 第四話(全九話) #創作大賞2024


第四話 保安訓練の幕開け

「頭を下げて~HEAD DOWN!!  頭を下げて~HEAD DOWN!!」
 響き渡る野太い女性の怒号は、鼓膜を伝わり心までも震わせる。胸の奥に不安が渦巻く――。

「大丈夫落ち着いて~STAY CALM!! 」
 暗黒の中に一筋の光が差す――。

「NO FIRE!(火事なし!) NO FUEL LEAK!(燃料漏れなし!)SPACE AVAILABLE!(スペースOK!)DOORMODE AUTOMATIC OK!(ドア、自動モードOK!)」
 矢継ぎ早に唱えられる呪文。

「脱出!! EVACUATE!! こっちへ来て!! COME THIS WAY!! 急いで!! HURRY!!」
 教官たちの鬼気迫る表情、大きな身振り、手振り――。

「はい、以上が明日からはじまる救難訓練で修得していただく、緊急脱出時のロールプレイの一例です」

 張り詰めた空気の中、沈黙を破るように荒木教官の落ち着いた声が響く。
 正直に白状すると、心の中で少し後ずさりしている自分がいた。

 そして、怒涛の日々が幕を開けた。

 服装は、スーツからグレーのカバーオールに変わった。この色とダボッとしたシルエットは、客室乗務員という華やかなイメージと対極にあるように思える。

  一階の更衣室で着替えて、教室がある八階まで階段で上る。訓練所のルールで、訓練生はエレベーターの使用を禁止されているのだ。このThe 体育会系なしきたりには正直驚いたが、訓練に臨む心を整えるのに一役買っているようにも思う。
 
 はぁ、やっと八階だ。少しだけ息が上がる。今日から本格的にはじまる救難訓練への緊張感と相まって、脈拍がどんどん上がっていくのを感じる。

 教室に入ると、昨日までとは全く違う光景が広がっていた。
 お団子ヘアにグレーのカバーオール、このアンバランスなスタイルがなんとも滑稽で、教室にはどことなく気恥ずかしさが漂っている。   
 「おはよう」
 「おはよ」
 最後列に座る今日の一ノ瀬は……いつもよりB系だ。悔しいことに、一ノ瀬だけがこのグレーのカバーオールさえも味方につけていた。
 
 ガチャ――教室のドアが開く。
 紺色のカバーオールに身を包んだ荒木教官が教室に入ってくる。
 昨日の緊迫した声と表情が脳裏に蘇る。
 教室の全員が、カタッと立ち上がる。
「よろしくお願いいたします」
「よろしく願いいたします」
 みんなの声が、こころなしかいつもより低く響いた。

「さて、いよいよ本日から保安訓練がはじまります。みなさんにはこの保安訓練を通して、安全を守るための術を身に付けていただきます。客室乗務員の一番の使命は、お客様の安全を守ることです。そのことを胸に刻み、覚悟を持ってこの訓練に臨んでいただければと思います」

 教室には重苦しい空気が流れる。
 アイスブレークも自己紹介もなく、荒木教官は保安訓練の説明を始めた。
 どうやらこの訓練では、全日本帝国航空が保有する航空機のぞれぞれの機材の特徴や緊急脱出の際の手順、消化器などの非常用機材の使用方法等を座学と実技を通して修得していくそうだ。

「保安訓練は、毎日が試験の連続です。その試験一つ一つをクリアしないと、次に進むことができません。ここにいるみなさんで協力しながら、全員で乗り越えていただければと思います」

 試験をクリアして、全員で乗り越える――これは研修ではなく訓練なのだということを実感させられる。

――では、本日はボーイング777、通称『トリプルセブン』という飛行機の構造と緊急脱出の際の手順について扱っていきます――。

 淡々とした語り口調で、授業は進んでいく。

――ボーイング777という機材には、―200(ダッシュ200)と―300(ダッシュ300)があり、機体の大きさに比例してドアの数が異なります。
777―200(ダッシュ200)はドアの数が八つ、777―300(ダッシュ300)は十あり、このドアは緊急時の脱出の経路になります。
 客室乗務員には、それぞれ自身の担当ドアがあり、いかなる時にも責任を持って担当ドアを操作・管理することが大きな使命の一つです――。

 ドアがこんなにもキーマンだったなんて、少し意外だった。でもたしかに、飛行機という密閉された特殊な空間では、機内外を結ぶドアが重要な役割を果たすのか、ということは想像できる。

――保安訓練で学ぶドアに関する実施業務は全部で三つ、プリフライトチェック、ドアモード変更、そして緊急時のドア操作です。一つ目のプリフライトチェックは、フライト前にドアの不具合があるかを確認するもので、これは毎フライト実施します。次のドアモード変更も同様に毎フライト行うもので、緊急脱出の際に脱出用スライドが出るようにドアのモードを変更することです。最後に、緊急時のドア操作、これは前回ロールプレイでお見せした通りで、この訓練の肝になります――。

 それからボーイング777、通称トリプルセブンの機体の構造や特色、機体の各部位の名称の説明が続いた。機体の図が記載された分厚いテキストが青いペンで彩られていく。
 えっと、プリフライトチェックでは、ドアが完全に閉まっていること、ドアモードがマニュアルモードであること……、で、ドアモード変更では……ああ、頭の中がごちゃごちゃだ。
 隣の席の一ノ瀬に目をやる。一ノ瀬は、涼しい顔をしながら、テキストにじっと目を落としていた。

 「はい、では一旦休憩です。十分後の十一時三十五分になったら、教室にお戻りください。次は機材ボーイング767について勉強していきます」
 荒木教官の言葉に、心の中でガッツポーズをとる。
「では、ありがとうございました」
「ありがとうございました」
 挨拶と共に、教室はガヤガヤとした雰囲気に包まれる。

 「はぁ~やっと終わった。次は767だって。頭ん中、ぐちゃぐちゃだわ、な?」
 一ノ瀬の方を見ると、変わらずテキストをじっと見ていた。しっかし、睫毛が長いなぁ。
「ん?」
 ようやく気付いたようだ。
「よくそんな集中力続くよな。好きなのか、飛行機?」
「いや……そうでもないよ」
 ふ~ん、なんか、ホントに掴みどころがないやつだ。

「767の緊急時のドア操作については、以上となります。では、今からモックアップに向かいます」
 荒木教官の一言で、もうすぐ終わりだという淡い期待感から一転、緊張感の糸がピンと張り詰める。え? モックアップ……てなに? 

 荒木教官の後に続き、二列になって黙々と階段を降りていく。訓練所は日当たりが悪く、どこか不気味な雰囲気が漂う。

「ここがモックアップです。保安訓練における実技は、今後このモックアップを使用します」

 うわぁ、地下にこんな空間が広がっていたなんて――。
 飛行機のドアの一部分や救命ボートらしきもの、本物さながらの飛行機の上半身部分などが目に飛び込んでくる。わぁ、なんか……スゲェ。
 プールの塩素のような独特の匂いを鼻腔で感じながら進む。前に進んでいる女子達も、隣の一ノ瀬も首をせわしなく動かしている。
 やがて、奥の開けた空間にたどり着いた。下はマットで、天井がものすごく高い。そして、奥には大きなグレーの滑り台がある。空気を膨らまして作ったプールのような大きな滑り台――いや、これがあの緊急脱出用のスライドってやつか? なんか、楽しそう……。そして、スライドのてっぺんには飛行機の機体がある。おそらく、緊急脱出時を想定して使用するものなのだろう。

 荒木教官の指示で、二列に並ぶ。それから、靴紐をしっかり結んで、カバーオールのファスナーを上までしっかり上げろ? 一体、何が始まるんだ? 
 紺色のカバーオールを来た教官達が二名、荒木教官の隣に立った。皆、次の展開を静かに待っている。

 「では、今からラジオ体操を始めます」

 チャンチャチャチャラララ、チャンチャチャチャラララ、伸び伸びと、背伸びの運動から――。

 突然始まったラジオ体操。目の前には真顔で背伸びの運動をする三人の教官たち。ラジオ体操なんて、もともと起きたてホヤホヤの無心状態で行うものだが、今夕方に行われているこのラジオ体操は、それ以上に淡々とした空気感の中で行われており、なんだか笑いそうになる。
 あ、これ――腕を左右小刻みに振って、最後に大きく振り上げるヤツ。二回目の振り上げが一か八かのあれだ。小学生の時から幾度となくやっているのだが、毎回なんとなくやってやりっぱなしなので、二十五になった今でも実は攻略法が分かっていない。今回は、どうだ…? お、今の時点で右ってことは、正解だ! あ……一ノ瀬。一ノ瀬の両腕が勢いよくこっちに飛んできて、ばっちり目が合う。
 下唇を噛み、なるべく激しく、そして大きく顔と身体を動かすことでなんとか気を紛らわす。そして気のせいかもしれないが、一ノ瀬の唇の間から二本の前歯が覗き、彼の動きもまた一段と激しくなってきたようにも思う。

「では、これからスライドを滑っていただきます」

 スライドを滑る? この大きな滑り台を? 内心ワクワクしていたが、それは俺だけじゃないはずだ。
 荒木教官から滑走姿勢についてのレクチャーを受ける。足を肩幅に開いて座り、両手を前に伸ばして拳をつくる。

 前に滑った大井美波が、スライドを滑り降り下のマットを駆け抜けた。視界は開けた。改めて、スライドのてっぺんに立つと、思いの外高くて緊張感がある。

「ピッ」

 ホイッスルが鳴る。意をけっして、立った状態から先程の滑走姿勢をとる。お尻に衝撃を感じる。ルール通り両手を前に出しで拳を作る。少し照れくさいが、そのまま滑る。もうすぐ出口、っというところで待ち構えていた教官に手を握って抱き起こしてもらう。
 え、、、ドキッとした瞬間「はい、最後まで駆け抜けてください~」の一言。走り抜けた後に後方を確認すると、一ノ瀬がちょうどスライドを滑り切り、手を引かれて起こされている――まぁ、そうだよな。
 
「では、初日ということで、本日は滑走施設の確認で終わります。明日からは座学と平行して、このモックアップで実技を行います。明日はボーイング777、767のプリフライトチェック、ドアモード変更、そして緊急時のドア操作について、筆記試験と実技、両方行います。一語一句違わずしっかりと覚えてきてください」

 え?……今日習ったことすべてだって? 漢字やカタカナの呪文を浴び続けて、正直完全に溺れていた。それらを整理してすべて明日までに覚えるなんて……無茶だ。

#創作大賞2024 #お仕事小説部門 #CA #客室乗務員

 

 


 
 









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