熊谷美広のプロフィール
こんにちは音楽ライターの熊谷美広です。楽器メーカー社員、音楽雑誌の編集者を経て、1990年4月よりフリーランスの音楽ライターとして活動しています。様々な音楽雑誌、WEBメディア、CDのライナーノーツなどに寄稿させていただいています。“ジャズからアイドルまで”を身上に、ジャズ、ロック、R&B、J-POPなど、どんなジャンル音楽でも幅広くこなし、その知識量の多さは業界内でも知る人ぞ知る存在だといわれています。特にフュージョン・ミュージックについては日本の第一人者といわれています。年間100本を超えるライヴに足を運び、常に音楽の“現場”での情報収集に力を入れています。またJam For Joyというライブ・イベントのプロデュースを25年間やったり、音楽番組の構成なども手がけています。
これまでの活動
●寄稿雑誌/新聞 (廃刊・休刊含む)
ADLIB、Audio Accessory、FM Station、キーボード・マガジン、GIGS、ギター・マガジン、月刊エレクトーン、The Sax、The Trumpet、CDジャーナル、CDでーた、Gb、ジャズライフ、スイングジャーナル、ドラム・マガジン、Bounce、BEA Voice、Player、ベース・マガジン、毎日新聞、Young Guitar、読売新聞、What's In?
●寄稿ウェブサイト
Arban、EMTGミュージック
●著書
*2000年「ディスク・コレクション“フュージョン」(シンコー・ミュージック刊。2013年に大幅改訂版発刊)の監修、執筆。
*2011年「フュージョン・ミュージシャン150人の仕事」(シンコー・ミュージック刊)執筆。
●編集協力/監修
*2004年 スウィングガールズと始めるジャズ入門 (日経BPムック) 編集協力
*2018年 向谷実 / East Meets West 2018 コンサート・パンフレット 編集協力
*2020年 CASIOPEA 40th Anniversary Official Book (ヤマハミュージックエンタテイメント刊) 監修
●CD再リリース・シリーズの監修
ワーナー・ミュージック、ユニバーサル・ミュージック、ソニー・ミュージックなどで、ジャズ/フュージョン系のCD再リリース・シリーズの監修(作品選定、パンフレット作成、ライナーノート執筆)などを手がける。特にワーナー・ミュージックは2014-2015年に200作品の再リリースを手がけ、好評を得た。また様々なジャズのコンピレーション盤の選曲も担当。
●放送関係
*2003-2011年、STAR digioの番組『熊谷美広のFusion Stuff』の構成とパーソナノティを担当。
*2004-2007年、ミュージック・エアの5分間番組「J-POP COLLECTION」の構成とナレーションを担当。
*2010年、NHK FMの番組『今日はフュージョン三昧』の選曲とパーソナリティを担当。
*2012、2013年、NHK FMでの『東京JAZZ』の生放送のゲスト解説を担当。
*2012年、NHK FMの特別番組『日本のフュージョン』(全2回)の選曲とパーソナリティを担当。
*2012-2018年、WOWOWのジャズ番組『オフビート& JAZZ』のアドバイザーを担当。実質的には企画、構成、取材、台本執筆、収録ディレクター補佐などすべての業務を担当し、パーソナリティのピーター・バラカン氏から「ものすごく音楽に詳しい」と感心される。
●講義
*2010-2020年、よみうりカルチャー、北千住、自由が丘、横浜センターなどで「ジャズ入門講座」の講師を担当。
*2018-2020年、セブンアカデミー(世界文化社主催)にて「ジャズ入門講座」の講師を担当。
またブルーノート東京と提携し、ライブ観覧ツアーも企画。
いずれの講座も、コロナ禍により休止中。
●インタビューしたアーティスト (ジャンル別、50音順)
ジャズ
アート・ブレイキー、ウェイン・ショーター、ケニー・G、ジョー・サンプル、ジョージ・ベンソン、ジョン・スコフィールド、ソニー・ロリンズ、ダイアナ・クラール、デヴィッド・サンボーン、チック・コリア、ハービー・ハンコック、パット・メセニー、ブレッカー・ブラザーズ(ランディ・ブレッカー、マイケル・ブレッカー)、ボブ・ジェイムス、マーカス・ミラー、ラリー・カールトン、リー・リトナー、ロバート・グラスパー、ロン・カーター、秋吉敏子、上原ひろみ、小曽根真、CASIOPEA、T-SQUARE、DIMENSION、寺井尚子、挟間美帆、日野皓正、本多俊之、村上“ポンタ”秀一、渡辺香津美、渡辺貞夫 他
J-POP / 歌謡曲
AI、THE ALFEE(高見沢俊彦、坂崎幸之助)、THE YELLOW MONKEY、今井美樹、忌野清志郎、岩崎宏美、EXILE、大貫妙子、GACKT、加藤和彦、角松敏生、加山雄三、吉川晃司、Crystal Kay、クレイジーケンバンド、ケツメイシ、小泉今日子、倖田來未、ゴスペラーズ、米米CLUB、佐野元春、三代目 J SOUL BROTHERS、椎名林檎、湘南乃風、JUJU、SING LIKE TALKING、SUPERCAR、スガシカオ、スピッツ、聖飢魔II、高中正義、竹内まりや、谷村新司、CHARA、DEEN、寺内タケシ、徳永英明、DREAMS COME TRUE、原田知世、平井堅、平原綾香、Hilcrhyme、福山雅治、布袋寅泰、槇原敬之、松山千春、未唯mie、MISIA、三浦大知、森高千里、矢野顕子、八代亜紀、山崎まさよし、山下達郎、渡辺美里 他
洋楽
ギルバート・オサリバン、クリストファー・クロス、ケニー・ロギンズ、スティーヴ・ルカサー、セリーヌ・ディオン、タワー・オブ・パワー、ピーター・セテラ、ポール・ヤング、ボズ・スキャッグス、ボビー・コールドウェル、スウィングアウト・シスター 他
その他ジャンル
上妻宏光、アラン・メンケン、大島ミチル、大野雄二、押尾コータロー、梶浦由記、GONTITI、鷺巣詩郎、ジェイク・シマブクロ、清水靖晃、西村由紀江、葉加瀬太郎、溝口肇、ミッツ・マングローブ、森雪之丞、リリー・フランキー 他
●アルバム・プロデュース (共同プロデュースも含む)
『スウィート・ソウル/ピーター・アースキン』
『アイ・リメンバー・ジャコ/ボブ・ミンツァー』
『ホワッツ・エルス/ミッチェル・フォアマン』(いずれもBMGビクター)
『VALIS/布川俊樹』(日本クラウン)
『ナウズ・ザ・タイム・ワークショップ』(ファンハウス)
●ライヴ・プロデュース
1990年代前半 : ナウズ・ザ・タイム・ワークショップ (@新宿ピットイン)
1996年- Jam For Joy (@南青山MANDALA、渋谷ON AIR EAST)
●コンテスト審査員
2011年より 吉祥寺音楽祭 吉音コンテスト審査員
2016年 : ギブソン・ジャズ・ギター・コンテスト審査員
2018年 : JAZZ AUDITORIA WATERRAS presents 入居者対抗バンドライブ審査員
ほんのちょっとだけ数奇な、熊谷美広の人生
(長いので、要注意)
実家は京都の老舗料亭。でも父親が一代で身上を潰す。
私は1958(昭和33)年8月22日、京都市中京区、木屋町四条を上がった(京都独特の言い回しで、北に行った)ところに生まれました。実家はいわゆる料亭で、1階がカウンターのすし屋で奥が実家、2階と3階がお座敷ですき焼きなどを出していました。屋号は「くず家」。なんか屑屋みたいですが、表がいわゆる「葛屋葺(くずやぶき)」という作りになっていて、けっこう珍しいらしく、テレビの取材を受けたりもしていました。うちの店のお得意様に東映の方々もいらっしゃって、鶴田浩二さんや藤純子さんなどもよく来ていただいていたそうです。ある時、高倉健さんがいらっしゃった時は、店中が大騒ぎだったのを覚えています。
私はそんな京都のど真ん中という環境で育ちました。幼稚園は永観堂幼稚園に入園。自慢ではないのですが、幼稚園で受けた知能テストの成績があまりにも高かったため、母親が幼稚園から呼び出されるという“神童”だったようです(笑)。小学校は、現在は「立誠ガーデン ヒューリック京都」という名前の観光・商業施設になっている立誠小学校。都会の真ん中ですから子供の数も少なく、全校児童が280人程度。私の学年も6年間1クラスで、クラスメイトは37-39人ほどでした。小学校の同級生にはお茶屋さんの息子や、舞妓さんの置屋さんの娘なんかもいて、舞妓さんになった同級生もいます。だから小学校時代は、木屋町や先斗町が遊び場でもありました。地元のお祭りというのが祇園祭で、祇園祭には「お稚児さん」と呼ばれる、山鉾巡行の先頭を務める「長刀鉾」に乗る「神様の代わりに神様となる」子供が毎年1人選ばれるのですが、実は私、その最終選考の2名までに残ったことがあったのです。残念ながら「お稚児さん」には選ばれなかったのですが。
くず家は曽祖父の代に創業したのですが、それを継いだ祖父が「飲む・打つ・買う」の見本みたいな人で、仲居さんには手を出すわ、昼間は近所のパチンコ屋に入り浸ってるわ、という人でした。そんなわけで実質的に店を切り盛りしていたのは祖母で、女手ひとつで店を切り盛りし、まさに祖母の店だったといっていいでしょう。祖母は商才に長けた人で、戦後の混乱期の中で商売を大きくして、一時は京都市内に6カ所ぐらい土地を持ってました。ほんとうだったら、私もそんな祖母の土地を継いで、今では京都の名士になっていたかも知れません(笑)。
その後祖父が隠居して父が店を継いだのですが、この父も「ミニ祖父」みたいな人で、特に博打好きだった。中でも競馬と麻雀。そしてこれまた店を切り盛りしていたのは、母親でした。母は祖母からきつく仕込まれて、店の「若女将」となっていきました。前述の東映さんも母のお得意様でした。しかし父の放蕩に耐えきれず、母は家を出て行きます。私が小学校6年生の時でした。ある日母が私に、それまでのいきさつと離婚することを話してくれたのですが、内容は全く覚えていません。ただ、涙を流して話を聞いていたことだけははっきりと覚えています。幸い祖母が私をすごく可愛がってくれていたので、その後も普段の生活はそれほど困らなかったです。
子供の頃は店のある実家に住んでいたのですが、小学校4年生の時、父、母、姉と私の4人は、西大路五条にある、祖母が持っていた別の家で暮らしはじめました。その理由は、私は知りません。ただ転校するのはいやだったので、西大路五条から立誠小学校に毎日バスで通ってました。父と母は夜遅くまで店をやっているので、私が寝てから帰宅することも多く、私が朝起きてもまだ寝ているし、姉も当時はけっこうやんちゃだったので家にいないことも多く、朝起きてから夜寝るまで家に1人、という日も少なくありませんでした。さらに母が家を去ったため、その傾向はさらに強くなっていきました。残念ながら家族団らんで食事をした記憶というのもほとんどないです。きっと私はこの頃から「ひとりぼっち」に慣れてしまっていたような気がします。
その後私は中学受験をして、同志社中学校に合格。当時は“神童”だったので(笑)、受験勉強などほとんどせずに無事合格。ただし中学に入学すると、周りがそんな“神童”ばかりだったので、勉強する習慣がなかった私の成績はどんどん落ちていきました。ただ同志社の校風は自分にものすごく合っていて、しかも一貫校で大学まで同志社だったので、今考えるとほんとうに進学したのが同志社で良かったと思っています。
母が家を出て行ってから約1年、女将がいなくなった店は立ちゆかなくなり、あっという間に閉店。京都の木屋町四条という一等地は売られ、私たち家族は新町六条という、東本願寺の裏にあった家(これも祖母が持っていた家)に引っ越しました。そしてここからが放蕩父親の本領発揮。詳しくは知らないのですが、そこから2年ほどで、祖母が手に入れた土地を父がすべて食い潰しました。今、冷静に考えればその間父は無職であり、父が遣った金額はおそらく億単位だと思います。放蕩し放題。少なくとも私たち家族は、その恩恵をほとんど受けてはいません。しかし父もさすがにこれはまずいと思ったようで、私が中学3年生の時、残ったお金で、岩倉という京都市左京区、京都盆地を形成している山の向こうにある土地(今では京都のベッドタウンになってます)に軽食もある喫茶店を建てて営業を開始。「樹里」という名前の喫茶店で、そこそこ流行っていました。その後父は再婚。私は新しい母とも、それなりにうまくやってました。父はまだまだ博打はやってましたが、少しはおとなしくなっていたようでした。その後も「樹里」は大きなトラブルもなく順調に続き、私も大学の4年間は店でバイトしてました。厨房でコーヒー淹れたり、焼きめし作ったり、チョコレート・パフェ作ったり。
ただ私は父のことが嫌いで、特に母が出て行ってからは大嫌いになって、大学時代には早く家を出て独り立ちしたいと考えるようになっていきました。なにしろ自分の子供たちのことを「自分の分身だと思ったことはない」とまで言い切るような人です。そこで私は大学卒業を機に、就職して家を出て一人暮らしを始めます。その後も「樹里」は続いていたのですが、そのうちに経営が苦しくなっていったようで、店を売り払い、今度は両親は岩倉に学生マンションを建てて、その家賃収入で暮らすようになります。それで細々と暮らしてくれていたらよかったのですが、ここでまたまた父の借金が発覚。緊急家族会議が開かれ、当時東京にいた私も緊急帰郷。そして私と姉は「この土地を売って借金を返そう。オレたちはもう遺産などいらないから、とりあえずお父さんが死んだ時に借金は残さないでくれ」という話をして、その土地を売って借金を返して、両親は叔母の家に同居することになりました。その後は細々と年金暮らしをしていたのですが、父は認知症になり、最後は息子の私のこともわからなくなり、施設に入ったのですが、ほどなくして亡くなりました。幸い、借金は残っていなかったです。
父の死後に遺品整理をしていたら、大昔の銀行債権のようなものが出てきました。母が「私にはよくわからないから銀行に持って行って調べてもらえる? もしお金になったらあなたにあげるから」と言われたので、銀行に持って行ったら、20万円ほどに換金出来ました。億の金を使い切って、借金まで作った父親が私に残した遺産は20万円でした。
父が亡くなって2年ほど後、生みの母の訃報も届きました。
母方の祖父は、2.26事件の重要人物
さて、私の母方の祖父の話。母の旧姓は「大蔵」。祖父の名前は大蔵栄一といいます。昭和史に詳しい方なら、この名前にピンと来る人もいらっしゃるかも知れません。Wikiにも祖父の項目があります。大蔵栄一は陸軍大尉であり、そして彼は2.26事件で蜂起した青年将校の中核のひとりでした。
2.26事件は昭和11年2月26日に起こりましたが、祖父はその直前、昭和10年12月に朝鮮への異動を命じられたために、実際の蜂起にはかかわっていません。クーデターを実際に起こした青年将校17名は全員銃殺されましたが、祖父は「実行犯」ではないものの、「共犯」として4年間投獄されました。
結果的にクーデターは失敗に終わり、2.26事件以降、青年将校たちの思いとは裏腹に軍部はさらに権力を増大化させて、太平洋戦争へと突き進んで行くことになります。祖父は、クーデターは時期尚早だという意見を持っていたそうです。東京を離れる時にも、仲間たちに「早まるな」と諭していたといいます。だから、もし祖父がそのまま東京に残っていたら、2.26事件は起こっていなかったかも知れない。もしくは、起こったとしても違った結末を迎えていたかも知れない。ということは、日本の歴史が変わっていた可能性が、そして世界の歴史が変わっていた可能性があるということです。
2.26事件は軍事クーデターであり、多くの命が犠牲になりました。だから私は、この事件についての是非をここで語るつもりはありません。しかし日本を変えようとした祖父の血が今も自分の体に流れていることを、私は誇りに思っています。
祖父は私が中学3年生の時に亡くなったので、当時のことなどは詳しく聞いていません。大人になってから、祖父の著書である『最期の青年将校 二・二六事件への挽歌』を読んで、彼の人生と2.26事件の「意味」を知りました。著書に書かれている事件後の仲間たちとの獄中生活、そして17名の処刑前夜と処刑当日の朝の様子などは、いつ読んでも涙が流れてきます。
祖父には孫が10人ほどいましたが、私と姉は住んでいた土地が離れていたため、孫の中ではいちばん接した時間は少ないと思います。私の印象として、祖父はとても厳格な人でした。でも、お前は孫の中で最も気が合うとよく言ってくれていました。2、3度でしたが、夜を徹して語り合ったことは、今もいい想い出として残っています。今となっては、もっともっといろいろなことを聞きたかったと思いますが、それももうかなわない。でも今も彼は、私の背後で、私を見守ってくれています。それを感じます。
祖父たちは「力」で社会を変えようとしましたが、それはかなわなかった。だから孫の私には「力」ではなく「心」で社会を変えてほしいと、祖父が言っているような気がします。音楽をはじめとした「文化」で、少しでも人々の心を豊かにすることに尽力し、みんなが安らかに過ごせる社会を作ることに微力でもいいから貢献することが、私の使命なのだと思っています。
まだまだ、全然足元にも及ばないけど、じいちゃん、オレ、がんばるよ。
祖父は、今も私が、最も尊敬している人物です。
祖父の魂、17人の青年将校の魂、さらに、2.26事件で、そして戦争で命を失ったすべての人々の魂に、祈りを捧げます。
私の音楽遍歴
音楽に関しては子供の頃から好きで、テレビの音楽番組はよく観ていました。記憶の中で初めて好きになった歌は倍賞千恵子さんの「さよならはダンスの後に」。今となってはこの曲のどんなところが好きになったのかはよくわからないのですが、シングル盤を買ってもらって聴いていた記憶があります。調べるとこれは1965年の曲ですから、私が7歳の頃ですね。あとなぜか家に『サウンド・オブ・ミュージック』のサントラのLPがあって、それもよく聴いていたなぁ。「ドレミの歌」とか好きだった。また姉がグループ・サウンドにはまってて、特にテンプターズのファンだったので、その周辺もよく家で聴いてましたね。
中学に入ってから、ラジオの深夜放送を聴き始めるようになり、音楽と本格的に出会います。当時はラジオでかかってた洋楽が好きで、ミシェル・ポルナレフの「シェリーにくちづけ」とか、メラニーの「心の扉を開けよう」なんかが好きだったな。カセット・レコーダーを買ってもらい、ラジオから流れるお気に入りの曲を待って、かかったらその場で録音して、いわゆる「マイ・テープ」を作ってました。そして中学2年生の時、吉田拓郎さんの「結婚しようよ」「旅の宿」が大ヒットし、続いて井上陽水さんの「心もよう」が大ヒットします。これにはまった。そこから拓郎さんや陽水さんを聴きまくり、中学2年生の夏休みに、たしか6,000円だったヤマハのガット・ギターを購入、『Gats』や『ヤングセンス』などといった音楽雑誌を買って、そこに載ってるコード表なんかを見ながら、ただただ家でポロポロとギターの弾き語りの練習をしてました。当時、拓郎さんと陽水さんの曲は、ほとんど弾き語りできるようになっていました。
中学3年生になり、クラスメイトに音楽好きなヤツや、洋楽好きなヤツがいて、彼らの影響で洋楽も聴き始めるようになりました。初めて買った洋楽のレコードは、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングの『4ウェイ・ストリート』。なんかカッコいいなって思った。そこからドドドドドと洋楽にも入っていって、CSN&Yなどのウェスト・コースト系から始まって、ディープ・パープルやレッド・ツェッペリンあたりのブリティッシュ・ハード・ロックも聴くようになっていきました。
高校に進学してから音楽的な嗜好はさらにディープになり、ウェスト・コーストものではイーグルス、ドゥービー・ブラザーズ、ロギンズ&メッシーナあたりから、徐々にシンガー・ソングライターものにも進み、ジャクソン・ブラウンの『レイト・フォー・ザ・スカイ』とジョニ・ミッチェルの『ブルー』にノックアウトされました。またサザン・ロックへも向かい、オールマン・ブラザーズやレイナード・スキナードなども聴き、ブリティッシュ・ロックもウィッシュボーン・アッシュやムーディー・ブルースも好きだったなぁ。ここまで、ビートルズやローリング・ストーンズが出てこないというのもキモですね。そしてそこからディープにはまったのがプログレ。中でもイエスが大好きでした。たぶんプログレを聴いていたことが、後にジャズやフュージョンにのめり込む基礎を作ってくれたような気がします。自分の中では、イエスとウェザー・リポートとは直接繋がっているのです。『危機』を初めて聴いた時の衝撃は忘れられない。実はライターになってから、ビル・ブラフォードに取材する機会があったのですが、インタビューの合間に、“'Close to The Edge' is my favorite album in my teenage days"って話したら、ブラフォードはニッコリ笑って、“You have good experience"って言ってくれました。
当時FM大阪で月-金曜の午後6時から『ビート・オン・プラザ』という番組をやってました。パーソナリティは田中正美さん。この番組、洋楽の新譜アルバムを1枚まるごとオンエアするという、今から考えるととんでもない番組。でもこの番組のおかげで、ほんとうにたくさんの新譜を聴くことができました。この頃に関西で青春時代を過ごした音楽好きは、この番組にすごくお世話になったんじゃないかと思います。「FMレコパル」で何がオンエアされるかをチェックして、聴きたい作品の日はカセットをセットしてエアチェック、という日々を送っておりました。この、事前情報がほとんどない状態で、ラジオで初めて新譜を聴くという体験は、自分にとってとても貴重でした。例えばイエスの『海洋地形学の物語』は2枚組だったから2日連続で、しかもLP片面1曲ずつという作品だから、1曲が20分くらい延々と流れてくるわけです。「なんじゃこりゃ?」でした。ある日、当時ベック・ボガート&アピスが好きだった私は、ジェフ・ベックの新譜がオンエアされるということでワクワクしながら聴き始めたました。すると1曲目を聴いてても、ボーカルが出てこない。「なるほど、1曲目はインストなんだ」と思って聴き進めていっても、待てど暮らせど歌が出てこない。全曲インスト。「なんじゃこりゃ?」というのが『ブロウ・バイ・ブロウ』初体験の感想でした。イーグルスは『オン・ザ・ボーダー』あたりから聴き始め、『呪われた夜』もけっこう好きだったので、新譜がオンエアされるというので期待して聴き始めたら、ラジオからいきなり流れたきたのが「ホテル・カリフォルニア」。この曲を聴いた途端、「いい」「悪い」ではなくて、「売れるな」と思ったことも覚えています。こういう、後に歴史的名盤と呼ばれるようになる作品を、事前情報なんかもほとんどなく、リアルタイムでまず音だけを最初に聴いていくという体験は、無意識に自分の感性を磨いてくれていったような気がしますし、これが後に音楽ライターとしての大きな財産になっていったのかも知れません。
その一方で、当時高石ともやさんが京都のラジオ局の深夜放送のパーソナリティをやってて、その影響で高石ともやとザ・ナターシャーセブンを聴くようになって、そこからブルーグラスも聴くようになりました。ブルーグラス・ギターの練習なんかもしたけど、難しかった。ドク・ワトソンの「ブラック・マウンテン・ラグ」なんて、神です。絶対弾けるわけない(笑)。ナターシャーセブンが中心となっていた“宵々山コンサート"にも毎年行ってました。いい席を確保するために前の晩から徹夜で並んだり。実は宵々山コンサートのライブ・アルバム(たしか2作目だったと思う)に、観客としての私の掛け声も入ってます(笑)。ナターシャーセブン好きの友人たちと集まって、バンドの真似事なんかもやってました。
そして高校3年生の時、当時関西は一大ブルース・ブームで、クラスの同級生にブルース・バンドをやっていたヤツがいて、そのバンド・メンバーとも仲良くなって、ウエスト・ロード・ブルース・バンド、上田正樹とサウス・トゥ・サウス、憂歌団、ウィーピング・ハープ妹尾などのライブにも行くようになりました。これがブラック・ミュージックとの出逢いです。当時、京都の老舗ライブ・ハウス「拾得」で毎週月曜日に「ブレイクダウン」というブルース・バンドが出演してて、よく観に行ってました。関西のブルースマンたちもちょくちょく遊びに来ていて、永井隆、上田正樹、山岸潤史、内田勘太郎、木村充揮なんかが飛び入りしたりして、すごく楽しかったなぁ。ある時「名古屋からすごいヤツが来て、ブレイクダウンに加入したらしい」という噂を聞きつけて、ライブに行ったら、ギターもボーカルもほんとうにすごくて、それが近藤房之助でした。
そして当時は友人のブルース・バンドでサックス吹いていたメンバーの家が溜まり場のようになっていて、そこで彼が聴いていたジャズも聴き始めるようになります。最初は何が何だかわからなかったけど、彼に「ロック・ファンでもわかるようなレコードを5枚貸してくれ」とお願いして借りた中に、チック・コリアの『リターン・トゥ・フォーエヴァー』があって、これ後初めて感動したジャズのアルバムになりました。私は同志社中学、高校、大学と進学したので、大学受験がなかったため、ライブなんかも行き放題で、それも今考えると良かったなって思います。
大学に入って、軽音楽部に入部。ジャズが中心のクラブだったのですが、当時私はステファン・グロスマンみたいなラグタイム・ギターがやりたいと思ってました。でも当時、いわゆるフュージョンが盛り上がってきた頃で、部内でもフュージョン・バンドがいくつかあって、それがカッコ良くて、フュージョンも聴くようになって、ついにエレクトリック・ギター(ヤマハのセミ・アコ)も購入。あと周りの影響でジャズも聴き始め、さらに軽音楽部には「Third Herd Orchestra」という関西でも有数の学生ビッグ・バンドがあり、1年生の時はそのローディとして楽器や譜面を運んだりしていたので、そこでジャズのビッグ・バンドにも触れ、好きになっていきました。京都市内のジャズ喫茶にもよく通ってましたね。大学近くの“52番街”、河原町三条の“Big Boy”、熊野神社の“サンタクロース”、荒神口の“ミッキーハウス”あたり。
ジャズを聴き始めるようになった時の“あるある”なのですが、当時私は“ジャズこそ至高の芸術だ。ポップで売れ線のレベルの低い音楽なんてダメな音楽だ”みたいな思考になっていました。芸術性の高い音楽こそが素晴らしく、コマーシャルな音楽なんてクソだ、と。ところがある時、ほぼ同時期に2枚のアルバムを耳にします。それがスティーヴィー・ワンダーの『キー・オブ・ライフ』とクインシー・ジョーンズの『スタッフ・ライク・ザット』。この2作を聴いた時の衝撃たるや! この2作品は、ものすごくポップでコマーシャルなのにもかかわらず、音楽的にとてつもなく高度なことをやっている。メチャクチャ高品質なんだけど、すごくポップな音楽があるということを初めて知るわけです。“あ、音楽って、楽しくていいんだ”って思いました。そこからは堰を切ったように、ジャンルに関係なく、高品質で楽しい音楽を求めるようになっていきました。後日「ちょっとJAZZ」という連載をジャズライフ誌でスタートするのですが、そのスタートがここだったのかも知れません。そこからは、スティーリー・ダン、マイケル・フランクス、ジノ・ヴァネリ、ボズ・スキャッグスなどを聴いて“カッコいいー!”って感激したり、松田聖子の『Squall』にぶったまげたり、ジョニ・ミッチェルとジャコの共演に驚嘆したりと、どんどんジャンルレスの世界にはまっていきました。大学近くの中古レコード屋を回ったり、当時京都の学生だったら知らない人はいないといわれた輸入盤レコード店“Riverside”に通ったり。
さらに、フュージョンという音楽にもっとはまっていくきっかけもありました。1977年10月、大学1年生だった私は、京都の老舗ライブ・ハウス“拾得”でラリー・カールトン・バンドのライブを観てしまったのです。実はその時カールトンは、クルセイダーズを脱退した直後(もちろんあの「ルーム335」の前)で、なんと五輪真弓のツアーのバックとして来日していたのでありました。でもなぜか“拾得”には、“ラリー・カールトン・バンド”として出演したのです。メンバーはカールトンに、グレッグ・マシソン(key)、マイク・ ポーカロ(b)、ウィリー・オーネラス(ds)。五輪真弓はゲストとして2曲だけ歌い、あとはカールトンが弾きっぱなしというライブ。そして私はそれを、カールトンから2メートルのところで観てしまったのでした。もう、感動なんてもんじゃない。特に「ソー・ファー・ア・ウェイ」のソロには鳥肌が立ってしまいました。そしてその10カ月後の1978年6月、今度は大阪でウェザー・リポートのライブを観てしまったのです。そう、ジャコ・パストリアスの初来日ライブです。この時の完璧な演奏に完全にノックアウトされてしまいました。ジャコもとんでもなくカッコ良かったし。大阪フェスティヴァルホールの、2階席の後のほうだったけど、そんなことはもう全然関係なかった。このコンサートは、いまでも私の生涯のベスト・コンサートのひとつです。そしてこのふたつの強烈な体験こそが、私がフュージョンという音楽にのめりこむきっかけになったような気がします。
そして面白いのは、ジャズを聴くようになってから初めて、ビートルズ、ジミ・ヘンドリックス、ジェイムス・ブラウン、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、B・B・キングなどの“すごさ”がわかったということです。やっぱり音楽というのは、ジャンルを超えたところで繋がっているのですね。そして大学3年生からは、いわゆるフュージョンっぽい歌もののバンドを組みました。クルセイダーズの「ソウル・シャドウズ」とか、あとアル・ジャロウ、ケニー・ロギンズ、SHOGUNの曲なんかもやってましたね。ただしあまりにもギターが下手すぎて、自分には才能がないと悟り、大学卒業後はギターはほんとうに趣味でたまに弾くぐらいになりました。
こんな風に、深夜放送、吉田拓郎から始まってウェザー・リポートまで、ほんとうに節操なく、いろいろな音楽に触れ、いっぱい感動をもらってきました。私の世代が幸運だったのは、ビートルズはリアルタイムでは体験していないけど、それ以降の音楽的革命をすべてリアルタイムで体験出来たということだと思います。パンク、テクノ、ニューウェイブ、ヒップ・ホップなども誕生も、MTVの始まりもすべてリアルタイムだったし、クイーン、ポリス、U2、マドンナ、プリンスなどのデビューも体験しました。前述の『ブロウ・バイ・ブロウ』『ホテル・カリフォルニア』など以外にも、『オフ・ザ・ウォール』『461オーシャン・ブールバード』『グッドバイ・イエロー・ブリック・ロード』『BURN』『フィジカル・グラフィティ』『ブラザーズ・アンド・シスターズ』『ヘヴィ・ウェザー』『ヘヴィ・メタル・ビ・バップ』『ジェントル・ソウツ』『南から来た十字軍』などもすべて“新譜”として聴いたのです。本当に幸せだったと思いますし、それが自分の音楽的感性をどんどん磨いていってくれていたんだなと、今になって思っています。
私が音楽ライターになった経緯
大学の4年間、ほぼ音楽漬けの日々を送っていた私は、将来の展望などほとんど考えていませんでした。ザックリと、音楽に関係する仕事ができたらなぁと考えていたくらいで、就職活動も全くやっていなかったんですね。当時は10月1日が会社訪問解禁日だったのですが、その前から先輩訪問なんかをやって、すでに内定が出ている人もいたのですが、私は馬鹿正直に10月1日から就職活動を始めました。それで大学に来る求人の中から、音楽に関係ありそうな会社、レコード会社、広告代理店、放送局、楽器メーカーなど、とりあえず9社受けたのですが、いずれも不採用。そして10社目に受けたのがローランド(株)でした(しかも追加募集)。するとなぜか合格し、晴れて私はローランドに入社することができました。当時ローランドは大阪の中小企業というイメージで、私の家族も知らないような会社でした。そして面接の時に“働きたい部署はありますか?”と聞かれたので、“具体的な部署はないですけど、とにかく音楽に近い場所で働きたいです”と答えました。ところがいちばん最初に配属されたのが、なんと「経理部」。まぁ、私が商学部を卒業したからなんですけど、いちばん音楽から遠いところに配属されてしまいました。だから入社当時は暗かったですねぇ(笑)。オレは一生、数字の計算をやって終わるんだろうか、なんて落ち込んでました。ただ、とりあえずやれることを一生懸命やろうと思って、例えばそれまでほったらかしになっていたある商品の在庫状況を完璧に照合して、専務に呼び出されて「よくやってくれた」って褒めていただいたり、関連会社の経理のコンピュータ・システムをほぼ一人で構築したりと、それなりにがんばってました。1年間で簿記3級くらいの知識も得たし。ただ音楽の近くで仕事がしたいという願望は少しも治まらず、異動希望をずっと出し続けていたら、入社から1年経った頃に部長に呼び出されて、東京営業所(当時)への転勤が決まりました。
実は学生時代にバンドをやっていたキーボードのヤツが、新卒でジャズライフ誌の編集部に入っており、東京に行った時に彼と再会。すると彼が「クマさん、うちの雑誌で原稿を書いてみない?」って言ってくれました。そりゃ面白そうだと快諾して、一応ローランドの上司に許可をもらって、ジャズライフのCDレビューやライブ・レポートなどをチョコチョコと書き始めました。そこから3年ほどは、サラリーマンをやりながらジャズライフの原稿も書くという生活を送っておりましたが、その間に編集部の人に鍛えていただいて、今のライターとしての基礎ができていったような気がします。何度も「書き直し」って原稿を突っ返されたり。
そしてある朝、会社に向かう満員電車の中で、ふと「今の会社に、自分が求めているものがあるのだろうか?」と思い付いてしまったのです。そう思い付いてしまったら、もう止められない。そこから自分のやりたいことを模索する日々が始まります。するとある日、ジャズライフの編集部員の方が1人退社されて欠員ができたので、編集長から「うちの編集部に来てみないか」というお話しをいただきました。それが「自分が求めているもの」かどうかはわからないですが、少なくとも現状よりは近づけそうだと思い、ローランドを退社して、ジャズライフ編集部があった立東社に入社します。1985年9月のことでした。でも今考えてみると、ローランドで働いていた4年半に、電子楽器やエフェクターなどの基本的な知識を得ることができたのは、今とても役に立っていると思います。当時はまだTR-808が現役だったし、MIDIという規格が登場した頃でした。やっぱりムダなことって、ないんですね。
そこから、ジャズライフの編集部員の生活が始まります。原稿は書いていたとはいえ、編集については全くの素人で、最初はヘマばっかりやってましたけど、だんだんか編集の面白さややり甲斐もわかるようになり、編集作業の傍ら、とにかく現場に出まくって、人に会いまくって、取材しまくって、ライブに行きまくって、と動き回っていくうちに、業界内でも私の顔と名前が知られるようになっていきました。仕事はメチャクチャきつくて、1ヶ月の8割ぐらいが会社への泊まり込みか朝帰り、2ヶ月間休みなし、といった状況が続きましたが、まだ若かったから、なんとか続けていられたのだと思います。本誌と別冊2冊の計3冊を同時に作っていたこともありましたね。
しかし編集部で4年ほど働いた頃、会社内でちょっとした組織変更があり、私にとっては仕事が少しやりづらい環境になってしまいました。そして元々フリー志向のあった私は独立することを決意し、1990年3月末をもって立東社を退社して、フリーランスのライターとしての活動を開始しました。そこからは、いただいた仕事を一生懸命がんばろうという姿勢で、ジャズ/フュージョンのみならず、J-Pop、R&B、洋楽など様々なジャンルのお仕事をさせていただいたり、ライター業以外にも、ラジオやテレビ番組の構成、ライブの企画、カルチャー・スクールの講師など、様々なお仕事をさせていただきました。
フリーランスになってから30年以上が経ちました。私がここまでやってこれたのは、ひとえに私のような者にお仕事をくださったクライアントの皆様、私の取材を快く受けてくださったミュージシャンの皆様、そしてなにより私の原稿をご愛読いただいた読者の皆様のおかげだと、心から感謝しています。ほんとうに、ありがとうございました。そしてこれからも、がんばります。
1996年3月 セッション・ライブ“Jam For Joy”がスタート
フリーランスの音楽ライターを始めて5年ほど経った頃のこと。ミュージシャンや音楽関係者たちと飲んでいるとよく、“何か面白いことやりたいね”という話になります。でも実際にはなかなか実現しないことが多いです。私も“何かやりたい”とは考えるのですが、ライターって、これといってできることがないんですよね。ミュージシャン同士だったら一緒に音楽を作ればいいし、ライブ・スタッフだったらライブを企画すればいいし。じゃあライターとして、何ができるのだろうと考えた時、私は幸運にもジャンルに関係なく、様々なアーティストの取材などをやらせていただいていたので、そういった、普段活動しているフィールドが違っていて出会うことのない人たちを、ひとつのところに集めることができるかも知れないな、とぼんやりと思い始めました。当時日本の音楽シーンは、ジャズ、ロック、ポップス、歌謡曲など、それぞれのジャンルにそれぞれの世界があって、他ジャンルとの交流があまりない、いわゆる“縦割り社会”だったのですね。これが例えばアメリカだと、スティーリー・ダンのようにジャズのプレイヤーを積極的に招いたり、ジョニ・ミッチェル、ポール・サイモン、スティングのようにジャズ系のミュージシャンたちとツアーしたりと、ジャンルを超える、ダイナミックな動きがたくさんあり、それがすごく面白いなと感じていました。そこでジャンルに関係なく、いろいろなフィールドで活躍しているミュージシャンたちを集めてセッション・ライブをやったら面白いかも、と思い付きました。例えばフュージョン系のミュージシャンを集めてセッションするとか、ポップス系のシンガーがジャズ系のミュージシャンたちとやる、といった企画はすでに六本木ピットインあたりでやっていましたから、もっとジャンルの壁を越えたものをやれないかな、と。
当時私が考えたのは、“シンガーとバック・バンド”的な形にはしたくなくて、あくまでもステージに乗っているメンバー全員でひとつの音楽を作り出すような姿勢でやりたいし、ステージで起こるハプニングや化学反応を楽しみたい。さらにそのミュージシャンたちが普段演奏しないようなジャンルの音楽にもチャレンジしてもらいたい。ということで、カヴァー曲を中心にやりたいな、と。誰かのオリジナル曲をやるとなると、誰の曲をやるか、だったらオレの曲もやりたい、などと揉める可能性もあるし、曲によってはライブ用にアレンジし直さないといけない場合もあるし、メンバーに配る音源や譜面を用意するのもたいへんだし、カヴァーだったらそのあたりはクリアできて、みんなで楽しく演奏できるのではないか、と。
そこでまず、当時よく一緒に飲んだりしていた、米米CLUB/BIG HORNS BEEのフラッシュ金子くんや、池田聡くんなんかにも相談して、そういったライブが実現可能かを探り始めます。そして、当時まだ開店直後だった南青山MANDALAのマネージャーを知人から紹介してもらい、“こういうライブがやりたいんですけど、可能でしょうか?”という話を持ちかけたら、“面白そうですから、やりましょう”と言っていただき、さらに現実的なものになっていきました。
さてライブのタイトルはどうしようかと悩んで、いくつか候補を考えたのですが、デューク・エリントンの曲“Jump For Joy”をパクって(笑)、“Jam For Joy”にしました。ビジネスやジャンルよりも、何よりもまず音楽を大切にしたい。ダンスやカラオケだけではない、音楽の楽しさをみんなで分かち合いたい。音楽の“Joy”をハートで感じたい、そんな思いがこのタイトルには込められています。
そして様々な人脈を駆使して出演してくれるメンバーを集めて、1996年3月17日、第1回目の“Jam For Joy”を開催することができました。出演者は16名。ほんとうに試行錯誤で、いたらないところもいっぱいあって、様々なハプニングもありましたが、なんとか無事開催することができて、みんなも“またやろう”って言ってくれました。ここからJam For Joyの歴史がスタートしたのでした。その後は年に3-4回、南青山MANDALAを中心に、渋谷ON AIR EASTでも開催したり、大阪でも2度開催しました。
Jam For Joyを語る上で、近藤ナツコさんというシンガーを抜きには語れません。第1回目の本番1週間ほど前、出演者だった佐藤聖子さんのマネージャーから、“クマさんに紹介したい人がいる”と言われて紹介されたのが近藤ナツコさんでした。当時彼女はまだ大阪で活動していたのですが、受け取ったCDを聴いていいシンガーだなと思いました。それで急遽、Jam For Joyに参加してみないかって声をかけてみたのです。それで彼女は大阪からJam For Joy出演のために上京してきました。実際のライブで聴いた彼女の歌声は周りの雰囲気をとても優しく楽しいものにしてくれて、その明るく素直な人柄も相まって、その後はJam For Joyの“顔”ともいうべき存在になっていきました。そして彼女は拠点を東京に移し、現在までJam For Joyのすべてのライブに出演してくれています。近藤ナツコというシンガーとの出会いは、Jam For Joyにとってもとても大きな出来事だったといえるでしょう。
そしてもう1人、紹介しておきたい人がいます。吉川みきさんです。彼女はシンガー・ソングライターで、当時“B#”というグループで活動していました。彼女はJam For Joyの第1回目に観客として来てくれていたのです。たぶん友だちの誰かが出演していたのだと思います。そしてライブが終わった後に紹介されて、“私も出たいです”と言ってくれました。彼女は歌も素晴らしいし、キーボードも弾けるので、Jam For Joyのようなセッションにはピッタリで、2回目以降はほぼレギュラー・メンバーという感じで出演してくれていました。ところが2000年、彼女は重症筋無力症という病気を発症してしまい、闘病生活が始まり、Jam For Joyへの出演もできなくなってしまいました。しかし彼女は病気に負けず、必死の闘病生活とリハビリに努めて奇跡の復帰を果たします。病気のために声が出にくくなってしまったため、以前のようにノビノビと歌うことはできなくなってしまいましたが、そのぶんピアノに情熱を注いで、他の誰でもない、彼女でしか表現することがない音楽を表現ができるとてつもないピアニストとして、2008年12月にJam For Joyに帰ってきてくれました。彼女のことを知らないリスナーや音楽関係者、ミュージシャンたちから“あのすごいピアニストは何者だ?”という声もたくさん聞きました。その後も彼女は体調と相談しながらJam For Joyに出演し続けてくれましたが、彼女の温かな人柄と音楽に対する真摯な姿勢は、出演者たちにも大きな感動と影響を与えてくれました。しかしさらなる不幸が彼女を襲い、2012年の夏に「T細胞大顆粒リンパ球性白血病」を発症。“私の体力が持つ限り、Jam For Joyには出たい”と言ってくれていたみきさんですが、2015年9月の「Vol.65」への出演が最後となり、2016年2月29日に旅立たれました。彼女の出演回数は全17回。吉川みきさんが私たちに残してくれた音楽への情熱と人に対する愛情を、残された私たちが継承し続けていくことも、Jam For Joyの大きな役割だと感じています。
そうして始まったJam For Joyですが、第3回目くらいから、普通のセッション・ライブでは絶対にやらないような曲も、やってみるとけっこう楽しい、ということに気付き始めます。取っかかりはナックの「マイ・シャローナ」だったのですが、これが受けた。そこから“ちょっとやるのが恥ずかしいような曲も、やってみると実は楽しいし、お客さんも喜んでくれる”ということがわかってきます。ジャーニーの「セパレイト・ウェイズ」とか、ロッド・ステュワートの「アイム・セクシー」とか、ASIAの「ドント・クライ」とか。あと歌謡曲も完璧にカヴァーすると楽しい、ということもわかってきます。そこからJam For Joyは、出演者が歌って演奏して楽しい曲だけではなくて、お客さんが楽しい、エンターテインメント性も重視した内容にとシフトしていくようになります。しかし出演者たちは“他のライブでは絶対にやらないような曲をやるのが勉強になって楽しい”と言ってくれて、その後25年間続けていくことができました。そしていつしか私のライフワークのようなライブになってしまっていました。全く儲かりませんが(笑)。
ここ数年は私の病気療養とコロナ禍もあって2年ほどお休みしてしまいましたが、2021年末に復活して、この原稿執筆時で全78回、25年間続けることができました。出演者は400名を越え、その後ブレイクした人もいます。
当日リハ一発、ギャラは交通費程度という、こんなおバカで酔狂なセッション・ライブを25年間も続けてこられたのは、過酷な条件にもかかわらず素晴らしい歌や演奏を聴かせてくれた出演者の皆さん、粉骨砕身してサポートしてくださったスタッフの皆さん、このライブに理解を示してくださった会場の皆さん、そして何よりライブにお越しいただいた観客の皆さんのおかげだと心から感謝しています。ほんとうにありがとうございます。
2020年2月、癌が見つかった、という話
2020年2月、そもそもは「便秘」から始まりました。これまでの人生で便秘になったことなど一度たりともなかったのに、丸々3日間お通じがなくて、お腹が張って気分が悪いし、食欲もない。こりゃ何か変だと感じて、朝一番で近くのM医院へ。そこでレントゲンを撮ったりした後、医院が「今すぐ病院で精密検査を受けてください。どこか、かかりつけの病院はありますか?」と聞かれて、糖尿病の指導を受けていたK病院の名前を挙げたら、先生がその場でK病院に電話してくれて「今から行かせます」。「ハァ?」という感じだったのですが、紹介状を持って、そのままタクシーに乗ってK病院へ。病院に着いたのが正午前ぐらいだったかな。そこから半日がかりで検査を受けて、夕方に出た診断の結果は「腸閉塞」。大腸が何らかの原因で詰まっているらしいです。そして「今晩、手術します」。「エッ? このまま入院、手術ですか?」「そうです」「いや、着の身着のままで来たので、着替えもないし、タオルや歯ブラシもないし、一度自宅にそういったものを取りに帰れませんか?」「ダメです」ということで、有無を言わさず緊急手術が決定。午後9時に手術が始まって、終わったのが12時頃。緊急手術はたいへんだったけど、遅い時間に私のために手術をしてくださった先生と病院には感謝です。術後に話を聞くと、なんと約2リットル近くも腸にウンチが溜まっていたそうで、先生も「いやぁ、がんばりました」とおっしゃってました。手術は無事に成功して、一旦「ストーマ」(人工肛門)をお腹に作って、腸が詰まっている状態を回避。
しかし問題は、なぜ腸が詰まったのか、ということ。そこで入院中に大腸の内視鏡検査を受けたところ、腫瘍が見つかりました(ついでに、ポリープも2コ取ってもらいました)。診断の結果は「大腸(S状結腸)癌」。S状結腸というのは、大腸と直腸を繋いでいる腸ですね。その時はまだステージが確定していませんでしたが、その後「ステージ2」と診断されました。幸い、他の臓器への転移はない模様で、手術によって癌部分を切除すれば根治の可能性は高い、とのことです。
2週間の入院期間中、巷はコロナが蔓延し始めた頃で、なんと入院中の面会は禁止になっていました。つまり緊急入院にもかかわらず、たった1人で入院生活を送らねばならず、さらに誰かにお願いして着替え等の差し入れを持ってきてもらうこともできない。これは辛かった。必要なものは、すべて病院内のコンピにで買いそろえました。スマホの充電アダプターなんかも、ちゃんと売っているのですね。しかも病室にはWi-Fiもないので、スマホで動画などを見ることもそんなにできない。ひたすらベッドでじっとしているのみ、です。ただ、私のリハビリを担当してくれていた理学療法士が若い女性で、ちょっと可愛くて(笑)、リハビリしながらお話しするのが入院中の数少ない楽しみのひとつでありました。
そして「パウチ」と呼ばれる、ストーマ(人工肛門)から排出される便を溜める袋の付け方や注意事項をレクチャーしてもらって、2週間ほどで退院。結局約10ヶ月間このストーマ生活を送ることになるのですが、これもけっこうたいへんでした。パウチを貼った隙間からウンチが漏れ出したり、外出時はいつもパウチの状態が心配だったり、臭いが気になったり。10ヶ月間でもこれだけたいへんだったのだから、恒常的にストーマ生活を送っていらっしゃる方は本当にたいへんだと思います。
そして3月末、今度は癌の摘出手術を受けるために2度目の入院。2度目なので、もう準備はバッチリ。レンタルWi-Fiも入手して、iPadも持ち込んで、動画三昧のスタンス。さらにハンガーやら、マイバッグ(病院内のコンビニで買い物をするため)やら、必要と思うものを総動員して、スーツケースをコロコロと転がして病院へ。あと知人からもらったモンダミンのミニ・ボトルが入院中に大活躍。これから入院される方は、マウスウォッシュのミニ・ボトルを持って行かれることをおすすめします。
手術は腹腔鏡手術でS状結腸を約20センチ切除。手術直後は「HCU」(高度治療室)という特別な病室に入るのですが、手術翌日から、内臓などを安定させるために歩くことが奨励されるのですね。「できるだけ歩くようにしてください」と言われて、傷口がズキズキ痛み、体もヘロヘロなのに、点滴のスタンドを引きずりつつ、エッチラ、オッチラ、トボトボと病室内を歩く。そうしたら看護師や病院のスタッフの皆さんが、笑顔で拍手してくれたりして、これはこれで嬉しい。こういった医療従事者の皆さんの細やかな心遣い、ほんとうに頭が下がる思いでした。HCUの看護師さんの中に、前回も私の担当をしてくださった方がいて、私のiPhoneの待ち受け画像(地球の写真)を見て、その看護師さんも「あ、私もおんなじ待ち受けです」という話をされていたのを覚えてて、「前回、待ち受け画像のお話しをした方ですよね」「はい、そうです、そうです」って会話してたら、翌日別の看護師さんが「○○さん、熊谷さんが自分のことを覚えててくれた」って喜んでましたよ、と教えてくれました。
その後2日ほどで一般病室に戻り、その後の経過も問題なく、淡々と入院生活が続き、「鬼滅の刃」のアニメ「立志編」全26話を一気見。理学療法士は今度は別の方で、やや年配の女性でありました。
入院中のちょっとレアなエピソードをひとつ。入院時はコロナで世間が大騒ぎになりつつあった頃で、入院中に志村けんさんが亡くなり、ちょうど退院の1日前に初めて都内に緊急事態が発令されました。私が入っていたのは4人部屋だったのですが、ある日2人が退院されて、病室には私ともう1人の2人だけになりました。そのもう1人の患者さんはご高齢の男性だったのですが、ゲホゲホと咳き込んでおられて、え、コロナじゃないよな、ちょっとまずい雰囲気だなぁ、などと感じておりました。すると隣のベッドから“ドスン"という、なにやら転んだような音。たぶんトイレに行こうとして転んだのかな? そこで「大丈夫ですか?」と声をかけてみたら、ゲホゲホと咳き込みながら「ウゥー」と唸ってる。こりゃまずいと思ってナースコールで「なんか、隣の人がトラブってるみたいです」と伝えると、看護師さんやら先生やらがやってきて、大騒ぎ。やっぱりコロナの疑いがあるみたいで「とりあえず、個室に移っていただきます」と言って、その患者さんは別の個室に移されていきました。そして看護師さんが私のところに来て、「ご連絡ありがとうございます。隣の方は個室に移っていただいたのですが、念のためマスクをしておいていただけますか?」とマスクを渡されました。わ、オレは濃厚接触者になったのか、と複雑な気持ち。結局その日は、4人部屋に私1人という個室状態になったのですが、そのあとトイレに行こうと思ってベッドを離れたら、普段は開きっぱなしになっているはずの病室の扉が、ピシッと閉められている。「わ、オレ、隔離されてる!」。というまさかの状況でありました。結局翌日看護師さんから「お隣の患者さんは普通の肺炎でした。なのでもうマスクも外していただいても問題ありません」との報告があり、ホッと一安心。なかなか貴重な体験でありました。
そんなバタバタがありつつも、2週間ほどで退院。切除した癌細胞の検査の結果「ステージ2」が確定しました。ちょうど退院の前日に都内に緊急事態宣言が初めて出たのですが、入院前と街の景色が変わってて、まさに浦島太郎状態。それに入院に向けて冷蔵庫も空っぽにして出てきたので、食料の備蓄もなく、さぁ困った。結局病院のコンビニでその日分の食料を買って、タクシーで帰り、翌日にスーパーに行ってなんとか食糧を確保しました。
そしてここから抗癌剤治療が開始。ステージ2なので、抗癌剤は飲み薬だということで、看護師さんから飲み方のレクチャーを受けました。8時間おきに1日3回服用。これを4週間続けて飲んで、1週間お休みというのが1クール。それを5クール続けて、計25週間、約半年間のプログラムです。薬を飲む前後1時間ずつの計2時間は何も食べないこと、という決まりもあります。ある時、薬を飲んだ30分後ぐらいにコーヒーだったら大丈夫だろうと思って飲んでみたら、ものすごく気分が悪くなって大変でした。レクチャー時にいただいた記録ノートに、毎日、飲んだことのチェックと、副作用のあるなしなどを書いて、毎月看護師さんにチェックしていただく、という夏休みのドリルみたいな感覚。しかしこの8時間おきで、前後2時間食事がNGというのが意外と厄介で、私は7時、15時、23時にスマホのアラームを設定して、飲み忘れや時間のずれがないようにしていました。ある時電車の中で突然アラームが鳴り出してアタフタ、なんてこともありました。そして飲み薬とはいえ、抗癌剤には副作用があります。看護師さんのレクチャーでも、いろいろな副作用の説明があったのですが、私の場合、常に胃がもたれている、背中が痒い、口内炎ができる、下痢する、爪が黒くなる、などの副作用がありました。それほど重いものではなかったのですが、それでもそれが半年間続くというのは、ちょっとヘビーな体験だったかな。しかも抗癌祭を飲んでいる間は免疫機能が落ちるので、コロナに罹ったら即アウトということで、ほぼ家に引きこもってました。週に1-2度スーパーに行く以外は、全くといっていいほど外出はしませんでした。それも辛かった。さらにその半年間はストーマがあったので、パウチと便の管理もしないといけないので、そちらもけっこう厄介だったな。
そして半年間の抗癌剤治療が終了し、11月にストーマ閉鎖手術のために3度目の入院。もうすっかり入院と手術には慣れっこです。顔見知りになった看護師さんから「お帰りー!」って言われたりして(笑)。手術は無事成功したのですが、ストーマがあったので肉がえぐれた状態になっていて、縫合できないらしく、陰圧閉鎖療法という療法をするとのこと。傷口にフィルムのようなものを貼って、そこに管が通ってて、空気を吸って気圧を下げると傷の治りが早いんだそう。なので入院中はほぼお腹から管が繋がってて、機械がグウグウと空気を吸ってる状態。着け始めた初日の夜に、管が詰まって機械が止まったりもしましたが、それ以降は問題なく、傷の治りも早かったようで10日ほどで退院。この退院時、おそらくここ20年ぐらいでいちばん痩せてました(笑)。
ここから3か月ごとに経過観察をして、5年間転移や再発がなければ、寛解ということになります。
3度目の手術でストーマを卒業したので、10ヶ月間お世話になったストーマのケア・グッズの使い道がなくなってしまいました。捨ててもいいんですけど、そこそこいいお値段だし、捨てるのはもったいないなぁと思って、私がストーマを作った時にとても親身になっていろいろと相談に乗ってくださった看護師のFさんに相談して、病院で、私のように初めてストーマを作った人などへのケア用に使っていただけるということで、寄付しました。やっぱりストーマって最初はすごく不安だし、少しでもそういう方のお役に立てると嬉しいな。
3回の入院、手術で感じたのは、日本の医療体制の素晴らしさと医療従事者の方たちの献身的な姿でした。ほんとうに皆さん親身になって手当、看護をしてくださいましたし、医療の進歩も素晴らしいなと感じました。もちろん病気の状態や医療機関の違いによって、そのあたりは変わってくるのかも知れませんが、少なくとも私にはとても心強い存在でした。
癌という病気を経験して、私の場合は落ち込んだり、悲観したり、焦ったりすることもなく、意外と淡々としているというか、粛々と自分の身に起こったことを受け入れる、といった感じでした。まぁ、なるようにしかならないよなぁ、と。しかし、実際に付き合ってみるとかなり厄介というか、いろいろと、すごく面倒くさい。地味なストレスが、幾重にも折り重なってきて、徐々に蓄積されていくような、そんな感覚ですね。
なので皆さんも、定期的な癌検診をおすすめします。私の場合、たまたま腸が詰まったおかげで早期発見できて、これだけのリスクと負担ですみましたが、あと半年発見が遅かったらどうなっていたかわかりません。ホント、明日はわが身ですぞ。
そして今も自分が生きていること、生かされたことの意味を考えつつ、今後も生きていきたいと思いますし、そのために尽力してくださった病院の先生、看護師の方々、スタッフの方々、そしてご心配いただき、温かい言葉をかけてくださった知人、友人のみなさんに心より感謝いたします。