学歴を得るのも大変だ
何か政治家の学歴が随分マスコミに取り上げられて騒がれていますが。
やれ卒業証書はあるし当局も認めている。だが卒業のプロセスが正当だったかどうかに疑義がある、云々。
「それを言い出すとキリが無くね?」と思うのですが、自戒と反省を込めて、私の苦い思い出話を。
私はどう大目に見ても、真面目な学生ではありませんでした。サボってばかりで単位は落としまくり。大学四年生の年末頃です。私は取得した単位を数え始めました。それまでは怖くって、数えてすらいなかったのです。本当にただの、現実逃避でした。
四年生修了時の必要取得単位は80単位でしたが、12月末時点で40単位しかありませんでした。絶望的です。私は学生寮の天井を眺めながら、「親にどうやって切り出そうか?」、「今でさえ夜勤の工場勤務で授業料を稼ぎながら通っているのに、留年したら奨学金も打ち切られる。生活していけるだろうか?」、そんなことばかり考えておりました。
ふと私は思いつきました。一回死ぬ気でやってみよう。それで突破出来たら儲けものじゃないか。
私は12月末からの40単位挽回作戦を考え始めました。
ラッキーな時代でした。当時は「大学教職員便覧」というオレンジ色の冊子があって、全ての学部の全ての教職員の自宅住所と電話番号が記載されているのです。今では考えられません。
私は取り急ぎ、単位を落とした教官の何人かの自宅に電話をしてみました。
夕食時、帰宅時を狙って電話すると、子どもが電話口に出たりします。「ぞうさんよりも、きりんさんが好きでーす!」みたいな感じで、「もしもし、田中でーしゅ」とか言われます。
私は努めて明るいトーンで、「お父さんとお話がしたいんだけど、お父さんいるかなあー?」とか言います。
突然落ち着いた声に変わり、「はい、田中ですが。どういった御用件、どちら様でしょうか?」
「はい実は私、○○年度後期の先生の単位を落とした者ですが、こういう事情がありまして・・・」
「つきましては追試と言いますか、何か追加の課題を与えて頂くことで、単位を認めて頂くわけには参りませんでしょうか。」
4軒ほどに電話を入れ、ある手ごたえをつかみました。
教授の二人に一人は、何らかの救済措置を提示してくれる。二人に一人は、きっぱりと断る。
私の視野に、ひと筋の光明が見えました。いち授業は2単位です。教授の自宅40軒に電話を掛ければ、私は卒業できる。
一ケ月かけての40軒営業ローラー作戦が始まります。
「先生のいち単位だけが認められれば、私は卒業できるんです!」とかは全員に対して言います。
「そんなこと言われても、困ったな・・・」と言われます。これは「Yes」という返事です。
「No」という教授は、過去に幾人もの学生からの願いを断っているのです。「私はそういうのは認めない主義です。」前口上の途中、「実は私、先生の○○年度の・・・」を言い終わる前にきっぱりと断られます。
「困ったな」と逡巡する人は確たる否定主義が無いので、その時点で押せばYesです。
「特別課題で、こんなレポートをまとめて提出してください。」
「はい、明日までに!」
そんなやり取りが毎日続きます。
ヒドイ先生はこんなことを言って来ます。「今やっている実験のまとめで膨大なデータをコンピュータに打ち込むんだけど大変な作業量でね。手伝ってくれたら単位をあげる。」
「はい、徹夜で今日中にやります!」
徹夜の作業終了後に、その先生はノートの隅っこをピシリと破り、「この者の○○年前期の××単位を認める。(シャチハタ印)」とボールペンの汚い字で殴り書きします。
「これを教務課事務室に持って行って。」
うやうやしく頂きながらも内心、「えー、ノートの隅っこの切れ端?三角形の紙切れを教務課にですか?」
果たしてその三角形の紙片は、教務課に受理されました。
そんな一ヶ月を過ごし、私は必要単位を全て集めました。担当指導教官からは、「おまえ凄いな」、とその営業力?を褒められました。
さて、かといって全てのハードルをクリアしたわけではありません。私にはまだ「卒論」というハードルが立ちはだかっています。1月の全てを営業に費やし、2月になりました。卒論提出まであと一週間。その時点で私の卒論は、白紙状態です。
さすがに国立大学理系研究室の卒論なので、一週間で書き上がるものではありません。
追い詰められた私は、またもやイノベーティブな発想を生み出しました。「時間の概念を勝手に変えてやろう」。
残り一週間を三日ずつに分けることにしました。一日目を「朝」、二日目を「昼」、三日目を「夜」と呼び、夜には三時間だけ睡眠をとります。そのサイクルで「二日間」頑張り、最後の金曜を一気呵成に取り組めば、何とかなる。
一日の平均労働時間は約8時間だから、この理論でフル稼働すれば実質3倍、つまり一ヶ月の準備期間がある。何とかなる。
そして金曜の大詰め、提出期限の教務課事務所が閉まる午後4時前、私の作業はまだ完遂していませんでした。当時は学内の「計算機室」なる部屋にデスクトップパソコンが並んでいて、私はそこで論文を光速でタイピングし続けていました。
私の指導教官と大学院の先輩が部屋に上がってきました。
「おい、卒論はどうなっているんだ。」
「いえ、もう要綱は書き連ねているんですけど、改行の体裁が整っていなかったり、『図3に示す。』と書いてその『図3』が無かったり・・・」
「そんなことはどうでもいいんだ。今あるものを全部印刷しろ。」
指導教官は私からフロッピーを取上げ、中のものを全部印刷し始めます。
「時空を曲げた二日間作戦」で完全にグロッキーになり放心状態の私を尻目に、大学院の先輩がプリンターから出た紙を製本キットで束ね、テプラで体裁よく表紙のタイトル付けをしていきます。
目の前であれよあれよと出来上がっていくものは、いかにも「卒業論文」という感じのものでした。「オー、これは『卒業論文』っぽい!」と私はそれを眺めながら感心しています。
こうして私の戦いは終わりました。
私の人生の中で最も極限の瞬発力を出した期間だったと思います。小中学校でいつも夏休みの宿題を8月31日に取り組み始めていた私は、大学でも同じことをやりました。普段から普通にやれよ、という話ですが。
こんな私が役に立ったこともちょっとはあったようです。
時が経っていい大人になっての同窓会。当時の同期生、いまや大学の教官二人に同じことを言われました。「お前の話を学生にしているよ。」
何でも今の学生さんは、諦めが早いのだそうです。「先生、4単位足りないので、私は留年することにします。」とか。「4単位~!?おいちょっと待て、話を聞け。昔俺の同期にこんな奴がいてな・・・」とこんこんと教え諭すのだとか。
というわけで色々な皆様の思いやりの上に、今の私が成り立っています。
「いい加減な大学だ」、とお叱りを受けては私の恩師や出身組織に変な評判が立って迷惑をかけてしまうので具体名は伏せたつもりですが、私の他のnote記事を読むと大体類推できるかもしれません・・・
反省と反面教師となる意味合いも込めて。でも、プロセスはどうあろうと、人生を切り拓くその紙切れに必死になる期間もあるのじゃないか、という話でした。全く模範になりません。すみませんでした。
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