文学フリマ東京39奇想曲
文学フリーマーケット東京39が12月1日に開催される。年々人気がでで今回はビッグサイトが会場だが、それでも収容しきれないほどの申し込みがあったそうだ。
日本各地で開催される「文フリ」。今年の東京39は第一期申し込みで1,500ブースが先着順に受け付けられ、それ以降は二次受付で2,400ブースを予定していたそうだ。締め切りが先日8月27日。主催者のまとめでは過去の開催実績からみた予想をはるかに上回る3,000ブース近くの申し込みになった。
今回自分自身が批評誌『第三批評』創刊号に参画しておりこの文フリにあわせた初号発刊が企画されているためとにかく関心がある。
このように申し込みが多くなった現象は様々な原因追及の想像の余地を拡げてくれる。どのような視点からでも話題にすることができるように感じる。それだけ関心や作品をつくるエネルギーが集中していることを意味している。まるでカプッチオ・奇想曲のようだ。すでに起こったことや進行形の事象に対しあれこれ言うことはたやすく安直に波に乗ることができるし、この磁場に引き寄せられたいという力も多分に働いている。真っ先に思い浮かんだことは自分自身にあてはめて今までは興味や関心が向かなかったのに今では関心があるという脚下の照顧だ。自分と同じように書きたくなった類がいるということだ。CDやアルバムや書籍でミリオンセラーへ向かう現象とも似ているが、まず最初はフォロワーや同世代などから売れ出して話題になって、そこを核として拡がり別世代や関心がなかった層にまで話題がブームとなって一気に広まるパターンである。
文フリは高校の文化祭で同人誌を手作りで製本し机に並べるシーンが何となく原点であるようなイメージがある。プロアマ問わず、商業作家や書店、出版社も参加できる楽市楽座のお祭りのような位置づけにも映る。
今回の賑わいには書店や商業誌やプロ、アマ問わず作家や個人、同人などの勢いが集中して入場料もかかり音楽フェスタのような一大イベント化に傾いている背景がある。手づくりの良さからは離れつつあり東京に集中した現象は日本の政治経済の縮図のようだ。また離合集散が活発で陣地とりが賑やかで新しい勢力図が描かれ始めている。この現象も経済には国境はなく国際為替を見ているようで、関税をかけたりブロック経済を採用したり本社をどの国に置くと税制上どうかなど法制度の抜け道だらけの構図にも投影できる。とにかくもエネルギーが集まっていることには違いない。
隆盛要因の一つはコロナ禍で表現の制約が物理的にも精神的にもあったことへの反動もあるのだろう。社会的な側面もあろうが個人的な内省的な側面も多分に影響している。抑圧からの解放の力が働いている。売れても売れなくても、それは別として言葉で表現して形にする。とにかく形にしたいのだ。この文壇のうねりは表現の世界の中では音楽にも共通してみることがでる。
プロとアマの違いは何か。たしかに収入や生活の糧をすべて音楽や文章に依拠していることが分類基準であるという見方もできる。作品や演奏自体ではどうだろうか。アマチュア演奏家でも抜群の表現力や技量で圧巻する人もいる。大衆に受けるものと芸術性はそれぞれに別のモノサシがあるかもしれない。読む側や聞く側にとってはプロだからアマチュアだからという線引きはしなくても受け手は直感的に判断できる。また歴史の荒波の篩にかかられて生き残ったものもこそ価値があるという見方もできる。
今回の文フリ東京39は、アマチュアによる文壇革命のうねりがプロの作家や出版社や書店また書店員へも何らかの火をつけ「山が動く」ようだという相乗的事象だと感じている。このことは本を売る側が値段をつけるという今まではあまり意識していなかった貨幣価値のモノサシよりも、書きたいという情熱の方がより先行し、書き手にとって値段が付けばうれしいがつかなくても大丈夫という強靭な武器を手にしていることが起爆の要諦で、実は深い意味がここにあってそれが出版の世界ではこの大いなる脅威になっているのだ。
文フリの活況に今朝ふとひらめいたことがある。
貨幣価値は確かに便利で世界経済のまた日々の生活の規律を保持する役割を担っている。本の値段、価値について、本の世界では流通量や在庫管理などどうしても読みきれない部分がある。絶版の本や書店や図書館開架にはない物を探しやすい環境になった。バリューブックスやBOOK Off,amazonの台頭で世の中に出回っている書籍の流通が個人のニーズに直接に時間的な制約もなく入手可能な世の中になった。古書も含めると一物一価とバーターが混在しているようなものである。思わず本当に入手したかったものが配送料程度で届くこともある。こちらの価値と送り手の価値基準のギャップだ。ミスマッチではなく今までにない流通革命やウエブの恩恵だ。全世界のどのマーケットからでも「ポチっ」と手に入れることができるのだ。またデジタル書籍はスマホと連動し限りない可能性を提供している。全世界の図書館や大学など膨大な莫大な知的遺産がウエブを通じて個人につながっている。
文フリはすこぶるアナログ的な催しである。一世一代のお伊勢参りのような感がある。12月1日の午後のみのために準備をして会場に出向いて、前回からは来場者も1,000円の入場料がかかって、また核心の書籍は書き上げて校正して印刷して会場まで運んで、売れなくてまた持って帰って、、、と「シーシュポス神話」のようで、ただしカミュの読み方が似合うような、家内制手工業のようなイベントだ。
家内制手工業と話題にしたが、少なくとも自分自身の感覚では売れたらありがたいが、売れなくても元が取れなくても、まずは参加することに意義がある。労働力にみあった対価は期待していないという構図だ。遥か昔の高校社会の政治経済の授業で「働かざる者食うべからず」「拡大再生産」「利潤の追求」など構造分析のキーワードがあった。今の時代のとくに文フリにちなんであてはめてみると著者が値段や価値を決めるので一物一価ではない。その本や文章に値段があってないような骨董品に値段をつけるような買い手がその対象に価値を決める決定権がある。また賃金という対価がなくても、ないからこそ時間を費やし著書を完成させるエネルギーを投入する。生活するための費用や収入本当は商業作家が理想だか、それは別にに構え確保して路頭には迷わないようにする。
この収入を期待していないところにエネルギーを投入することこそ芸術の基底である。だから文フリの現象は作家にとって出版社にとって、また書店にとっては個人個人の遥か彼方の誰でも持っている原点でもあるのだ。
静かなる文壇革命は表向きには何の華やかさもない普通の市井の人や台所の肌感覚で社会を見渡すのにも似ている。金融商品がでまわって、またAIに仕事を奪われて働きたくても人間らしく働く先がない時代である。幻の高度経済成長期の終身雇用という幻影は姿も形もなく冷え切っている。ヨーロッパでは具体的に検討されている「働かなくても生活費は全国民に支給」は現実的な資本主義の変容で考えなければならないことである。
文フリごとに何かしら編集したり新作を著す契機にしようというワクワク感があるのはなんの力が働いているのか。リオのカーニバルや諏訪の御柱のような細胞に宿る記憶の想起のようだ。
人の顔が見えること。人間らしく生きることへの自然な欲求がこの場に渦巻いているのだ。