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"The Last Movie" Dennis Hopper 「ラストムービー」 デニス・ホッパー

*このテキストはリマスター版公開当時2020年ごろにに別のブログで公開したものです。

年初に新宿に出向き「ラストムービー」を観た。世に名高い問題作である。

オリジナル・ネガから4kリマスターされ31年ぶりの劇場公開とのこと。テクニカラー作品でそれらしい発色と質感が出ていて手応えのある映像である。

このレヴェルの映像でこの手の作品が作られることは今後そうそうないだろうと推測されるから、このリマスターはとても貴重だ。ディビッド・リンチでさえ「インランド・エンパイア」はフィルムで撮れていないし、近年のゴダールの映画にしてもフィルム撮影ではない。ゴダールに関しては昨年、新作「イメージの本」を観に行ったが、劇場に観客などほとんどいない状態である。制作にお金のかかる体制は組めそうにもない...と言う以上にもう高齢である。

さて、この作品をゴダールと比べ「この手の映画」とくくってしまったが、手法的な面では、有機的なモンタージュから外れたジャンプ・カットの多用や、全般的なナラティブのあり方に幾ばくかの共通点を見出すことができる程度である。しかし、この作品を観るまで思ったこともなかったのだが、ホッパーとゴダールの間に何か映画に対する「正直さ」のような、作家としての態度面で通じるものを今回強く感じることとなった。

ホッパーはこの作品の編集に1年間かけたというが、とにかく自分のヴィジョンを追求しようという強い意志を感じる。「イージー・ライダー」のヒットによって獲得した「自由」を何に使うのか?ホッパーは当時の所謂アメリカン・ニュー・シネマの流れからも一線を隔そうとする意志を持ち、この作品の制作でそれを完遂してみせたと言える。結果、「ラストムービー」は「映画」を観たという手応えがしばらく身体に残る、濃密な時間体験を観るものにもたらす希有な作品となっている。

後半に出てくる瀕死の主人公のイメージは「サイケデリック」映像の決定版、「音」と「映像」の魔術であると思うし、ハリボテが登場する冒頭のイースター・パレードや、ラスト近く夜のシーンなどはまるでフェリーニのようにスペクタクルである。「音」の聴こえ方も大変特徴的且つ音楽的で、本人の狙い通りに、映画的トリップ体験を極大化する効果をあげていると感じる。ドラマ部分はシネマ・ヴェリテ的で強いて言えばカサヴェデスの作品と共通するたぐいのリアリティーがある。

映画内で映画が撮影される、映画内映画で死者が出る、ホッパー演じる主人公はそのことに幻滅し、映画の撮影終了後もロケ地であった、ペルーに留まる。「映画」という作り物を作る過程での死とそれへのリアクションを描くことで始まるこの映画は、この映画自体の「映画性=虚構性」をラスト近辺のホッパー演じる主人公の「死」のシーンの、数多くのテイクを何度もリフレーンすることにより印象付け終わる。

この構造自体は特に驚くべきことではない。しかし、この映画の特別なところは、それによって、この映画の制作行為自体がホッパーによって生きられたものである、という作家としてのホッパーの実感がしみじみと伝わってくることにあると思う。

読後感は先に挙げたリンチの「インランド・エンパイア」あたりと共通していると思うが、それに先行すること40年。「正直」で「ストレート」で当時のホッパーの実存を感じる108分間。ホッパーは希有な存在であった。

「イージー・ライダー」直後はドル箱監督であったハズのホッパーは、この後10年干されたという。

同時代の作品で、例えば同じユニバーサル配給のモンテ・ヘルマンの「断絶」やMGM配給のアントニオーニの「砂丘」あたりと比して、ことさらこの映画が「難解で売れなさそうである」とは思えない。まあ、「イージー・ライダー」のような大ヒットを期待したユニバーサルのホッパーに対する目論見が裏返った事情があったのだろう。さらには自分たちの理解を超えたこの作品自体を恐れたのかもしれない。

この手の映画は台本から推し量ることが難しく、個人の「作家」としての資質に根ざしてしまい、産業的なコントロールが効かなくなるタイプの作品である。これが広く支持されるようなことになってしまうと、メジャー会社の権威主義的な体制維持が難しくなることは明白である。「この手の作品」を熱心に排除してきたことで、現在はハリウッド的なドラマが見事に復権している。ハリウッド映画の世界で1970年前後に大きな分岐点があったことを再認識した次第である。

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