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アルバムに刻まれる「瞳」− Ditto の鹿がみている世界
Ditto MVはミュージックビデオなのでなんとなく歌や曲のイメージを豊かにする洒落た映像かと思ったら、ハンディタイプの一昔前の世代のビデオで撮った断片の記憶や記録のデータがパッチワークのようにつながれてストーリー性のある映画のように編集されている。Dittoのリズムと歌詞に合わせ映画のようなストーリー仕立てだ。短編映画のようだ。それも SideA と SideB に分かれている。韻を踏んだ切ないハスキーボイスのリズムに映像の数々がこちらの記憶の小さな引き出しを開けながら走馬灯のように流れていく。
「歌は世につれ世は歌につれ」と名調子の司会をイントロに乗せて懐かしの名曲に過ぎ去った時間を重ね合わせてこの世とあの世を行き来する。世代間格差とはよく言ったものでアイドルの誕生やスターは仕掛けられた風潮に乗りつつも自然発生的にわき起こる。その世代の代表として世の中の期待を一身に背負ってスターはタレント性を武器にして時代が創り上げていく偶像となっていく。NewJeansもアイドルとして誕生し30年後には画期的なスターとして記憶に残っていく。
このMVは不思議な映像である。Dittoの曲紹介のビデオではあるが、見ている側が自分の記憶の断片を相乗させるしかけがある。自分自身で撮影しているような断片の連続した編集、高校生活のあたかも自分がそこにいてもおかしくないような近しさ、台本の棒読みではないような自然な会話。そして意味ありげな〝謎めいた〟場面の挿入。
明治安田生命のCMの演出効果でも有名な表現手法だがどんな写真でもその1枚1枚があの歌やメロディーに相乗すると切ない思い出の雰囲気として条件反射的に想起される。曲や歌などが独立し確立している表現の効果にさらに別の要素を掛け合わせる化学反応の実験のようだ。見る側の記憶や思いがその触媒によって引き出される。
通り過ぎる断片の映像は絶対的な当時の現実の真実の記録であるが、その一瞬のみ取り上げることで記憶として残っている残像が波に飲み込まれていくように洗い出されていく。自分で辿った時間や記憶でも他人のことのように思えてしまう脆弱性が露呈して、現実の時間と過去の膨大なその瞬間瞬間の記憶の断片の時間が重層化して地層のように積み重なっていく。喧噪の中の静寂を感じざるを得ない感覚が自分と他者を隔てる。たった一枚のアルバムの写真に往時の思い出や記憶を虚飾化して閉じ込めることはなくなり、反面膨大な記録がただ永遠に増え続ける。自分の中でも現在の自分と過去のその瞬間瞬間の自分が折り重なって脳の中に吸い込まれるように記憶のブラックホールに飲み込まれていく。90年代以降デジタル記録の洪水が現実の時間を相対的に飲み込んで、確かに生きているという実感が薄れていき年齢をも上手く重ねることができないという虚無感が蔓延している。寝ているのか起きているのか。ソファーに寝ていて起きてみてもその世界が夢の中のように感じられて万華鏡の中の迷路に迷い込んだように時間が過ぎていく。
NewJeans Ditto MVは神話を作り出す土俵を二編に込めてファンのMV考察にもかがり火をともし話題が拡がって神話が次々に生まれてくる。modelpress編集部の批評が詳しい。「主人公の少女の名が“バン・ヒス”で、NewJeansファンクラブ名“Bunnies”から「Ditto」は“ファンのための楽曲”、MVの主人公はNewJeansのファン“Bunnies”を表現している」またMV「sideB」では「時間が経ってもビデオの中で鮮明に生き続けるNewJeansはアイドルとファンの関係」「韓国で爆発的な人気を誇った岩井俊二監督の映画『Love Letter』や、人気ホラー映画シリーズ『女校怪談』等を彷彿とさせる場面があることから『NewJeansはこの世を去った存在として描かれているのでは…』など意味深な考察も見受けられる」
ミュージックビデオの映像作品が音楽とコラボレーションして世の中に送り出される手法がファンの琴線に触れて、参加型エンターテインメントのひな形として世の中の偶像が肥大化していく。かつて山口百恵が人々の記憶の中で「観音様」として昇華していった記憶がよみがえったように。
鹿の瞳
SideA SideBの締めくくりに鹿の瞳のカットが使われている。人間を動物の一種としての分類へと視点の軸をずらしていく。生物として動物として人間の記憶の深層を直感させ輪廻転生を想起させる。鹿はギリシャ神話では月の女神アルテミスの水浴びを見たアクタイオーンが鹿に姿を変えられて登場した。ファンタジー小説の万城目学『鹿男あおによし』でも有名でとくにこの2編の映像にはそれのテレビ版の一場面を敢えて全く同じく再生したようにも見える。
古代中国では、鹿は神の乗り物といわれ、聖なるものと信じられてきた。日本でも鹿は延命長寿を表すといわれる。奈良の春日大社や広島の厳島(いつくしま)神社では神鹿(しんろく)と呼ばれ、神の使いとして崇められている。奈良の鹿は、春日大社の社伝によると、768年平城京鎮護のため、鹿島神宮(茨城県)の武甕槌命(たけみかづちのみこと)が、白鹿の背に乗り御蓋山(みかさやま)に奉遷されたという伝説により、奈良のシカを「神鹿(しんろく)」として神聖視し、保護敬愛されたことで「神の使い」と言われている。
ヒトとシカは、歴史上いったいどのような関係を保ってきたのか。旧石器時代と縄文時代は、狩猟採集の生活を行っていたと考えられ、シカも当然狩猟の対象だった。シカの角は固くて丈夫なため、石器づくりのハンマーや骨角器と呼ばれる釣針やヤス・モリなどの漁撈具として活用された。弥生時代になると中国大陸から稲作が伝わって来ることで、ヒトの移動や文化も中国や朝鮮半島の影響を強く受けるようになる。こういった文化の変化にあわせて、新たな信仰の対象としてシカが注目されるようになった。土器や銅鐸などにシカの絵がたくさん描かれるようになった。現在も様々な場所で、神事として「鹿の角切り」が行われているが、その主な目的は五穀豊穣を祈ったものが多い。シカの角は秋に落ちて春先に生え代わるという特徴を持ちその様子は発芽から収穫までの稲の成長と同じと考えられていた。狩猟の対象から、神事の神様へ。弥生人も現代人と同じ農耕民なのでシカ信仰の原点は弥生時代まで遡ることができる。
アジアの動物の神格化では、インドでは牛は最も崇拝されている動物であ る。牛はすべてのものを創造する大地を表すもの とされる。ヒンズー教によればブラーフマー神が バラモンと牛を同時に創造し、バラモンは儀式を 行い、牛はその儀式に必要なものを供給する関係 にあるととかれている。従って牛のこの行為をヒ ンズーは崇め尊敬する。 モニエル・ウイリアムスはインドの牛について 次のように述べている。「牛は動物の中で最も神 聖なものである。牛の各部分に神が宿っている。 牛の毛は一本一本神聖で、牛の排泄物は尊ばれる。 極少量といえども不純なものとして捨てられる ことはない。排泄される水は最も神聖なものとし て、すべての罪を清めるものとされる。牛糞は神 聖なものである。牛糞を塗ったところは清浄なも のとされる。この神聖なものを焼いてできた灰は、 すべてのものを清めるばかりでなく、罪人を聖人 にかえるためにも用いられる神聖なものである」 と言っている。 岐阜市立女子短期大学研究紀要第52輯(2003年3月) 67 Abstract Abstract インドにおける畜産と宗教・文化の影響 神谷 信明
動物では十二支は日本・中国のほかに、韓国・台湾・チベット・タイ・ベトナム・ロシア・モンゴルなど、他の国々にも干支が普及している。それぞれに国や地域で、歴史と生活の中に根づいて位置づけられ語り継がれている。
なぜこのDittoMV2編にはわかりやすい映像と謎めいた場面があるのか。そのことが演出効果で偶像を作り上げる手法でもありスターがスターとして手の届かないところに向かう一過程の触媒である。偶像崇拝の域に達すると一挙手一投足がすべて話題になるので髪型を変えるとかどんな服装をしているかなど次々のプロモーションビデオには話題の種がふりまかれる。祭りの高揚感とも似ている。どのような潮流になろうとも話題の焦点を提供し続けて享受し参加することで自分の存在、アイデンティーを確立したいという欲求をみたして新たな潮流が渦巻いていく。
生き物として人間を捉えると衣食住の根源に参画しなくても生活できるのが今の時代の我々で、個人が尊重されない、また尊重する相手も見えづらいという切なさが蔓延している。生と死が現実から遠ざかっている。死が身近にないと生も淡々としてくる。助産婦さんに見守られてタライにお湯を沸かして自宅で出産するなんて今では到底ありえない。余命わずかで自宅でおろおろしながら最期を看取るなんて田舎でも一部しか経験しない。自分の住処を自分の手で作るなんて時間も体力も気力も発想もない。食べ物もお金で買う以外は手段がない。身近に緊張感のある受け入れなくてはならない細かな出来事が余りにも少ない。
このように生きることの根源が断ち切られ、自分からも遠ざかる日々の生活の中では自分自身の存在価値が薄らいでいく。個人がこれほど尊重されにくく尊重できない構造的な落とし穴にはまっている現状を冷静に捉えるとNewJeansへの期待が逆に見えてくる。現在も過去も未来も確かな足取りで歩んでいく時間が持てなくなるのを防ぐ生理的な防衛反応がそうさせている。アバターやゲームにのめり込むような感覚だ。
そうした中で等身大に過去の自分と照らし合わせ、5人のうち誰かと自分を結び付け、歌って踊って生きていることを実感しながらユニットに個人としてアバターとして意識の上で参加できる仕掛けがある。ダニエル、ハニ、ヘリン、へイン、ミンジ。髪型を変えて一人ひとり個性豊かに演じたり、5人とも見分けがつかないようにユニットとして融合したり変幻自在のスターをその場で撮影するファン個人といつでも対峙している。アバターとして参加できる四次元の世界でファンの一人として同時代を生きていく。VHSでしか再生できないビデオカメラは粉々に砕けたが、また今では誰一人手にしないガラケーは別の世界で着信音だけが鳴り続ける。心の中のファインダーで5人を同じ場所で撮影するファンの一人としてその場にいようが居まいがフォロワーとして力をもらって果てしない一歩を永遠に向かって踏み出していく。