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生活雑記🌟法律

なんか堅苦しく始まりましたが身近なところの話題です。

市役所の市民課は住民票や印鑑証明を発行したりと何かとお世話になる窓口ですが、こんな光景を目にしました。夕方閉庁間際に駆け込んできた方が、時間がぎりぎりすぎて間に合わず、取り合ってくれないという場面でした。紳士的に文句を言っていますが、決まりは決まりと受け付けができず窓口の方も少々困惑の表情。

一事が万事「お役所仕事」と揶揄される場面になってしまうか「やんごとなく次に繋ぐか」の境目で、どちらがいいとか悪いとか、ひな形の解決策があるわけではない場面です。

この規則やきまりについて、大なり小なり、大は六法全書から小は友達や家族の決め事まであてはまる事柄で、前々から感じていたことです。

信号機では「青(緑)」「黄」「赤」はルールとして徹底されています。

あなたならどうしますか。

「誰一人いない、人も車もその気配のない草原の道に信号機があって、青から黄そして赤になりました。青になるまで待ちますか。赤だけれど左右の安全を確認して渡りますか」

自分では次の3つの答えを考えました。
1.青になるまで待ってみる
2.自己責任で渡ってしまう
3.信号機を撤去する

どの答えがそれぞれ正しいか、ということを突き詰めることもできます。どれも一長一短という見方もできます。答えがあるようでない。答えのないことが毛嫌いされる昨今ですが。

3の信号機を撤去するという視点は、決まりや規則、ルール、条例、法律、憲法など何をどのような前提で整理したいのか、ということを明確にしないと決め事は成立しないというものの見方の紹介です。

難しく言うと「保護法益」は何か、ということです。誰のための何のための決まりなのかという原点にかえることです。

信号機は通行者や車輛が多いという前提で成立する社会的なルールです。夜間人口が少ない時間帯は点滅で注意を促す信号機もあり配慮があります。

停電で信号機が点灯しない事態の交差点や信号機設置箇所では、車も人もかなり慎重に安全を確認しながら通行します。信号機のルールが求められている場面です。

1の黄色点滅で赤になるけれどどうする、という場面が冒頭の市役所の閉庁間際の来庁者の例でもあります。

3の信号機を撤去する、はいささが強引ですが、そもそも信号機を設置する必要がないところに信号を設置する不都合さ自体にに配慮があったのかどうか。

このような視点でとらえると、5時ぎりぎりに飛び込んできた方の要件がもしも数分で解決できるなら窓口の方の判断で受け付ければいいし、時間がかかれば郵送で送ることや何か対応策を提示するくらいはできるでしょう。

まちがっても怒らせることを狙ったルールではないのです。

またもう一つの意外と根が深い課題について。規則をつくることについてです。社会科の教科書に出てきそうな「三権分立」。

国の権力の「立法権」「行政権」「司法権」が独立し国民の権利や自由を保障するものです。この中でルールや決まりを守る、守らせるということに焦点をあてれば先ほどのような信号機を守るという見方になります。

意外と誰も手を付けてはいけないと感じている部分の「立法」つまりルールや規則をつくる、という発想がなかなか出てこないし、出しづらい、一度決まったことは時代錯誤でも手を入れてはいけないのでは、という考え方をする場面が多いように感じます。自分で決めていいのかと躊躇してしまう。

確かに新たにつくるにも議論を重ねて誰でもが納得したもの、永続して社会生活になじめるものとして俎上に載せなければ机上の空論になる。何でもかんでも我がままに変えていいものではないし規定していいものではない。

誰もがおかしなルールだと思っていたら、誰もが暮らしやすく安心して寄り添える決まり、難しく云えば立法権は誰もが口を挟んでいいし、変更すべきこと手を入れていこうという発想が、日々の暮らしを穏やかにしてくれる知恵の一つでもあるのです。

車は移動手段として必要で、免許制度や車検制度が違っても、年齢が若くても自己責任で運転し修理する。そんな自由闊達がむしろうらやましい。自家用飛行機をあたりまえのように操縦する国の人たちが、すごく生き生きとしてチャレンジングでたくましく見えてしまう。当然にその地のルールはあるのだが。自分の中で自分の基準がなくなっていくと、安心なようで不安がかえって募ってしまう。

自分の目でしっかりとものを見て、自分の頭で判断し行動する。実際に何一つ自分ではできなくても頭の隅にはおいておきたいモノサシでの一つである。