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初期のセシル・テイラー 1 「ジャズ・アドバンス」"Jazz Advance" Cecil Taylor


Tracklist
A1 Bemsha Swing 7:26   A2 Charge 'Em Blues 11:15   A3 Azure 7:35
B1 Song 5:19   B2 You'd Be So Nice To Come Home To 9:15   B3 Rickkickshaw 6:05

Credits

  • Bass – Buell Neidlinger

  • Drums – Dennis Charles*

  • Piano – Cecil Taylor

  • Soprano Saxophone – Steve Lacey*

  • Producer – Dave Coleman, Tom Wilson (2)

  • Engineer [Recording] – Stephen Fassett

Notes: Recorded in Boston in September 1956.

セシル・テイラーのデビュー盤。1956年録音、57年発売でレーベルはトム・ウィルソンのトランジションである。

トランジションはウィルソンが大学(ハーヴァード)を出た後900ドルを元手に立ち上げたレーベルで、この作品の他に、サン・ラやドナルド・バードのデビュー作を手がけている。経営的には短期間で行き詰まってしまったが、56年の段階でセシル・テイラーやサン・ラに目をつけレコーディングした功績は大きい。
オーネット・コールマンの最初のレコーディングが58年であるから、この作品と56年7月録音のサン・ラの”Jazz by Sun Ra”(これはビッグ・バンドで比較的オーソドックスな作品)が所謂フリー・ジャズの最初期の作品とみなされることになるわけで、50年代後半のジャズ変革期にトム・ウィルソンが果たした役割(それも自腹)は強調してもしすぎることはないと思う。

さて「ジャズ・アドバンス」である。この当時セシルは33年生まれとしていたようだが、実際は29年3月生まれ、27歳ということになる。大学を2つ出たわけだから当然そういう年齢になるはずで、当時なぜそのようなサバ読みが通用したのか理解に苦しむが、しばらく33年生まれの23歳で通用していたようである。「弱冠23歳の天才児登場」的なイメージを必要としたのかもしれないが、実際はある程度ものの分かってくる年齢でのレコーディングであったわけだ。

楽曲はセロニアス・モンク、デユーク・エリントン、コール・ポーターのカヴァー3曲が収められ、他3曲がオリジナルという構成である。セシルはモンクとエリントンに関しては生涯尊敬の念を語っていた。コール・ポーターに関してはこの後「Love For Sale」(これもウィルソンのプロデュースでユナイテッド・アーティストからのリリース。)でも3曲取り上げているが、この選曲は何故であろう?それも原曲のフレームをかろうじて残す、というようなカヴァーである。

オーネットは5枚目で初めてカヴァーをアルバムに入れた。それも特に自分のルーツや影響関係を明らかにするようなカヴァーではなく、選曲したのはガーシュインの「エンブレイサブル・ユー」で、スタンダードの解釈をして見せたかったという風情であった。

対してセシルはデビュー盤の1曲目に敬愛するモンクの「ベムシャ・スウィング」を持ってきている。セシルの場合当時のジャズ・ミュージシャンには珍しく音楽の高等教育を受けているという背景があり、12音他の現代音楽の方法にも精通しているということがあるので、そこが周囲に喧伝される、当然、セシルの音楽はその角度から解説されやすいということがあったのだと思う。

作曲の高等教育の場では、現代音楽こそが当時のトレンドであったわけであるから、そのやり方を持ってきたのだ、としてしまえばある程度の解説にはなる。12音やクラスターに関しては当然教育の場で経験し習得済みであり、このテクニックを目立って使用していることは、セシルの音楽を一聴するに明らかであるし、さらに、当時ガンサー・シュラーなどによる、西洋音楽理論とジャズの接点をさぐるサード・ストリームなども出てくる途上であったわけで、その「ヨーロッパの現代音楽」との影響関係で自身の音楽を説明されてしまう危険を常に感じていたのかのしれない。

ようするに黒人の「現代音楽家」である。本人的にはそれには納得できなかったのであろう。そこでことさら自分のルーツを明確にする方向に出たのではないだろうか?

晩年の本人が語るところによると「10代の後半にミントンズのセッションに毎週出入りしていた」とのことで、モンクに関してはその当時からのアイドルであるのだという。(このことは何故か60年代のインタビュー等では語られていない)この経験は例えばオーネットなど田舎出身のミュージシャンにはない、ニューヨーカーとしての特別なものであるし、ビバップの発生現場に居合わせていたことはルーツを語る上で好都合である。

さて、この「ベムシャ・スウィング」のカヴァーはモンクへの敬愛をあらわしたものであるのだが、その斬新なアプローチには目を見張るものがある。モンクの音楽もジャズに新たな響きをもたらしたが、セシルの音楽はそこにさらなる新しさをもたらした。表向き本人はこのことを強調しないが、それはやはり現代音楽的響ということにどうしてもなってしまう。

ブルースをベースにしながらも、ヨーロッパのハーモニーを取り入れて発展してきたのがジャズであって、常にヨーロッパの音楽を参照してきたわけであるが、セシルの登場までは、ヨーロッパの音楽でも19世紀までのものを主に取り入れていたが、12音の音楽から始まる20世紀ヨーロッパの現代音楽を本格的に取り込むに至っていなかった。
言ってみれば1956年のこのタイミングで、その取り込みが本格的に始まったわけであり、その始まりがセシル・テイラーであった。本人も確信をもってのことであったはずである。

以下は「Looking Ahead!」のナット・ヘントフのライナー・ノーツからの引用だが、セシルは「未来のジャズ・ミュージシャンは音楽学校(コンセルバトワール)のバックグラウンドを持たなければならなくなるだろう」というエリントンの40年代の発言に触れ、さらに「ぼくはヨーロッパの影響を恐れない、要はエリントンがそうしたように、アメリカの黒人として、その人生の一部としてヨーロッパの音楽を経験しているわけであるから、その経験を使えば良いのだ」とし、マイルスのイノヴェーターとしての在り方に軽く言及した後に「西洋音楽のセオリーからではなく、聴いて、生きた経験から」音楽を導き出すのだ。としている。「Looking Ahead!」は59年の発売であるからこれはセシルが30歳前後での発言ということになる。

このような説明をする必要があったということは、セシルの音楽に対しヨーロッパの影響ばかりがクローズ・アップされる状況があったのだろう。当時の他のインタビューで本人はエリントンとモンクからの影響を特に強調し、ジャズやブルース、自身のアメリカの黒人としての根を強調する傾向にあった。言ってみればジャズの革新者であり、革命を起こす者でありながら、その道具となったヨーロッパの例えばクラスター(ヘンリー・カウエルにもアトリビュートされるテクニックであるからアメリカのテクニックとも言えるが..)などのテクニックに関しては語ることを避け、反対にジャズのかつての革新者である先人の例を引き合いに出して自身をそのイノヴェーターの系譜に位置付けているわけである。セシル・テイラーのこのポジショニングは晩年まで変わらなかったと思う。

長くなったので次回につづく。

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