見出し画像

自分を“偽善者“と感じる。

※私はcarat(SEVENTEENのファン)です。自分の言葉のイメージに合う、大好きな推しの写真を使用しています。批判とかじゃないです。推しの存在から感じるものがあるから、表現の一部として、使わせてもらっています。私自身の“推しへの愛“であり、“推しからもらっている愛“です。

久しぶりの投稿です。
みなさん元気に過ごしていましたか?

今日は、最近、感じた私の気持ちを書こうと思う。

仕事が忙しくなって、イライラしてきた時。
ふと、『私って“良い人ぶってる“だろうか』と感じた。

イライラしてきた自分の姿を目の当たりにすると、相談者さんに対してとか、
周りにいる人たちに、“あたたかい言葉“をかけている自分がちょっと気持ち悪く感じて。
そのかけてきた言葉は、“嘘“だったのではなかと思うくらい、自分の腹の中が、“真っ黒“であることを思い知らされて。

そういう自分を感じ始めると、
『まぁいいんですけど』という言葉を使いはじめて。ニコニコと笑顔を張り付ける。

はい、“偽善者“な私ですってなる。

グッと。自分の心の奥底にある“感情“を堪えていることに気がつく。

この奥底にある“感情“を吐き出してしまったら、私はきっと「誰かを傷つける」と思うから。

私はどうして、「誰かを傷つける」と感じるほどの“辛辣な言葉“を抱えているか?

そんなことを考え、苦しんだ2週間。

2週間前の私は、仕事で緊急性が高い問題を抱えていて、その対応に追われていた。
そんな中で、人から“干渉されている“という感覚になり、正直、心の中で、「黙ってくれ」と呟いていた。

かなり“必死“になってた。
ずっと頭フル回転状態。

“必死“で対応したあとの誰かからのアドバイスなんて受け容れる余裕なかった。
むしろ、そのアドバイスで「私が間違っていた」と感じて、自信がなくなる。

マウントを取られるような言葉も実際あった。
相手が何を思って言葉を発しているのかはよくわからん。笑
誰か教えてって感じだけど。笑

私にとっては、数字とかの成果よりも、お話の内容とか、自分がいかに丁寧にできたかのほうが大事だった。

“競い合う“なんてこと、求めてない。

そう思えば思うほど、また“自分が偽善者なのか?“という疑問が生まれる。

そこで自分に投げかける。
「競い合うことなんて、求めていない」という気持ちは嘘なの?

私の答えは、「嘘じゃない」だった。
自分が誰かにかける“言葉“も「嘘じゃない」。
心から伝えたいことであり、私の中では“綺麗事“なんかではない。

私がイライラしていた理由は、
相手に比べられるような言動をされた時、自分が少しでも戦おうとしていたからだと思う。たぶん、“自分を守る必要があった“から。
そして、“自分を守ろうとした自分“が、“本当の自分“との大きなギャップになって、ものすごく苦しかったんだと思う。

相談者さんに、「嫌だって言えるって素敵ですよ」って声をかけてきたけれど。
自分にはその言葉をかけてあげることができていなかったんだと思う。

私の“呪いの呪文“は。
「うまくやるべき」「嫌でも向き合うべき」「嫌だと言わないべき」「不満に思わない自分であるべき」…
自分を制限する“べき“という言葉たち。

私だって、“嫌だ“と思っていいし、“うまくやれない時“があったっていい。
“今は向き合えない“と思うなら、少し先送りにしたっていい。
「べき」という言葉に振り回されて、自分の「今は受け取りたくない」という気持ちを受け容れられていなかったのだと思う。

“人に優しくするため“に、“自分に優しくない自分“だったんだな。

それは違うよねって思った。

嫌な感情を感じたからって、私は“人間としてだめ“ってわけじゃない。

嫌な気持ちを感じて、ちょっとわがまま言いたい自分も自分。
誰かを思う、愛情深い自分も自分。

人にあげたい自分でいないと、自分じゃない気がして苦しいのも事実。
バランスが取れてない。
自分にも“選ぶ権利“はある。

“わがままになりたい自分“を受け容れて、少しずつ育てて。
自分に優しく、親切にして。
“誰かのために“の自分と、“私のために“の自分との間にあるギャップを埋めていこう。

私は“偽善者“なんかじゃない。
我慢して、お腹の中にいる“真っ黒くろすけ“を、認めて、優しく抱きしめてあげよう。
子どもみたいな。すぐに泣いてしまいそうで、幼い自分もあたたかく優しく抱きしめてあげよう。
そうしたら、とっても居心地が悪い“誰かを攻撃して自分を守らなければいけない自分“にならなくて済む。自分のため。“辛辣な言葉“たちも、少しずつ、自分が本当に“伝えたい言葉“に変えていこう。

そうしたら、ちゃんと私は、“自分らしく“いられるよ。
そう信じるし、自分でつくっていく。


みなさんも、こういう気持ちになること、ありませんか?
私は、周りから見たら、“考えすぎる人“であって、よく「そこまで考えなくていい」とか、「考えすぎじゃない?」って言われてきました。

「私だって、考えすぎる自分は好きじゃないよ」と思っていました。

けれど、“考えられる人“が“考えることをやめる“ってことをしてしまうと、“心が死んでしまう“って感じます。
考えちゃう者同士は、考えてしまう者同士で分かり合えたらなって思います。

私は、今日も“小さな幸せ探し“と、“言葉綴り“ができる最幸な1日をつくろうと思います。

みなさんの幸せも祈ってます🕊️✨

最後まで、読んでいただきありがとございました🤗

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?