近い国、遠い国
家族や親せき友人知人。日常生活で直接関係のある人がいる場合、肌感覚でその国をとても近くに感じる。また訪ねたことがあったり暮らしたことがあったり実際には行ったことがなくても、情報として見聞きしたことがある場所だと「近い」と感じるのだろう。逆に「遠い」と感じるのは積極的にイヤだと背を向ける要因もあるし、自分には無関心で縁遠いまま考えにも及ばないということも一因になっている。そんなに大上段に構えなくともふとしたきっかけですれ違ったり縁があったりということは日常茶飯の出来事だ。
昔は地図は最高機密でトップシークレットであった。江戸時代には禁制であった。今や当たり前にどこでも簡単に手に入ってしまう。入手しやすいから地図のありがたさに鈍感になるほどだ。Google mapsはとても便利で、怖いほど便利で、地球上であれば一発検索ができてしまう。自宅の建物には肖像権はあるのかないのか。自分の家の前の道から360°映像も見ることができる。なんでもかんでも記録してしまえ!という昨今ではある。誰でも検索出来てしまうので個人情報もへったくれもありゃしないと感じてしまうが。規制がないからなんでもありなのかどうかは分からないし深追いする興味もことさらないが、それにしてもとにかく疲れる原因の一つであることには違いない。何はともあれ情報が多いと近しく、ないと縁遠くなるのは自明の理か。
物理的な位置関係、場所や食べ物、店や乗り物、観光地...、とくにインターネットの急速な普及で情報量が莫大に積み重なって自分と対象との距離感をはかる「モノサシ」は複雑怪奇なものになってしまった。その中でアジアは東南アジアはとても近い国でありながら遠い国であり、情報が入るにつれて遠い国から近くの国に思えてきて、時間の経過とともに霧や靄もだんだん晴れてきた。多言語多民族多文化社会。今はスマホで音声同時通訳や文字起こしも考えなしにできるのでごちゃ混ぜの「散らかし系」イズムに慣れさえすれば欧米とアジアが偏りなく見えてくる。欧米に憧れて追いつき追い越せという黒船の時代は遥か化石となった。隣の芝生は青く見えると想像し羨やむことなしに自分の感性で触れ自分らしい表現が容易にできるようになってきた。
アジアは自分にとって「近い国」なのか「遠い国」なのか。
いまテーブルの上には 2冊の雑誌と本と新聞がある。『POPEYE 』2024.8「僕の熱帯アジアひとり旅」と『アジア映画で<世界>を見る』作品社。新聞は信濃毎日新聞のデジタル版だ。
視界の中にこれらがあるだけで自分の中ではアジアは関心が向かなかった領域からすさまじく手に取ることができるかもしれないと錯覚してしまうほど「近しい」領域になった気がしている。未知の国は幻を抱かせ「地球の歩き方」やTV番組の「こんなところに日本人」はいかに意識の上でのボーダレスに貢献したことか。こうした風潮になびいて波に乗って漂流しようとする安直な日本人がここに一人いる。自分だ。という感覚だ。ピーマンの食わず嫌いを一歩抜け出せたような感覚ともいうべきか。
「近い国、遠い国」。このようなステレオタイプの話題には玉虫色の答えが浮かんでくる。そしてよく似合う。その時の一つひとつの事柄に対して「近い」場合もあり「遠い」場合もあると。物理的に近くても精神的には遥か彼方の場合もあるしまた物理的には遠くとも精神的にはとても近しい場合もあるのだと。
子育てでは家内と分担しお稽古事では音楽を担当した。子ども二人の芸事は異色のバイオリンの先生に師事し土曜日に送迎をしていたが、レッスン合間の閑話が今では貴重な時間であった。齢を重ねた先生に師事して、下の子をそれこそおんぶ紐で抱えて上の子は分数バイオリン4分の1の濃密な時期だった。先生は中国に従軍した際の話をしてくれた。身体が頑健ではなかったため事務方や食材買い出しなど地元の人たちと接点が多い部隊所属だったそうだ。国と国は反発し一触即発だが市場への買い出しで直接に出会う市井の人たちは同胞で日々の生活をおくる普通の隣人であったのだと。飄々としている印象だった先生の奥底にある、とにかくも重い封印された記憶を垣間見た。
アジアを近い国として意識するようになったのは、たくさんの情報が様々な角度から入ってきて等身大でも理解でき自分の勝手な感覚でダメ出しができる話題が身近にたくさんある状況になったことが背景にある。
相性が悪いと思い込み話もしたくないし顔も見たくないと思いこんでいても、何がそうさせているのかを分析し突き詰めていくと、また自分の感性が何に頼ってそうさせているのかを辿って取り払っていくと、最終的に誰がその判断をしているのか、なぜ自分がその判断に寄り添ったり反駁しているのか自分自身の考えの根拠の脆弱さが露呈してくる。だんだんと冷静に世の中が見えてくる。
物理的な距離と移動時間のインバランス。精神的な距離感。世界が急速に狭くなって海に囲まれた鎖国の時代はとうに過ぎ、近くのコンビニに行けば優秀で日本語堪能なアジアンのレジが当たり前の昨今だ。音楽や雑誌、食べ物などいくらでも生活圏にアジアはあるし日帰り買い物焼肉ツアーなど遠足感覚で安価でアジア各地に出かけることもできる。
このような環境変化がとくに1990年代から当たり前になってその時代を生きてきた世代が20代30代40代...となっていく。おそらく70代80代90代以上とのイメージギャップは時とともに昭和時代大正時代と歴史の中に押し込められていくのだろう。今の時代に「降る雪や 明治は遠く なりにけり」を共通のイメージとして理解することはとうてい期待できない。同じことがアジア観にも投影できる。世代間格差がとても顕著なテーマが「アジア」と「日本」なのであろう。
東京を離れて30年以上信州に暮らしている。ローカルな「信濃毎日新聞」が今では馴染みで定番の情報源である。信州らしい生真面目で頑なな紙面が信州気質を物語る。生活に近い最も近い部分で日本とアジアがとらえられている。身近な生活圏には上田飛行場跡地があったり大本営移転計画の痕跡が辿れたり、また満州開拓との接点や誰にも語れぬ重すぎる過去を背負っている人々や土地の記憶が渦巻いている。じっと耐えていかないと読み進むことのできない特集記事が多いのも特徴か。改めて積極的に話題には自分からはしないテーマが身近に渦巻いている。
テーブルの上の二冊とともにデジタル配信で信濃毎日新聞の朝刊の文字をていねいに眺めると「満蒙開拓青少年義勇軍」の記事が詳しく紙面に特集されている。紙面全体の広告面を除いた記事面積あたりの比率は意外と多く割り当てている。また紙面を見た時の優先度が高いスペースを充てている。編集方針なのであろう。新聞も学校教育も過去には積極的に加担していたという事実があって誰も口にはしないが誰もが向き合っている重い事実で、その負い目が根底にあるのですごく気負っているような記事にも映る。また別の日の特集では小中学生の記者による集団疎開の記事が詳しい。東京の養護学校から上山田温泉への4年間にも亘る疎開の実録だ。直接自分には接点がなくても前の世代の連関でつながっている土地の記憶や封印された声の記憶は信州に生きる一人として当然自分自身も責任を負わなければならない。老若男女それぞれの生活と戦争の接点は今の混沌とした世界の頑なで複雑な多重のスタンダードと輻輳する。1985年ワインゼッカー大統領が連邦議会で行ったドイツ敗戦40周年にあたる演説「過去に目を閉ざすものは、現在にも盲目になる」を腹の底にだれもがすえて生きている。声高には誰も話題にはしない。誰一人声には出さないがかたく閉ざされた消すことのできない事実や経験や記憶が眠っている。氷山は海面より上は小さくとも水面下の見えない山が全体を支えているように。アジアは近いのか遠いのか。素直に話題の土俵にはできない、またさせない目には見えない力が働いている。信州から眺めるとアジアは時間の篩がないと積極的には対峙することには時間がかかる対象であるように映る。
土地のもつ記憶をたどると近くの田圃の裏手には4世紀の信州最古の方墳「大蔵京」があり広域周辺には遥か昔の生活の記録が地層の中に眠っている。大陸からの影響も色濃くのこり、先の大戦はとの問いには「第二次世界大戦」ではない「応仁の乱」と反応する京都の歴史感覚よりもっと古い石器や縄文・弥生時代からの記憶が宿っている土地柄だ。黒曜石や勾玉、土器や陶器、瓦や住居跡、合戦場や城の跡、海に囲まれているとはいえ物理的に近い大陸の影響は数多折り重なっている。人との共同生活やいさかいなど史実に記録されていない誰一人語り継げない膨大な時間の経過を今の我々が継いでいる。「遠い国、近い国」なんて一代ではどんなに長くても100年にも満たない齢の人間が思うことなどたかだか知れている。どれだけその国や地域を背負って生きてきた人たちと直接に接したか、一つでも二つでも見聞きしたのか、それで一体何が分かったのか。
ボーダレスの時代となってアジアに限らずどの国や地域でもまたどんな言葉や人種の人であっても共生する時代になった。急速にしかし反面ゆるやかに時間の針は回り続けている。その渦の中で人々の生活が淡々と過ぎていく。肩肘をはらずとも大上段に構えずとも食事でも映画や音楽でも流行やトレンドはアジアの各地から風にのって流れてくる。アジアの話題はことさら最近増えてきているように感じる。通り過ぎる人もボーダレスになっている。働いて暮らす人たちがつくるコミュニティーでは各地に異国の社会が点在する。排除するのか受け入れるのか。人任せに規制を待つ無関心ではいられない。このような正解はない事象に慣れていくことで自分自身の判断が肝要だ。慣れてしまえば意外とどっしりと図太く生活をおくることができる。さて映画大国のアジアの映画を逍遥するか。
地理的な大陸区分と州区分でアジアや東南アジアを位置づける。また分類や区分では「東洋と西洋」が二分類として区分けされる時もあるし、多岐な分別の二種として利用することもある。また東洋医学や西洋医学、東洋哲学や西洋哲学など対象を絞って西洋や東洋を冠すると何かしらがそこから見えてくる。西洋音楽と東洋音楽の区分の場合では西洋音楽と邦楽と対象を限定しないと土俵にはまだあげられない。西洋に対する東洋と二分類して対立させる必要はなく、対峙して併立した独立した概念として優劣なくパラレルに複数の区分けが存在するものとして捉えると視座がより安定し安心できる。
区分し分類し鳥瞰俯瞰してなんとなく分かったつもりになったり判断停止に走ることなく、だからこそ自分自身がアイデンティティを確立して心地よく暮らしやすい環境を見出し見つける手段として、積極的に様々な切り口でアジアへの関心に目が注がれている。どこかで聞いたことのあるフレーズに倣うと西洋に憧れるのはやめてみましょうということか。追いつき追い越せという勇ましい文明開花は遥か昔の線香花火の一瞬に輝く灼熱の光であった。
情報を入手するために本を探す場合には最近は書店を訪ねるよりはamazonで検索したりメルカリに頼ることが多くなった。店頭にはまず置かない絶版や古書に眠っているものを探そうとしているせいだろう。Book Offもネット検索で思わぬ逸品を探し出すことができる。
古書店から入手した前川健一『アジアの路上で溜息ひとつ』講談社文庫をポケットに入れブラブラと過ごす日にページを辿る。日々の旅日記風の記録で本当はフルコース三昧で空腹を満たしたいのに、たまたま出逢った老人のぜひメシをおごるから付き合えという稀有な路地裏の食堂の出来事が語られる。その場面がとても印象に残る。もうすでに忘れ去られた感のある相い対する人との距離感を保つ中庸の場や空間「縁側」で過ごすような時間の居心地の良さを地でいくようなひと時の描写だ。後々にハッと気づいて振り返ってみると、きっとかの老人はじつは仙人だったかもしれないという邂逅の出来事であったかもしれないと記憶の引き出しには残るのだろう。
ポストに宅配が届く。札幌の古書店からamzon経由で手配した『躍動する東南アジア映画』論創社だ。アピチャッポンを逍遥する。ページを辿りながら天動説と地動説の双方の軸で世の中を見わたせるようになってきた自分がいるような気がしてきた。
視点が話題を追うように、NHK Eテレ「最後の講義」8/28 の放映があった。政治学者の姜尚中 Kang Sang-Jung さんが故郷熊本で20人の若者に対しアジアについて考える後世へのメッセージを伝えた。
極東や近東というイギリスから見たアジアではアイデンティティを確立できない。ゆえにアジアについて何も知らないことから出発してアジアからアジアを捉え直していく。日本のそしてアジアの経済成長と文化の発展を見据えてみると説く。
終の住処を熊本におき日本とアジアのゲートウェイ、橋渡しをしたいとの思いがある。歴史の中から江戸時代対馬藩の儒学者で朝鮮通信使との外交実務を担当した雨森芳洲を紹介した。李氏朝鮮との平和的な国交の時代の実現は相手を尊重し「欺かず、争わず、誠心誠意相手と向き合う」ことが基底にあったそうだ。この史実は今にメッセージを送る。
「国を通じて人を見るんじゃなくて人を通じて国を考えていく」