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九連宝燈を九面待ちであがった

※注意 麻雀を知らない人には意味不明のおそれがあります。
 
一度、九連宝燈を九面待ちであがったことがありました。
あがったときはもう牌をパタンと倒すことすらできませんでした。
もう手が震えて、ガチャガチャと手牌を倒しました。
 
配牌にソウズが多いとは思っていましたが、ツモっていく度に手牌があれよあれよという間に本で見たことのある形になっていきます。

ソウズ九連宝燈 九面待ち

あの完璧な形で聴牌となり、1112345678999。聴牌してから二巡目の下家がローソウを出しました。
私の様子がおかしいので、麻雀が滅法強い私の友人は、「ソウズが場に無くて様子がおかしいから緑一色かと思ったよ。」と言います。
 
呆然としながら自動卓の中に牌を押し込んでいると、友人が突然、「ソウズ一個も捨ててなかったっけ?」と言います。
 
私はちょっとムカッとして言いました。「当たり前だろう。一個でも捨てて九面待ちだったらフリテンじゃないか。」そう言った所で私はハッと気付きました。
 
一個でも捨てたら九面待ちは成立しない。逆に言うと、「九連宝燈の九面待ち」は、あの完璧な形が配牌とツモ牌の中にそのままの形で仕込まれているときにしか成立しない。実力も何もなく、完全な運だけで実現する役満。いわば天和のようなものです。
 
「九連宝燈はあがると死ぬ」とか言われるのですが、その理由が良く分かりました。
聴牌してからあがるまでの二巡、心臓のバクバクと心理状態は尋常なものではありませんでした。
ここで誰かが3,900点とかであがって、九面待ちを誰に知らせることもなく牌を崩したとしたら、俺の人生はどうなってしまうのだろう?二度と立ち直れないかもしれない。
(あがれなかったときに、「こんな待ちだったんだけどね。」と手牌を開陳することは、ルール違反ではありませんがマナー違反、と言われます。)
 
その恐れに心震える結果、あがってもパタンと倒すことが出来ませんでした。アガリ牌が何でどこから出たかまで事細かに覚えているのも、よく生死線を彷徨った人が「全てがスローモーションに見えました」と言うのと同じ。
 
私の親父は子どもにロクでもない家訓を残す親でしたが、その一つが「九連宝燈はあがると死ぬ」でした。どうやら親父も昔あがったらしく、その日に運転していて貰い事故で車を当てられて全損したとのことでした。そのあとに神社にお祓いに行ったと言っていました。当時は小学生の私に何を話しているか分かりませんでしたが、息子がそれを繰り返すとは血は争えないものです。
 
父はどうやら単騎待ちだったようなのですが。そこでもうーむと唸ることがあって、九連宝燈の単騎は既にどれかの牌が被っているわけですから、純正九面待ちになるにはその被りを回避する、つまり少なくとも生涯に単騎九連宝燈を13回以上あがるほどの確率的価値があるはずです。実際にはもうちょっと複雑な計算になるかもしれませんが。
 
どんなに確率の低いことを達成してしまったのか。こんなことで人生最大の運を消費してしまった。何かほかでこの運を使えなかったのか。
 
親父から人生で伝えられた数少ない家訓、「九連宝燈はあがると死ぬ」があります。何か不吉なことが起こりはしないかと不安で仕方がありませんでした。
 
幸い何も起きませんでした。親父の貰い事故全損で、私の分も事前にまとめて先払いしてくれたのだろう、と親に感謝しています。

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