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35冊目. くもをさがす

 人が死ぬことを意識したときに何を思うのだろうか。
「人生は有限だ」とか「人生は一度きりしかない」など一度は言ったことがあるし、聞いたことがあるセリフなのではないだろうか。しかし、実際それを強く意識して生活している人が私を含めてどれくらいいるのだろうか。いつの間にか生が当たり前になり、生きることという当然を手に入れ、慣れたてしまっている。他者性がなくなり、当然になっていた彼女のように。がんを患ったことは彼女の当然のようにあった当たり前から他者性を再び呼び戻しているように思えた。死を意識することによってのみ生まれる生への渇望。そんな中彼女が書いたノンフィクションエッセイは学ぶものが多かった。

彼女はバンクーバーでの闘病生活になった。言語も満足に通じない中で様々な人と関わり、懸命に生きる彼女はとても美しく見えた。バンクーバーという街は先住民がイギリスから来た白人から土地を奪われ、同化政策の下で多くの犠牲があった暗い過去がある。寄宿学校では母語を話すこと禁止され、文化的活動も禁止された。そして、寄宿学校からは数百の子どもたちの死体が見つかった暗い過去だ。しかし、そんな暗部があったにも関わらず今のバンクーバーは多様性に寛容で、とても優しい街のようだった。彼女ががんを患ったときには、「がん患者の人」という意識で接する様子は全くなかった。いつだって、彼女と医者、彼女と看護師は対等で平等に関わる。その関係が暖かくみえた。医師はがんの闘病中に漢方を使用したいと言った彼女に対して「好きにやればいい」と言う。看護師は闘病中の彼女に「柔術やトレーニングをすることを好きにやればいい」と言う。だって、彼女の体のボスは彼女であるからだと。

そんな寛容で個人の尊厳を重視するバンクーバーから彼女は帰国した。その際、彼女は日本の「狭さ」を感じた。私たちは狭さの中で居場所を作ろうとする。東京に家がある彼女は帰国した際に常に何かに刺激されていた感覚を覚えた。電車に乗ったり、街を歩いたりすると扇動的な広告があり、常に彼女を刺激する。空間的に狭い中でいきている私たち人間や企業はその中で居場所を確保するために必死すぎているように思えた。

この本は、彼女ががんを患いながらも人生とは、私とは何かと言った根本的な問題と対峙した際に感じたことがまとめられていた。多様性を認める背景にあった残酷な過去、それを乗り越え、寛容な社会を築いたカナダという国。あらゆる余白を埋め、狭さを感じる日本。真逆のように感じる2つの国の文化が近い未来、同じような社会を築くかもしれない。

 


文章

死を受け入れることはドラマチックな行為になりうるが、死ぬことは驚くほどありきたりなのだ。私たちが呼吸をしているすぐそばにある。まるっきり無垢な。自然な佇まいでそこにあるものだから、私たちはよく、それを見過ごす。

65p

私たちが恐れているのは「人と違うことをする人間が存在すること」なのではないか

203p

いつの間にか慣れ、馴染み、あっという間にマジョリティの仲間になる。自分の他者性を捨てることで皆と近づき、集団に溶け込むことは息をすることを楽にした。それと同時に、私は当然を手に入れ、普通の中で穏やかに暮らすことを受け入れた。

180p

every child matter (全ての子供の命が大切だ)
9月30日は真実と和解の日として事実をオレンジのテイーシャツを着て子供達に伝える。

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