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オーネット・コールマンのレコード ①  「サムシング・エルズ!!!!」          The recordings of Ornette Coleman Something Else!!!!

*この記事はオーネットが亡くなった2015年に書き、他のブログで公開していたものです。他も含め記事を全体的にnoteに移転中です。


少し前(2015年6月11日)になってしまったが、オーネット・コールマンが亡くなった。幸い最後の来日公演を見る事ができ、その「音のつややかさ」が衰えていない事、いや、というよりも「音」自体が「美」と化した、表現の完成度の高さに感激した。

その音のイメージ、「美」のイメージを今でもぼくは呼び出すことができる。そんな幸せに与っていることをオーネットに感謝したい。

ぼくは遅れて彼を知った世代であるが、彼の正規盤はほぼ全て持っている。このBlogを始めた際、本当はDisk Reviewを中心にと考えていたこともあり、今後はオーネットに限らずDisk Reviewコツコツ書き足して行きたいと計画している。

ということで、まずはオーネットの作品を1枚目の「SOMETHING ELSE!!!!」から取り上げて行きたい。この作業はフリージャズの流れを辿る作業でもあるので、逐次並走するアーティストの作品も取り上げつつ書き足して行く。


さて「SOMETHING ELSE!!!!」である。

正確には「Something Else!!!! The Music of Ornette coleman」である。オーネットはまず自己を作曲家として位置づけたいということがあったのであろう。この作品は収録された全曲がオーネットの自作で占められている。

比較すると、セシル・テイラーの場合デビュー盤の一曲目は「Bemsha Swing」、モンクの曲である。セシルはここで自分のルーツを呈示し、その上で、その曲を換骨奪胎する凄まじいまでの演奏を展開した。

例えば今目の前に「ぼくはモンクが好きなんです」という若手ピアニストが現れてセシルの様な演奏をしたとしたら、今でも大変な衝撃であることは間違いない。セシル・テイラーはそのように世間を驚かせた。オーネットに先んずる事2年。フリー・ジャズ的なるものが始まるにはまず、その解り易いルーツを呈示する戦略が必要であった事は十分に納得できるし、その上で驚くべき演奏を繰り広げることが出来たわけであるから、合理的なやり方であったと思う。

また、セシル・テイラーの音楽は、そのキャリア全体で大きな一曲という印象である。今となっては、個々のコンポジションが突出して目立つ印象は薄く、例えば「The World of Cecil Taylor」の中の比較的印象的な曲も彼の壮大な美の創造の一部であったと感ぜられる。そのような傾向がセシルにはあると思うがいかがであろうか?

もちろんオーネットについてもそのような見方をする向きもあるかもしれないが、例えばこのアルバムの一曲目「Invisible」にしても二曲目の「The Blessing」にしても独立したコンポジションとしてその後演奏される歴史を辿った。「自己を作曲家として位置づけたい」というオーネットのデビュー時の希望は成就したと言っても良いのではないだろうか。

参加メンバーは以下。

オーネット・コールマン Ornette Coleman (alto) ドン・チェリー Don Cherry (trumpet) ウォルター・ノリス Walter Norris (piano) ドン・ペイン Don Payne (bass) ビリー・ヒギンズ Billy Higgins (drums)

レコーディング当時オーネットは28歳になったばかり、ウォルター・ノリスが26歳、ドン・ペインが25歳である。対して、この後オーネットと活動を続け、後年はシーンの中心をになっていくドン・チェリーとビリー・ヒギンズの二人は弱冠21歳である。

以上のメンバーで録音された本作には、以後のオーネットのスタジオ録音では見られないことがある。

それはピアノの参加である。

結果、ピアノの左手がコードを示すことで大変ビバップ・ライクな演奏に聴こえる。言い方を変えると、随分月並みな方向、当時としては耳馴染みの良い方向に修正されていると言って良いと思う。

もちろんオーネットのメロディーの斬新さは伝わって来るのだが、それを最大限に生かすアレンジには残念ながらなっていない。このアルバムのライナー・ノーツはナット・ヘントフによるものだが、オーネットはその中のインタビューで以下のように語っている。

「ぼくはいつもメロディー・ラインを最初に書く、何故ならいくつかの異なったコードが同じメロディー・ラインにフィット可能だと解っているからだ。実際問題、ミュージシャンがぼくの曲をいろいろ異なったコード・チェンジで、新たなハーモニーを加えて演奏するなら、ぼくはそのことを歓迎する。それによって、演奏により多くのバラエティーが生まれることになるからね。このレコーディングでも曲のコード・チェンジに関しては、ぼくからの示唆と、メンバーからの示唆のコンビネーションで最終的に決まっている。」

確かにある一つのコード進行が曲に与えられ、ピアノによって強調されている。

ただ、この後のオーネットのレコーディングで、コード進行を強調するピアノのような楽器の参加はほとんどない。レコーディングの結果「自分のメロディー・ラインに対して今回のようなピアノによるコード・チェンジの呈示はそぐわない」という結論にオーネットが至ったことが推察できると思う。

その後の歴史を知り、彼の作品を知る我々が、このアルバムを一聴し、曲の解釈がコード・チェンジよって強調され、そのやり方を無粋に感じるのはやむを得ない事に思う。

我々はフリージャズの始まりの一枚としてこの作品を捉え、聴き直すわけだから、従来通りのビバップ・ライクな曲の構造解釈から遠く離れたものが、ここで表現されていて欲しいと期待するのだが、歴史は変わらない。そして、その原因、ビバップ・ライクに聴こえてしまう原因をウォルター・ノリスのピアノに求め「あー、彼はこのアルバム限りだった」と頷くのである。

ノリスはこの時点でそれなりに経験のあるピアニストで、このレコーディング以前にスタン・ゲッツやズート・シムズと仕事をしている。

詳細な事情は解らないが、このレコーディング契約にピアノの参加が条件として入っていたと言われているから、プロデューサーであるレスター・ケーニッヒの意図=聴き易さ・安定性のために「あまりにアナーキーに聴こえるオーネットの新しさを型に嵌めて呈示する」といったことがあったのかもしれない。

その同じ契約に、次のアルバム「Tomorrow is the Question!」(59年)も縛られていたとのことであるが、「Tomorrow is the Question!」にピアノは参加していない。同レーベルでは「Something Else!!!!」録音の3ヶ月後ヘントフ監修でセシル・テーラーの「Looking Ahead!」が録音されている。その辺りの流れ・影響もあって、ケーニッヒのこの手の音楽に対する理解が深まった結果、方針の変更があったのかもしれない。

実際問題、後から振り返ると、このアルバムが録音された58年は「ビバップの臨界点」であったと感じる。それは翌年59年の動きを追うとさらに明らかになってくると思う。

59年の1月、2月にピアノ・レスのオーネットの2nd「Tomorrow is the question!」が録音され、同年の3月、4月に、モード・ジャズで名高いマイルスの「カインド・オブ・ブルー」が録音される。コード・チェンジが構造を決定し、即興の在り方を決定すること、謂わば「流行歌の伴奏」的なところを始原とし、時代の流行歌をそのアレンジメントの妙、コード分解の妙で複雑化し成り立って来た既存のジャズに対する意義申し立てが明瞭な形で持ち上がってきたのである。

コード・チャンジを突き詰めて行った末に、あまりにもコードの代替可能性が膨らみ、結果的にその構造から自由になっていった、というフリー・ジャズ的な在り方と、モード・ジャズ的な、旋律やアドリブが拠り所とするコードの分割具合をユルユルにすることで結果自由を得る、という在り方を同列で論じて良いかは問題として残る。ただ、この時期に、ビバップ・ライクなジャズの在り方に演奏者は限界を感じ、聴き手はいいかげん飽きていたことは見えてくると思う。


その「限界」と新たな「可能性」が58年の「Something Else!!!!」で図らずも同居し、示されている、とすると、逆説的に、ノリスの演奏があるからこそ、オーネットの音楽の出発点とともに58年という時代が明瞭に解り、そこに「Something Else!!!!」の歴史を刻む名盤としての価値の一部があるとするのも面白い見方ではあると思う。

蛇足ながら59年は映画の世界でも、知ってか知らずかモンタージュ・セオリーを無視し、大変アナーキーな出来映えとなったゴダールの「勝手にしやがれ」が制作されている。商業映像を支えた有機的モンタージュ理論もこの年が臨界点で、この後のヌーベル・ヴァーグの起点となっている。


さて、前述の通り、オーネットはこの後ピアノ・レスのスタイルにこだわることになる。よって以後ノリスはオーネットの録音に参加することはなく、「その存在が後のオーネットの在り方を逆に定義したピアニスト」としてジャズ史に名を残したことになるのだが、このアルバムのみの参加となったメンバーがもう一人いる。ベーシストのドン・ペイン(Don Payne)だ。

ヘントフのライナー・ノーツによると、ドン・ペインは既にジャック・シェルドンやメイナード・ファーガソンといった面々と仕事をしていた実績があるベーシストである。当時オーネットの音楽に対する無理解の中、彼はオーネットとプレイすることを選び、その音楽を先輩格であるパーシー・ヒースやジョン・ルイスに聞かせ、さらに、ウェスト・コースト・ジャズの世界では名の知れたベーシストであったレッド・ミッチェルに聞かせた。そのミッチェルの推薦によりコンテンポラリー・レコードのレスター・ケーニッヒがオーネットのオーディションを行い、レコーディングの機会を設けたということだ。

ペインはある意味このアルバムの録音の生みの親の一人である。

しかし、次作には参加していない。次作のベースは前述のレッド・ミッチェルとパーシー・ヒース。ペインがオーネットの音楽を推薦した先輩ミュージシャンの参加となり、本人は外れたのである。どんな事情だったのであろうか?


ここからは、ヘントフのライナー・ノーツにのっているオーネットの言葉で印象的なものを拾っておきたいと思う。何故ならこの時点でのオーネットの音楽に対する考えがよく表現されていると感じるからである。

ヘントフは「オーネットにとってピッチはとても大切な要素なのだ」というドン・チェリーの指摘を引き継ぐ形で、オーネットの以下の言葉を引く。

「本当に正しいピッチで演奏した時、人間の質感(human quality)を表現することができるいくつかの音程(interval)がある。….実際、人間の声の暖かさを、聴き、表現しようとすれば、いつもその人間的な音に辿り着く」

当時のオーネットが人間的なるものに大変こだわっていたことがわかる。そのことはリズムに関しても言えるのだと、以下のような発言が引かれる。

「リズム・パターンは自然な呼吸パターンのようであるべきだ。リズム・セクションには、ぼくがやろうとしているのと同じぐらい自由であって欲しい。しかしリズムにしろホーンにしろ、そんなことができるプレーヤーは稀だ。モンクはその一人だ。彼は時にシングル・トーンで演奏するが、その音を全くもって正確なピッチで呈示することで、コードで表現する以上の音楽的豊かさが一つの音で得られる。モンクはジャズ界で最も完全な和声的な耳(harmonic ear)を持っている。バードは一番の全音階的な耳(diatonic ear)を持っていた。モンクは多様な異なったリズム・パターンを呈示することができる。ドラマーで言えば、それを達成しているのはエドワード・ブラックウェルだ。彼はどんなパターンでもたたける。」

随分端折り、意訳したので、正確なところは原文にあたってほしいが、オーネットはモンクとバードという二人の先人に敬意を表した後、その二人と同列にこのアルバムには参加しなかったエドワード・ブラックウェルの名を挙げている。(誘ったが断られたという説がある)そのブラックウェルがオーネットのバンドに参加するようになるのは「This is our music」(60年)からである。

長くなった。

コンテンポラリーからのリリースがこの作品と次作「Tomorrow is the Question」の2作品に終ったこと、オーネットの共演者が固まったのが、アトランティックへの移籍後1作目「The Shape of Jazz to Come」からであることを我々は知っている。

その地点から、この作品に諸々言及してきたわけであるが、過渡期的な様相がこのアルバムにあるにせよ、現在はクラッシックとされるオーネットの曲がつまったアルバムでることに変わりはない。

さらに、名エンジニアとして名高いロイ・デュナン氏の手による、真空管ディバイスの全盛期の録音である。是非オリジナルに近いアナログ盤で聴いてほしい一枚だ。




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