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トレンケ・ラウケン Trenque Lauquen
23年度のカイエ・デュ・シネマ1位ということで、下高井戸シネマへ行ったのだが初日は満員で入れず、近所というわけでもない中、日曜の朝整理券を取りに行きようやく観ることができた。満員の映画館で4時間半映画を観るというのは、なかなかない経験。せっかくなので、ザッと感想程度。
あらすじなどは、上の作品情報に上手くまとまっている。
フェルナンド・ソラナスの大ファンであるので、アルゼンチン映画に対してはある種の勝手な期待(ボルヘス、迷宮、マジック・リアリズム、などなど)を持って接するのだが、その期待に上手く応えている、というかそれを企図し遂行したと思う。具体的には「パンパに生まれ、そこへ消えていく」というアルゼンチン人の持つ(とこちらが勝手に考えている)ロマンチシズムというか共同幻想に依拠し、それを主題として上手く表現し得ている。2部の途中(多分)でシネスコに切り替わり、パンパに消えていく主人公を捉えていくあたりは、古くは「大人はわかってくれない」のラストやアントニオーニの諸作、ツァイ・ミンリャンの「愛情萬歳」などなどに通づるセンスというか系譜を表現し、自己の作品を位置付けたと思う。
その他マクガフィン的に使われるいくつかの挿話に、「遠野物語」アルゼンチン版的なベースがあるのだろうとな〜、と感じさせるところも上手い。
テクニック的にもシャロー・フォーカスを上手く使い、長回しの中、フォーカスをおくることでモンタージュ効果を得ていく近年の一部のトレンドに上手く乗っている。この「シャロー・フォーカス+長回し」は、ガスヴァンサントの「エレファント」(2003)あたりを起点に、「サウルの息子」(2015)でネメシュ・ラースローが「イマーシブ・シネマ」と呼びたくなるような効果を引き出し、その後たとえば「象は静かに座っている」(2018)などに見られるようになり、広がっていったわけだが、上の作品がシークエンス中の主人公を徹底して追うスタイルで使っていくのに対し、本作ではより広く、カジュアルに使っている。言い換えるとここまであまり必然性なくパン・フォーカスでやっていたものを、シャロー・フォーカスに置き換えるトレンドが、デジタル時代になって広がっていることを感じさせた。これには音のコントロールが細かくできるようになったことも関係していると思う。
その他、上で挙げた諸作に比してモノローグが多用され、セリフも多い、ダイアローグに関してはシャロー・フォーカスであるがカット・バックをわりと律儀におこなっている、などなど、今までのいわゆる「スロー・シネマ」的なものよりもオーソドックスな作りで、かつ冒頭の作品情報にあるとおり「ミステリー」と言えなくもない。このあたりは広い層に受け入れられる要素となるのではないだろうか。
と、ざっと初見の感想程度のつもりであったのでこのあたりで終わるが、最近見た中で(といって数を観ているわけではないが)おすすめの作品。
下高井戸シネマで限定公開という打ち出しであったので、この後どこまで公開が広がるのかわからないが、そのうち配信などで観ることができるようになるかもしれない。