なぜ「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」は大ヒットしたのに、批評家は低評価だったのか?
「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」
全世界(日本も含め)で大ヒットをブチかましている超話題作。
5月16日時点で全世界での興行収入は1600億円を突破し、歴代興行収入ランキングでも24位に。映画レビューサイトでも軒並み高評価の嵐。
ある一点を除き、大成功を収めている「マリオムービー」。
そのある一点とは批評家からの評価だ。
だが、結果として大成功しているため、この映画のファン(マリオファン)からは「ざまあ」的な声が相次いでいる。
マリオの生みの親であり、映画の制作にも携わっている宮本茂氏も
「評論家の低評価な前評判もこの映画のヒットに繋がったと思う」
といった旨の発言をしている。
では一体なぜ、一般観客と批評家の間にこのような乖離が生まれたのだろうか。
賛否両論は「見方」で生まれる
私はその人の「映画の見方」にその原因があるように思う。
その見方とは主に2つ。
「映画」として観るか「世界」として観るかだ。
批評家は映画を「映画」として見ている。
今まで映画が創り上げてきた歴史や文化、文脈から見て、今見ている映像作品は「映画として」評価に値するものなのか。
そんな感じで映画を鑑賞している。
一方、一般の観客は映画を「世界」として見ている。
その世界に対して、
ワクワク、ハラハラ、ドキドキ、キラキラ、キュンキュン、ウキウキできるか。
つまり、「自分はその世界を受け入れられるかどうか」で映画を鑑賞している。
重要なのは、これが「人は必ずこのどちらかに分類される」といった話ではないということだ。
批評家の中にも「世界」という見方を持っているし、
一般観客の中にも「映画」としての見方を持っている。
映画や気分によってもその割合は変わってくるようにも思う。
自分の中に「映画」と「世界」という2つの見方を”どのような割合”でその映画を見るかが「映画の見方」だと私は考えている。
そう言った意味でいうと残念ながら「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」を「映画」という文脈で観たら決して優れた作品ではない。
なぜなら、
からだ。
無論、「映画とはこうあるべき」という押し付けをしたいわけではない。
ただ、マリオムービーが大好きな人でも上記の理由に反論できないはずだ。
もし言えたとしても、
「うるせー!」とか「そんなの関係ねー!」とか「面白きゃいんだよ!」とかそんなものだと思う。
ただ、この映画を「世界」として見るとサイコーの一言だ。
などなどなどなどなど。
取りこぼしてしまうほど大量な小ネタたちが94分という短さにぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
マリオやニンテンドーが好きならきっと「わたし、この世界、スキ!」と思わせてくれるはずだろう。
逆立場で賛否が分かれた作品「トイ・ストーリー4」
批評家と観客で意見が分かれた作品だと「トイ・ストーリー4」を思い出す。
この作品の賛否が大きく分かれた原因は、ストーリーのラスト「ウッディの決断」だ。
過去3作品はウッディの「おもちゃの使命は遊んでもらうこと」という信念をもとに作られてきた。「トイ・ストーリー2」なんかは特にそうだ。
トイ・ストーリーファンもそのウッディの信念を信じ、共感し、感動し、成長してきた。
ところが、4のラスト。ウッディの行った決断は、多くの観客を裏切った。
それは良い意味でも、悪い意味でも。
この展開は、トイ・ストーリーの生みの親であるジョン・ラセターが不祥事により解任されたことでできたものだという。
実はラセター案では、「ウッディの信念」は従来通り守られたラストを迎えるはずだったらしい。しかし、不祥事で解任されたラセター案を使うわけにもいかず、さらには今までのラセターやトイ・ストーリーから脱却した新たな「トイ・ストーリー」を作らなければならないと考えた製作陣は今までのトイ・ストーリー守ってきた「ウッディの信念」を乗り越える決断をしたのだ。
結果として、今までの「トイ・ストーリーの世界」が好きなトイ・ストーリーファンからは大不評。
一方、「いち映画」として見ている批評家からは「斬新なラスト」と大好評となった。
マリオムービーとは賛否の割合が逆ではあるが、本質的には同じなんだと思う。
「映画7:世界3」の私の意見
さて、
ここからが私の本題。
だいたい「映画7:世界3」くらいの割合で映画を観ている私からすると、
この映画「正直、ビミョー」だった。
先ほど書いた「サイコー」という言葉は嘘ではない。それは「世界」として見た時の話。
「映画」であることを重要視してしまう私からすると世界観以外は「粗が目立つ作品」だと思った。そう思った理由をまとめてみた。
マリオのコースのような一本道のストーリー
今の時代には珍しいくらいのまっすぐすぎるストーリーで、新鮮味を感じなかった。このストーリーなら「マリオ」でなくても良いのでは?と感じざるを得ない。
こういうことを言うと「そもそも原作のマリオにほぼストーリがないのだから」的なことを言われる気がするが、別にゲームのマリオにストーリーがないから、映画にもストーリーが必要ない理由にはならないと思う。
映画の中に裏切りや葛藤が仕込まれていたら「映画」的にも優れていただろう。
大量の小ネタがストーリーや展開に全く生かされない
これが私が一番気になった点だ。
一回見ただけでは把握しきれないほどの小ネタたちは、それ以上の働きをしてくれない。
一番最初に挙げたの批評家の意見、
は、決して間違った批評ではないように思う。
「これはあの作品のあれだ!」
といった単発的なカタルシスで終わってしまい、大量の小ネタたちが無駄になっているように感じた。
これらがストーリーや展開にもっと流用されるとより深いカタルシスを感じ、感動できたように思う。
もっと細かく言えば、
・ピーチ城にあったトレーニング用のアスレチックは何のためにあるの?
・キノコ王国ってキノコ生えてたっけ?
→これは自分が知らないだけ?
・銀行みたいにキノピオたちがコインブロックを叩いていたけど、銀行だとしたらどういうシステム?
→無限なの?だとしたら貨幣としての価値はあるの?インフレしない?
・「夢だった配管工」
→なぜ配管工に憧れ、なぜ目指した?
・当たり前にレインボーロードが出てきたけど、あれは一体何なのか?
など、
ゲームであれば特に気にしないはずの要素が、映画になり、ストーリーに乗っかって、スクリーンに映し出されると、「なんで?」「どうして?」「これ何?」と理由が欲しくなってしまう。そこには「いやいや笑、ゲーム原作だから」なんていうのは理由にならない。
優れた映画製作者はそういった疑問を観客に持たせないよう、奮闘しているのだから。
基準の映画「レゴ®︎ムービー」
突然だが、レゴ®︎ムービーという映画をご存知だろうか?
あのレゴ®︎を題材に作られたパッと見、子供向けのしょうもない映画かと思いきや、レゴ®︎が持つ
・知育玩具である
・見本に沿って組み立てる
・大人でもハマる
・レゴ®︎のプロもいる
などといった全て要素を入れ込み、完璧に整えられた素晴らしい脚本なのだ。
私はこの映画を人に勧めることが多く、
「『レゴ®︎で映画を作ってください』というお題に対して100点満点の解答」
だと紹介している。(作品の構造としてズルとも言えるけど)
あと、関係ないけど、この映画のオチが映画の中で1番好き。
(予告はあんまり面白そうじゃないけど、ぜひ見てみて。)
私はこの映画を観て以降、この作品を一つの基準として考えてしまう。
レゴ®︎ムービーを見たことある人なら私が挙げたマリオムービーで不満だった点を理解してくれるのではないだろうか。
「”2”」に期待したいこと
話を戻して、
マリオの映画を”最後まで”観た人ならほぼ確実に続編が作られることに気がついたはずだ。
ただ正直、私が思うに今作「マリオムービー」を褒めてる人でも、『2』が同じような小ネタいっぱいのストーリーが単純な映画では『1』で感じることのできたカタルシスを感じずに飽きてしまうように思う。
なので、私が次回作に欲しい要素をそこそこゲームが好きな私が提案させて欲しい。
・ワリオ
→次回作はこの二人が話の鍵になって欲しい
→ワリオの作ったゲームが意図せず暴走してしまい、
ワリオも含めてマリオファミリーみんなで世界の破滅を食い止める(敵はゲーム)
・マリオカートパートにコインの要素を入れ込む
・ヨッシーの踏ん張りジャンプによって、マリオが助かる←これはマスト
・クッパも味方に
最後に
色々、うるさく、長々と語ってしまったが、
私が気に入らなくても、みんなが気に入っていれば良いとは思う。
ただ、流石に「褒めすぎ」だし「批評家貶しすぎ」だと感じモヤモヤしてしまったので、こうやって私の思いと考えを書いてみた。
最後に、
最悪、私が気に入らなくてもいいから、次も大ヒットしてほしい。
でも本当は気にいる作品を作って欲しい。
お願いします。
宮本さん。