見出し画像

オーネット・コールマンのレコード03  「ジャズ来るべきもの」            The recordings of Ornette Coleman No.03 "The Shape Of Jazz To Come"

言わずと知れた名盤である。まずは基本情報。
A1 Lonely Woman4:59
A2 Eventually4:20
A3 Peace9:04
B1 Focus On Sanity6:50
B2 Congeniality6:41
B3 Chronology

  • Alto Saxophone – Ornette Coleman

  • Cornet – Don Cherry

  • Double Bass – Charlie Haden

  • Drums – Billy Higgins

  • Engineer [Recording] – Bones Howe

  • Supervised By – Nesuhi Ertegun

Nesuhi ErtegunはアトランティクのオーナーAhmet Ertegunの兄弟で、コルトレーンやミンガスの諸作というか、アトランティックのジャズを主導したプロデューサーである。このコンテンポラリーからアトランティックへの移籍はジョン・ルイスの推薦であると言われており、当初まずはOrnetteとDonの2名での録音契約があったのであるが、アーティガンがリハーサルに訪れた折にヘイデン、ヒギンズにも興味を持ち、このグループでのレコーディングを要請したのだとされている。経緯は兎も角、レギュラー・メンバーと言って良いメンバーによるレコーディング・セッションとなった。
ここで大きいのはチャーリー・ヘイデンの参加である。それはA1の"Lonely Woman"の冒頭のドローン的なアプローチの正しさで即明らかになる。前作までの言ってみればオーセンティックなジャズ・ベーシストとは一味も二味も違い、オーネットの音楽の理解者であり、同じ志を持つベーシストであるヘイデンの参加はこのアルバムの肝である。ヘイデンはこの後もオーネットの音楽の理解者であり続け、多くの作品で共演することになるのだが、レコーディング的にはここが始まりということになる。

レコーディングはハリウッドで行われたということになっている。それも1日である。前作が4日かけての録音であったから、事前の準備が良かったということか?このセッションの5か月後に行われた次作も1日で録音されている。ちなみに"Something Else!"は3日かかっており、メンバーが流動的であったことなども考慮に入れるにしても、Contemporaryの方が時間をかけたレコーディングであったことがわかる。
僕の持っているのはオリジナルのステレオ盤であるが真ん中にベースとドラムが定位し左右にオーネットとドン・チェリーが振り分けられている。前作との違いはドラムが控えめになっていること。これがフロント2名を際立たせる効果を上げているといえばいえるが、ドラムがもそもそしていると言えなくもない。前作のシェリー・マンは若干やりすぎ感はあったのだが、ContemporaryとAtlanticのレコーディング技術の差を感じることも確かである。
ただ、演奏に関して言えば、フロント2名の演奏が前作に比し格段に伸びやかになっていることは明らかだ。サウンド的にも伸びやかなサウンドになっている。ドン・チェリーに関して言えばこのアルバムでスタイルが完成した感がある。その後、もちろん亡くなるまでに様々な変遷があるものの、ベーシックなサウンドの感じはここからそれほど変わらないように思う。
さらに、バンドのサウンドとグループとしてのインプロヴィゼーションの方法論に一つの完成を見た感がある。前作から2ー3か月後の録音ということを考えると、やはりメンバーの固定、ヘイデンの参加による効果といえるであろう。これは前2作でも盛んに語られてきたことであるが、オーネットは提示するメロディーに対して、多様なハーモニーの可能性があることを強調してきている。しかし、ベーシストがその辺りに真剣に取り組んでいたとは言えない。ここでのヘイデンの行き方は一つは「ロンリー・ウーマン」の冒頭で見られる、ドローン的な方向、そして少し大げさに言うと対位法的なベース・ラインである。
コルトレーンがアフリカ・ブラスで2ベースを採用し、片方のプレーヤーに一つの音を弾かせ続けたことは以前のブログに書いたが、そこまでではないにせよヘイデンも「ロンリー・ウーマン」ではドローン感を出そうとしており、曲の雰囲気を的確に演出したと思う。これは似たメロディーと構成を持つ前作の「ロレイン」との比較で明らかと思う。
対位法的なベース・ラインとなるとこれはパーシー・ヒース辺りが得意なのではと思ってしまうものだが、前作を聴くにそうでもない。前作でのパーシー・ヒースは「ターンアラウンド」のようなブルースに完全に5度進行が見えるようなラインで対応していた。ジャズにおけるベースの役割を考えた時にどこまでメロディーに対しコードの重力から離れて、対位法的アプローチをセンスよくできるのか?というのは大きな問題である。ここでのヘイデンはその辺りセンスよくまとめているように思う。ライナーによると、オーネットがいくつかベースラインを書いたともされているが、それにしても従来のベースが受け持つ伴奏的なものからは随分遠くに離れ、曲に対してメロディックなアプローチをし、グループ・インプロヴィゼーションの完成度を格段に上げている。
ドラムのヒギンズは元々の共演者であるわけで、言ってみればグループ馴染みが良いプレイということだろうか、特に目立つわけではないが、フロントの2名との相性は良さそうである。ヒギンズは次作に参加後、なんらかの事情でキャバレー・カードを失い、グループを離れることになるのだが、その後も後任のエド・ブラックウェルほどではないものの断続的にオーネットと共演を続けている。さて具体的な内容に移ろう。ざっくり言うとA面が3曲の構成も含め特に素晴らしい。
A1の「ロンリー・ウーマン」はオーネットの作品中最も有名な曲の一つであるが、前述のヘイデンのベースの効果もあり、テーマ部分はまさに名演となっている。テーマ後の物語を語るようなオーネットのソロも良いしタムを多用したヒギンズのプレイもはまっている。テーマが繰り返された後に、ドラムとベースが残り消え去っていく。こう言うコンポジションがあることがオーネットのポピュラリティーをなんだかんだ言って形作っていると感じる。
A2の「イベンチュアリー」ではヘイデンの見事なランニング・ベースが聴ける。その上でオーネットとドンのソロが展開するわけであるが、このあたりがスリリングなところで、普通のジャズ演奏がよって立つ足元のキーがわからなくなっていく。コルトレーンものではなんだかんだマッコイが土台を作ってしまっていおり、スリルが減っているのだが、オーネットのカルテットの魅力はこのような部分に如実に現れてくると感じる。
A3の「ピース」。テーマ+ボーイング+テーマと来てオーネットのソロ。ここは語り調でオーソドックスである。その後ドン・チェリーのソロでこれもオーソドックスなのだが、このソロから前作までにない自信を感じ、彼のスタイルの完成を感じる。この曲から後の「Old & New Dreams」的な感じを受けるのもそのせいだと思う。ラストもテーマ+ボーイング+テーマと来て終わる。
B面はファンファーレのような短いテーマにベース・ソロが続く"Focus On Sanity"から始まる。この曲はきっかけの多い曲である。その後印象的なテーマとランニング・ベースにフロント2名のソロが聴きどころの"Congeniality"が続き、個人的にパーカー的なテーマと感じる"Chronology"で終わる。
まずは一旦の完成を見たオーネットの音楽である。次作はこの4か月後に録音され、はっきり延長線上にある作品である。この2枚はオーネットが現れた時点での姿を良く表現していると思う。現在からすると、なんといってもスタンダード曲と言える楽曲が何曲も入っているわけで、フリー・ジャズとして騒ぐよりはモンク的なジャズの流れの中で受け止めて良いアルバムと思う。
さて、ジャズ・レヴュー誌のマーティン・ウィリアムズによるライナーによるとこのレコーディング・テープの編集に関してオーネットはガンサー・シュラー(https://ja.wikipedia.org/wiki/ガンサー・シュラー)に手助けを求め行ったとされている。有名な話であるが、ジョン・ルイスの推薦でオーネットとドンの2名は毎年マサチューセッツで開かれる「スクール・オブ・ジャズ」に参加し、シュラーともそこで知り合った。意訳するが、ライナーに引用されたシュラーの言葉は概略以下。
「オーネットの音楽の概念(musical conception)の中で最も瞠目すべき要素はその完全な自由さ(complete freedom)にある。彼の音楽的インスピレーションはありきたりな譜割、コード進行、運指や奏法により整っている世界に作用する。それら実践的な規範(pactical limitations)は彼の音楽の中では問題にもされないし、存在さえしない。そのかわりに(正確に言うとそれゆえに)彼の演奏は深い内的論理を持っている。それはリアクションやタイミングや色(color)の巧みさによるのだが、ジャズの世界ではとても新しいものだと思う。オーネットの音楽言語はホーンで語らなければならない、成熟した人間の成したものだ。全ての音(note)はコミュニケートの必要のために生み出されている。私はオーネットが多くのジャズ・マンがやるように真似ごと的にプレイすることができたとは思わない。音楽は彼の中にそれほど深く根ざしている。それら全ての彼の音楽的クオリティーは驚くべきものであり、そこにはジャズの伝統に対する深い愛や知識を吹き込まれてあるだけではなく、チャーリー・パーカーの音楽に黙示されているものの新たな顕現でもあるからだ。」
マーティン・ウィリアムズはこの引用で彼の論を閉じている。
前にも書いたがフリーと言った時に、セシル・テイラーのあり方は彼の受けた現代音楽の教育、それらをジャズの世界に持ち込んだ彼のやり方を持って万人に解説することが可能である。アメリカにもヘンリー・カウエル他先人がいるわけで、そのジャズの世界への適用の一つのあり方なのだといえば、ある意味ルーツを明かしながら歴史的に説明できる。一方オーネットの方はただの無茶苦茶でこうなっているのだと言われかねない部分があったのだろう。このあたり本人も言葉を尽くして説明しようとしており、周囲の専門家からの解説をとにかく仰ぎたいところであったのだと思う。それでも足りないと感じたのか、次作のライナーは本人が書いているほどである。後年本人が提唱し出す「ハーモロディクス」なる理論もこの延長にあると思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?