平成初期生まれはクウガの夢を見るか?
はじめに
私は90年前半、平成初期に生まれた。
これから書くお話は、私の心を捉えてはなさないヒーロー、仮面ライダーの話だ。去る4月20日に平成仮面ライダー20展に行ってきた。その感想を書こうと思ったのだが、せっかく平成最後の日なので、仮面ライダーを通して私の平成を振り返ることでそれに代えたい。最初に言っておくが、記憶を頼りに書いたエッセイなので、思うところも多いかもしれない。「大体分かった」くらいの気持ちで読んで欲しい。
子どもの頃に観たヒーロー、ヒロインは、スーパー戦隊(今とは違い、夕方にやっていたが)、倉田紗南、牧野つくし、シルバー王女、ジャンパーソン、ビーファイター、カブタック、ロボタック、などなど。どうも少女漫画原作のアニメは当時の私にはまだ早かったようで、私にとって、休日の朝の記憶といえば、いわゆるヒーローものだ。しかし、その中に、仮面ライダーはいない。それでも、私は仮面ライダーに特別な思いを持っている。
ライダー不在
仮面ライダークウガの放送開始は2000年。前作の仮面ライダーBLACKRXからは10年以上期間が空いており、そのエアーポケットの中で私は育った。
ノストラダムスの大予言が外れて、無事に2000年まで生き延びた私は、小学の中学年から高学年にさしかかる年だった。10歳前後の子どもたちは、仮面ライダーをはじめとする作品群のメインターゲットではない。だから、クウガを観ることなく育ってきた同世代も多いのではないだろうかと思う。残念ながら、私もリアルタイムでクウガを観ることは叶わなかった。
両親にとって、仮面ライダーを含む特撮は幼児から未就学児までが観るものという意識が強く、理解が得られなかったことが一番の理由だ。リビングの隣が両親の寝室であったことも影響した。休日の朝早くにテレビを観ていれば確実に両親が起き出してきて、不機嫌になる。まだ子どもだった私にはそれが何より怖かった。
一方で、思えば、仮面ライダーという存在を教えてくれたのも両親だった。ある日、縁日に出かけたとき、屋台で知らないヒーローのお面を見つけた。正確には怪人なのかヒーローなのかわからない触角が生えたお面という印象だったけれど。
それがV3だった。両親も詳しくなかったが、スナックを集める同級生の姿が印象的で、なんとなく自分たちの世代のヒーローとして認知していたのだった。だから、仮面ライダーが始まると知った時、両親のヒーローが自分のヒーローになるという不思議な高揚感を感じていたことを覚えている。
しかし、理解が得られないという理由から、観たい気持ちを抑えているしかなかった。たまにチャンネルを回すふりをして観るクウガはかっこよかったけれど、かっこいい以上のことは覚えていない。それよりも、画面に挿入されるハイビジョンというテロップだけが妙に頭に残っているのだった。
仮面ライダークウガから始まる平成仮面ライダーの歴史の始点に間違いなく立ち会うことができたはずなのに、それが叶わなかった。世の中の理不尽に直面して、自分の思う通りにいかないこともどんどん増えていく中で、少しずつこれから大人になるのだという予感を感じた。それは心細いことで、不安でもあった。
本当にヒーローが必要だったとき時、私の人生に仮面ライダーはいなかった。
カードゲームブームと龍騎
仮面ライダーへの周りの意識が変わったと感じたのは第3作目、仮面ライダー龍騎の頃だ。当時、クラスの男子たちの間では遊戯王のカードが空前のブームになっていて、「滅びのバーストストリーム!」はクラス内流行語大賞だった。
そんなカードゲームブームの中で、クラスの男子の一人が持ってきたのが、龍騎に出てくるライダーの一人、王蛇のカードデッキだった。
仮面ライダー龍騎は13人のライダーによるバトルロイヤルシステムで、最後の一人になるまで戦うという設定が斬新だった。最後の一人になったものの願いが叶うというルールがあり、それぞれのライダーは自分たちの願いを賭けて、ミラーワールドという鏡の中の世界にいるモンスターと契約し、力を得る。その力を使役するアイテムとしてカードが用いられ、カードデッキは変身アイテムも兼ねていた。余談だが、中には今までの仮面ライダー像、ヒーロー像とはかけ離れた所業を繰り返すライダーも複数いた。
そのうちの一人、脱獄犯の浅倉が変身するライダーが仮面ライダー王蛇だった。紫がかったカードデッキを持ち、粗雑なポーズで「変身!」と叫ぶ姿はヒーローのそれとは異なるものだったはずだが、クラスの男子の心には刺さったのだろう。いわゆる厨二と言うやつだ。小学生だったが。
デッキで変身するという情報だけが流れ出してクラスの男子も女子もにわかに龍騎への関心が高まった。初めて、仮面ライダーがクラスの中で市民権を得て、電話投票にも参加するほど、みんなが仮面ライダーに夢中になった。(オープニングを歌う松本梨香さんがポケモンのサトシの声優だったのも、追い風だった)
大きな流れに乗って、憧れの仮面ライダーを初めて堂々と観ることができるようになった私は、龍騎をリアルタイムで追いかけ、そのストーリーの深さに完全に魂がめざめた思いだった。「仮面ライダー」は今まで自分が応援し、勇気をもらっていたヒーローとはまるで違った。自分の背負っている罪に自覚的で、それでもなお戦うことを決めていた。はじめて深く共感し憧れるヒーローに出会えたと思った。
決して、今まで見てきたヒーロー、ヒロインのことが嫌いになった訳ではない。むしろ彼ら彼女らから受けてきた安心感は絶対だ。一方で、仮面ライダーは自分自身と戦うという側面が強く描かれていた。たとえ愛されなくても、人を愛し守ることができるか。自分が得た力をどう使うのか。仮面ライダーが提示してくれたのはまさにこれからの自分が生きることを考えるうえで必要な物語だった。
しかし、仮面ライダーとの蜜月関係もつかの間で、私はすぐに中学生になった。私は部活に命を燃やしていた。土日も練習があるので、朝から準備をして出かける。当然、仮面ライダーを観る時間はない。たまの休みでも、鍛えておく必要があった。後追いしようにも、直近の作品はなかなか新作から落ちずに、レンタルが難しい。財力もなく、疲れて体力もなかった。それに、今とは違い、一週間見逃すと、その週の放送でおきたことの情報を得る手段に乏しく、リアルタイムで観ることの重要性が高かった。かくして、中学三年間を経て、すっかり仮面ライダーとは疎遠になった。もしかしたら、二度と交わることはないのではと思うほどだった。
ライダー不在、再び
高校受験という人生の一大イベントを終えると、中学での反省を生かして、自分の時間がしっかりと取れるような文化系の活動に参加した。これからは自分の好きなものをたくさん吸収しようと意気込んでいた。
そこには誤算が待っていた。友人たちの話題は、アニメや古い映画の話ばかりで、休みの日には友達と話を合わせるために、近所のレンタルショップに行き、片っ端から名作を借り、見続ける羽目になったのだ。部活漬けだった私は友達が語る暗い感じの映画も観ていなければ、「鋼の錬金術師」や「ガンダムSEED」など、当時の小中学生が観ていたようなメジャーなアニメも観ていなかった。
そこまで芸術のスキルがあった訳ではない私にとっては、会話のつまずきで、友達づきあいができなくなることは死活問題だった。体育会系にせよ文化系にせよ、コミュニティのリーダーがいることには変わらない。
そのコミュニティの空気を変える力を私は持っていなかった。もっと強くてなんでもできる自分になりたいなんて大それたことを思うこともなかった。 だから、放課後の大半の時間は、憧れの過去ライダーのDVDを借りて全話見る時間より長く、話題合わせのための作品鑑賞に時間を使った。
最初のうちは本意ではなかったけれど、この高校時代があったおかげで、たくさんの良作に触れ、私の人生は豊かになった。私を見捨てず、腕を伸ばしてくれる友達(ダチ)にも出会えた。
もちろん、誰一人仮面ライダーの話をなどしないのだから、私も仮面ライダーが好きだと言い出せなかった。クラスのイケメン好きな女子がカブトの話をすることがあったが、それは水嶋ヒロへの関心であって、仮面ライダーへの関心ではなかった。
しかし、思いも寄らない風が吹いてくるのだった。
電王という衝撃
突然、友達の一人が「仮面ライダー、やばい」と言い出した。すっかり、仮面ライダー好きはレジスタンスだと思い込んでいた私は、その言葉が出るたびに、ファンをあぶり出す巧妙な罠のような、絵踏のような気持ちで怯えていたのだが、どうも友達は心底仮面ライダーに傾倒しているようだった。
そのきっかけこそ、仮面ライダー電王である。時の運行を守るデンライナー(電車)に乗って、時間遡行を繰り返す電王は、これまでの設定を踏襲しながらも特徴的な新しさを持って登場した。
特に、友人たちの心を捉えたのは、ライダーへの声優の起用だった。
未来からやってきた精神体であるイマジンは、現代の人間の望みを叶える代わりに契約を持ちかける。そして、契約を何らかの形で完了するとイマジンは実体となり、その人間をつくった一番想いの強い時間へ遡行し、現在と未来を変える破壊や凶行に出る。
基本的に、イマジンは俗にいう怪人だが、例外的に仮面ライダー側についたイマジンもいる。モモタロス、ウラタロス、キンタロス、リュウタロスである。(ほかにもいます)彼らの声をそれぞれ、関俊彦さん、遊佐浩二さん、てらそままさきさん、鈴村健一さんが担当していた。(その他にも豪華声優陣が)
アニメファンも垂涎のキャストである。特に、ガンダムSEEDを愛していた友達にとっては、ラウ・ル・クルーゼを担当していた関さんの起用がHITしたらしい。(ちなみに「シン・アスカもいるね」と言ったら、睨まれた)
友人たちの興味を引いた仮面ライダー電王は2号ライダーであるゼロノス・桜井侑斗の切ないストーリーも相まって、友人を沼に沈めた(褒め言葉です)。そして、続くキバの昼ドラさながらの恋愛ドラマにも、みんながときめき、さらに重症化する友達もいた(褒め言葉です)
ようやく仮面ライダーを子どもが観るヒーローものとしてだけではなく、大人も楽しめるドラマとして観ることが一般化されたような気がした。大げさにいえば、僕たち私たちのドラマになった。
そして、とうとう私は仮面ライダー好きを公言できるようになった。そのタイミングでディケイドが放送され、平成ライダーが総括されたことも幸運だった。その後、時代は平成2期へと突入していく。(2期のことは、気が向けば書きます)
余談だが、昨年公開された平成ジェネレーションズFOREVERで野上良太郎が10年ぶりに出てきた時は、万感胸に迫り、大変感動した。そして、アナザーライダーの一人がクウガだったことも本当に胸に刺さった。私は、あの遺跡のシーンをリアルタイムでは観れなかった。それを追体験させてくれたあの映画には感謝でいっぱいだ。
最後に:平成仮面ライダー20展の感想に代えて
長くなったが、私はこうした紆余曲折があって、ようやく仮面ライダーのファンを名乗ることができた。リアルタイムに堂々と見続けることができなかった私は、この記事に関心を持ってくださった方にとっては、きっと真っ当なファンとは呼べないのかもしれない。そんな私にとっても仮面ライダーは、平成を共に歩んできた相棒であり、石ノ森先生が私にくれた宝物だ。
誰にだって最後の希望といえる存在がいる。私にとってはそれが仮面ライダーだ。そして仲間もたくさんいるのだと、握手&撮影会の列に並ぶ、くしゃっとした顔で夢中になっているみんなと列の先にいるクウガを見て、そう思った。
平成も終わり、新しい時代が始まる今、オープニングの歌詞が去来する。
”からっぽの星、時代をゼロから始めよう
伝説は塗り替えるもの 今、アクセルを解き放て!”
(田中昌之「仮面ライダークウガ!」(作詞:藤林聖子,作曲:佐橋俊彦)より引用)
まさしくいまはそんな気分だ。
ノーコンティニューで読んでくださってありがとうございました。
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