夏子 kakoの庭 茶柱 2
今週は月末締めでお得意先への注文伝票の整理と請求書の作成で経理課は忙しい。年間契約をしている取引先では納入するロットが月末に集中するのでなかなか請求書が締められない。
今週の銀行に午前と午後の2回行く役割は私の担当になっている。
「課長、銀行に行ってまいります」
「西原さん、よろしく頼むよ」
いつもの大きな声で見送られると安心する。
午前11時頃に私は銀行に出かけた。月末だと銀行でも待つ時間があるので30~40分くらいかかる。
わたしが出かけた後の職場の出来事は後々になって風の便りで聞くまでは誰もそんなことがあったなんておくびにも出さなかった。
会社の経理課では男性2人と、岸さんと私の4人で仕事をしている。隣の総務課、その向こうには営業庶務課があって皆忙しそうに電卓をたたく音や、請求書をめくる音、パソコンに入力して請求書を印刷する音、電話に応対する声など月末らしい慌ただしさがある。
課長の加山さんは包み隠しがなくて、声もいつも大きい。経理課だけでなくフロアのどこにいても聞こえるくらいで、誰もが馴染んでしまっている。課長のお子さんが今朝ぐずっていたとか、昨日の晩ご飯のおかずのハンバーグがおいしかったとか、次の日曜日にはお子さんのサッカーの試合があるなど小出しの情報が自然に記憶に残ってしまう。
ふと課長が大きな声で言った。
「岸さん、ちょっと来てくれないか」
岸さんが少し戸惑った表情を一瞬みせた。経理課の人たちも他の課の人たちも何かあったのか、という表情を見えないように顔は書類の方を向いていても、でも耳は岸さんや課長の方に向いている。
岸さんが少しばかり早足で向かった。課長席の前に行くと、こちらから見ると少し右側、課長からは正面よりもすこしだけ左側に立って、右手は左手の甲に添えた。指先まで少し緊張しているのが分かる。
「岸くん、仕事中忙しいのに悪いな。申し訳ないけど、熱い濃いお茶一杯いれてくれないか」
仕事はしていても、フロアの全員が事のなりゆきにはついていけていないのが分かる。でも流石に岸さんだ。明るくことばを返した。
「かしこまりました課長。少々お待ちください」
凛と背筋をのばして給湯室に向かう岸さんの姿は、誰が見てもフランスのパリコレの舞台のように落ち着いていてオーラがあって、経理課の3人と、課長の奥に座っている部長までもが目で追いかけてしまった。
「課長、おまたせいたしました。どうぞ粗茶でございます」
仕事中にお茶を出すのに社内ではどのようにことばを添えればいいのか分からないので、岸さんのように、こういう時は堂々と言った方が自然に見える。
「岸さん、悪いな、ありがとう。俺は岸さんが入れてくれるお茶がいつか飲みたかったんだ。熱くて少し濃い目のお茶が急に飲みたくなったんだ。昨日、岸さんの実家の干し柿をいただいて給湯室で食べていたら、ふと、昔みんなで仕事の手を休めてお茶を飲んでいたころを思い出したんだ。今では時代錯誤でこんなことはハラスメントだけどな」
あいかわらず、独り言なのか岸さんに言っているのか分からなかった、皆がその内容を聞いていた。岸さんが自分の机に戻りかけようと歩きかけたときに一言、岸さんだけに聞こえるように話しかけた。
「岸さん、西原さん今銀行にでかけているので話すが、彼女仕事や会社に慣れてきたか?昼でも仕事中でも物静かだし、少し心配で。岸さん、声をかけてやってくれよな。頼んだよ」
経理課の人たちも他の課の人たちも、ことの成り行きに何かしら少し胸が熱くなった。課長も地でいっているのだろうが、あえてみんなに聞こえるように話しているようにも思えないし、普段もあけっぴろげだし、せんじ詰めれば教育係を岸さんに公然とお願いして話題にしたのだ。今では女子社員にお茶を入れることを求めるなんてハラスメントの極致だし、、、でも西原さんをいつも気にかけて、そのことを言いたかったのかと誰もが思った。
岸さんにお茶を入れてもらうとおいしんだ、と言葉に出して言える課長は課長らしい。フロアの誰からも信頼されていることが分かる。岸さん自身もきっと心の中に小さな灯がともったと見えない光を感じた。
何でもない10分ほどのささやかな出来事だった。
私は銀行から戻って通帳と小切手、手形が入ったバッグを課長席に持って行った。
「課長、ただいま戻りました。少し混んでいて15分ほど待たされました」
「あー、ありがとう。月末締めで今週はいそがしいけど、よろしく頼むよ」
「はい、かしこまりました」
私は、お昼前でも仕事が片付かない他の人たちの仕事をする音を聞きながら自分の席にもどった。
課長が、ふと小さな声で言った。
「オー、茶柱が立ってるぞ」
皆がうなづいてるような雰囲気だったので不思議に思った。