読めない人が「読む」世界
手持ち無沙汰のあまり、ペットボトルのラベルを注視してしまう。
読まなければ生きてこれなかった。私が過読症(ハイパーレクシア)かどうかは知らない、わからない。
あえて断言すればそのようなことはどうでもいい。
文字が欲しい。あいまいな世界を切り取り形作る文字が、言葉が。読むことによってしか私は世界を覗き込むことができない。
百科事典を貪るように読みつづけた。不登校の合間に『タウンページ』に耽溺した。
くまなく国語辞典を読んだ。実家の廊下に投げ出された父の本、図書館の棚、国語便覧、資料集、文字だ、とにかく文字だ。
おそらく私は過読症(ハイパーレクシア)ではないはずだ。かつて読んだ一冊の本を目の前に差し出されて、「145ページの2行目に書いてある文章は」といった類の問いに私は答えることができない。
ただかつて読んだ言葉たちが、めまぐるしく脳を巡る言葉が、文字が、文章の数々が、ある日唐突に私に光明をもたらす。知識の断片と観察の結果とがつながる。有機的連関となる。世界は、そのようにしてできていたのだ。
知りたいのだ。子ども時代の私は勉強できる環境ではなかった。
子ども部屋のドアは父がドライバーで取り外した。母は家事をさぼった私に激昂し、ランドセルや教科書を庭に投げ捨てた。
だが、今となってはそのようなことはどうでもいい。私は2年前から区の算数教室に通っている。仮分数、点対称、帯分数、最小公倍数。
仮に私を笑う人があってもいいと思う。それはその人の自由だ。
私は学ぶことをやめない。なぜなら数も言葉であり、私は言葉を希求しているからだ。体面よりも優先は言葉だ。言葉。言葉が欲しい。
言葉は派生する。数へ、音楽へ。外国語、小説、エッセイ、専門書。詩、短歌。
話す。うたう。かつて叫びによって始まったであろう言葉の起源が、遺伝子ごと連綿と私に流れている。
世界のすべては言葉でできているのかもしれない。
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