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【創作】とろんと来たら、麦とろろまぐろ丼
テレビで見た催眠術師はインチキだと思うことが多いが、この催眠術だけは本物だと思っている。あんまり有名ではない催眠術の一つに光をチカチカさせるものがある。術師は体験者の目の前に、光を点滅させながら、まじないを唱えるのだ。
一度もそんなまじないにはかかったことがないが、いままさにぼくは催眠にかかろうとしていた。
「ちょっと。大丈夫?」
うつろうつろするぼくのブレーキは少し遅れて踏まれ、前の車に追突しかける。
「ああ、ごめん。ぼーっとしてた」
「牧くんて、渋滞するとすぐに眠くなるよね」
「なんでなんだろうね。ブレーキランプのチカチカ見てると眠くなるんだ」
「テレビの催眠術ってほんとにあったんだねえ」
「あの光のやつ? それとこれは別だと思うんだけどな」
前方のブレーキランプのタイミングに合わせてアクセルとブレーキを交互に踏む。昨日はしっかり熟睡したのに、なぜ眠気がやってくるのか。これはもはや催眠としか思えなかった。それかぼくの睡眠欲が無限であるかだ。
「でもほんとに眠そうだし、前の車に突っ込んだら怖いから休憩しようよ」
「休憩って言ってもねえ」
もう海老名を過ぎたので、あとちょっとの辛抱なのだ。ぼくはできる限りこの道を進んでいきたかった。熱海に向かう東名高速道路下り線は小田原を過ぎれば、道が解消してくるのだ。
「あなたはだんだん、とろろが食べたくな〜る。とろろが食べたくな〜る」
「なに、なになに」
「いやほら、催眠術にかかってるなら、これもいけるかなって」
「そんなの簡単には……簡単には」
そのときぼくの腹がぐうと情けない返事をした。
「あれ、身体のほうは正直なようだよ?」
彼女がにやりと笑う。
「薄い本に出てくるスケベなオッサンみたいなこと言わないでよ。今朝早くて朝ごはん抜いちゃったし、その……まあ、ちょっとさ、」
これ以上は説明するほど苦しいと思って提案に乗ることにした。
「とろろ丼とか良いよね」
「ほら、やっばり! それにちょっとどころじゃないじゃない。目がとろろになってるよ」
「そんなことはないでしょ!」
「とりあえず美味しいとろろ調べておくね」
ぼくはそんなの良いよと言いながら、脳内ではすでに麦とろろがふわふわの白ごはんの上で踊り始めていた。彼女の催眠術が本当に効いたのだろうか。
ブレーキランプの点滅に眠気をこらえつつ、オダアツ(小田原厚木道路)にさしかかったあたりで、彼女がスマホを見ながら
「はい、ここを左ね」
と言うのでその通りにハンドルを切ると東名高速から外れた。
「あれっ」
あまりにも自然に高速道路を外れてしまったので、ぼくは間抜けな声を出した。
「それでこのまま湯河原方面ね」
「ちょっとちょっと、なんでオダアツに入ってるんだよ」
「わからない、でもやっぱ私の催眠術が効いてるんじゃない?」
「ほんとかな、うーん、でも湯河原か。遠いけどこうなった以上は仕方ないよね」
ナビの指示を無視して、出口を降りた。しかし何か景色がおかしい。
「これ、どこ?」
首をひねる。
「え? 湯河原じゃないの?」
「いや、これ……ただの工事現場じゃん!」
目の前には「通行止め」の看板がデカデカと立っていた。どうやってここまで来たのかと異分子を見つけた工事の現場監督がこちらに近づいてきた。
「ここ、手前で通行止めって書いてあったでしょ。それとも関係者?」
「ぼくらとろろ関係者です!」
眠気マックスのぼくは起きたまま寝言を唱えた。
「は?」
「あっ、いやだから、その」
「とろろ丼を食べに行く途中でナビに従ってたら、こっちに来ちゃったんです」
彼女がすかさずフォローしてくれた。
「関係ないじゃないですか!」
警備員は呆れながら来た道を引き返すため誘導してくれる。
「はい、この山道抜ければ湯河原だから」
僕らは礼を言って山道を進むと彼女が叫んだ。
「鹿?!」
「嘘だろ、またかよ」
目の前に現れた鹿が道の真ん中で寝そべっている。寝たいのはこっちも同じだ。
「ねえ、どうする? クラクション鳴らす?」
「いや、怒らせるかもしれない」
「でも、このままじゃ。いや、あれなら」
と彼女がお気に入りのバッグから何かを取り出して投げた。
「なに投げたの」
「柿ピー」
「そんなのあったの! ぼくが食べたいんだけど!」
「いや、これは緊急用なの! そしていまは緊急事態」
「ぼくの空腹も緊急だと思うんだけど」
ぼくの静止を無視して、彼女は柿ピーを山の谷側に投げ込む。それにつられて鹿が谷を降り、道が開いた。ぼくも山を降りたい。
「あの、柿ピーの残りは」
「もうないよ」
悲しみのとろろを目から流しかけて、ようやく湯河原の街が見えてきた。
「あ、あれ!」
彼女が声を弾ませると「麦とろ童子」の看板がご来光した。
それから無我夢中でかきこんだのは覚えているが、それがどんな味だったかは覚えていない。きっと催眠術の中にいたのだろう。