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アゴを外して病院に行く
私はアゴが外れるのが慢性的な癖になっています。
学生の頃、家に帰る電車の中であくびをしたらアゴを外してしまいました。
自分では治せないので医者を頼るしかありませんが、夜なので医院も閉まっています。当時私は文京区に住んでいたので、最寄りの救急病院は東大附属病院でした。
救急窓口の受付職員さんに説明を試みますが、何せアゴが外れています。
「フィファフェン、ファガガハフフェファンデフフェホ。
(すいません、アゴが外れたんですけど。)」
「ああそうですか、診察券か保険証はお持ちですか?」
「フィイフェ(いいえ)」
「ではこの所定用紙にご記入になって、あちらの③番の窓口の係員に提出
して頂けますか?」
「ファイ。」
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救急窓口というものを初めて利用しましたが、緊急だから優先対応、という雰囲気も無く、随分普通の手続きをさせられました。アゴは緊急性が低いと判断されたのでしょう。
記入が終わり、別の窓口に提出に行きます。
最初の窓口と提出先の③番窓口に互いのコミュニケーションがあるわけではないので、最初から説明のし直しです。
「フィファフェン、ファガガハフフェファンデフフェホ。」
用紙は受理されて何やら伝票がホッチキスされ、いよいよ診察の担当科フロアに行くことになりました。ここでも説明のやり直しです。
「フィファフェン、ファガガハフフェファンデフフェホ。」
こちらはアゴが外れているのだから、説明は一回で済ましてもらいたいものです。ようやく担当科で「お待ちください。」と言われて座って待つことになりました。
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ここまで各窓口の連携が無いことと、それから妙に、能面なそっけない対応。こちらはファガファガ言って小っ恥ずかしいのだから、「え~大変ですね、大丈夫ですか?w」くらい言ってくれればこちらも照れ笑いのひとつ「フォッフォッフォ」とでも言えるのに、そういう要素ゼロ。きっと夜間救急窓口ですから、あらゆる非常事態に慣れっこで、ちょっとやそっとのことではピクリともしないのでしょう。
さて、座って待ってから一時間くらい経過しました。お医者さんはまだ出てきません。アゴが外れると口が全開のままなので、口の中が乾いてそれが苦しくてしょうがないのです。
突然お医者さんとひとりの女性が現れました。女性は何やらとても深刻な顔をしています。
お医者さんが話し始めました。
「いま救急隊が蘇生措置を試みながらこちらに向かっています。10分ほどで着くと思われますが、容体は大変危険で、予断を許さない状況です。」
どうやら重篤患者が搬入されて来るようです。
とても重苦しい雰囲気が漂います。口全開で「ムンクの叫び」のような顔でやり取りを聞いている私は
「フィファフェン、ファゴフォフォウファ、フォウファヒファッカ(すみません、アゴの方はどうなりますか?)」と言い出せそうな雰囲気がありません。
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そのまま呆気にとられて2時間が経過しました。
奥のドアから看護師さんがヒョコッと顔を出し、
「あっ、アゴの方、どうぞ!」
とっても不機嫌な感じの先生が出てきました。きっと宿直で寝ていたところを起こされたんでしょう。
私の前のチェアに座って言います。
「自分で治せないの?」
・・・(心の声)ハイ、自分で治せないから救急窓口に来ました。
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先生が親指にガーゼを巻いて私の奥歯の方へ突っ込み、グッと後頭部に向かって押し下げると「カポッ」とはまりました。
「ハイおしまい。今度から自分で治す方法を練習してもらえるかなあ?」
超絶不機嫌です。
私は東大の理科二類に入学したので1,2年生の間は理科三類(医学部医学科)のみんなと同じクラスです。
東大医学部がどんなに才能溢れた集団で、どれだけの努力を重ねてきた人たちかを良く分かっています。
その東大医学部の先生が深夜に叩き起こされて、知らない人の口に手を突っ込んで「カポッ」。
天下の才能の全くのムダ使いと断言して差し支えないでしょう。
請求書には「顎関節脱臼徒手整復 一万××千円」と書かれていました。
私は「カポッ」の一瞬に漢字9文字の名前がつくのだ、ということに妙に感心しました。