ブルーノ・フェイドゥッティ『テストプレイとプロトタイプ』

“最初期のテストプレイのねらいは  
机上でうまくいきそうに思えたあるアイディアが  
現実に胸躍らせるようなゲームになりうるか否かを見極めることにある”

『あやつり人形』『マスカレイド』などで知られるゲームデザイナー、ブルーノ・フェイドゥッティ氏によるテストプレイ論『テストプレイとプロトタイプ』の全訳をお届けします。

プロトタイプの段階からつい意匠に凝ってしまう人(私だ)、完成版に向けてテストプレイは続けているものの近頃どうも停滞感に悩まされているという人(私!)の胸のうちを晴らす論説です。

翻訳元はこちらで公開されている、ウェブマガジン「The Games Jounral」誌所収の記事です。転載を許諾してくださったグレッグ・アレクネクヴィス氏とブルーノ・フェイドゥッティ氏にこの場を借りてお礼申し上げます。なお当記事は英語版からの重訳になります。

以下、本文です。

テストプレイとプロトタイプ

意欲的なデザイナーから作品の最初のバージョンを見せられた際、物作りに対する注力の度合いに驚いてしまうことが多い。イラストも手がける制作者だとそう珍しくない。イラストがないときでさえ、プレイ用のコマやカード、ボードの造りは丁寧で、そのあたりの市販ゲームより上等なくらいである。それに比べて私のプロトタイプはプロの手によるものとは到底思われないだろう。絵は(あるとすれば)精々ちょっとのクリップアート、工作はのりとハサミで、角も丸められていない。ならばほかの著名な作者のプロトタイプを目にしたことはあるだろうか。保証しよう、もっと質素な人だっている。

小説におけるあらすじと同様、ゲームにおけるプロトタイプには本来完全版もなければ決定版もないものだ。出版社に渡すバージョンであっても大抵は同じことが言える。プロトタイプというのは鉛筆・ハサミの一差しや少数のポーン、数枚のカード、数個の容れ物によって速やかに修正できるものでなくてはいけない。ゲームが少々長いことにあなたなりテストプレイヤーなりが気づいたら? もしくはプレゼンの最中に編集者からどこかしら削れないかと言われたら? 少しの容れ物をX-Press(訳注:Quark 社のDTPソフト QuarkXPress のこと)製の文書の上から取り去るのでよければ、手塗りの豪華なボードを作り直すのよりずっと楽だろう。この上オーク無垢材に刻んだ代物については言うまい。それにも増して大事なのは、テストプレイヤーの受ける感覚である。いま触ってもらっているものは意見・提案を歓迎する試作品であって、査定を求めるに足る完成品とは別物というわけだ。そうである以上、プロトタイプに必要なのは実用的かつ明解で判読性の高いことであって、見栄えのよさは不要なのだ。

最初期のテストプレイのねらいは、机上でうまくいきそうに思えたあるアイディアが現実に胸躍らせるようなゲームになりうるか否かを見極めることにある。この第一の議題に対し確信をもって首肯できるようになったら、ありうる最高のゲームに向けて必要な調整を行おう。したがいその場にプレイの一般原則についてのぼんやりとした考えを抱えてゆくのはよくないやり方だ。より望ましいのは、迷わずに説明できる正確なルール(ただし私の場合。私はいつも書き下している)とテストに出せる全ての要素を準備してゆくことだ。これはゲーム中に起こるあれこれの修正をやりづらくするものではない。問題に気づいたときにはもうゲームの半ばだったときでも、またその結果今のままでは機能しないと判明してゲームをまるごと停止することになったときでさえそうだ。集まった皆は問題を残しておいてくれてありがとうと言って、浮いた時間であなたの棚に控えるドイツゲームやアメリカゲームの良作を遊び尽くそうとするだろう。最初期のテストプレイは形式と無縁だ。変更可能なルールの改善点を話し合うためにゲームを止めたり、途中で放棄したり、やり直したり、インスピレーションの助けにビールやウィスキーを振る舞うのも悪くない。そんなわけで、こうした最初期のテストプレイの相手として私が勧めるのはまず友人たち、それも我らがゲームの小世界(訳注:同好のものだけが集まって形成される独特の場を指す)について理解のある人々、それに自分以外でゲームをあるべき姿に近づけるような批評と提案のできるゲームデザイナーなのだ。こうしてできるゲームには共作の産物と言うべきものもある。この時期のテストプレイというのは往々にして結局は効果的というより誘惑的でしかなかったアイディアを断念するだけに終わる。だが時々はゲームの最終形で行うような種類のテストに——少しずつであれ——進んでゆく。

あるときリビングを出てキッチンに飛び込むようになれば、テストはすっかり分量とスパイスに関する議題に様変わりする。——ここに少しばかり脅しか緊迫感を加えてみようか。あそこから少し計算と記憶を外してやろうか。おっと戦術の塩味を増幅するチャンスのひとつまみも忘れずに——といずれも独特の風味が加わる一方で、どのプレイヤーにも固有の味覚がある。私の味覚は最小のルールで最大の緊張感を出すことをその極みとする。ならば新たなルールを足すより先に吟味をすべきだ。それはテーマに対する忠実さ、メカニクスの有効性という点において真に新しい何かをもたらすものなのか。既存のルールの改変なりで同じことが実現できないか。その上で別のルールをなくせはしないか。この経済原則は間違いなくドイツゲームらしさの本質でありながら、新米デザイナーが見過ごしてしまいがちな事柄ゆえに、つい余計なルールが増えていってしまう。そんなとき私はたいてい最後の数回のテストを使って、以前のバージョンで加えられた、もはや大して役に立っていないのに残っているルールを抹殺するようにしている。

最後の数回のテストを目隠しで行うこと、つまりテストプレイヤーたちだけにルールとコマの管理をさせることが名案であると一部の高名なデザイナーが信じているという記事をしばしば目にする。とある有名作家らは、プレイ後にコメントと評点つきの試遊報告書を送ってくれるテストプレイヤー団体にゲームを委託することまでしているという。こうした手法は綿密さにおいて優れているが、私の進め方とは異なる。私は内側に居続けることを優先し、すべてのテストプレイに参加するようにしている。その方がゲームの修正が必要な際に介入しやすいからだ。

それでもやはり強調しておきたい。あまりにも多くの作家が(出版社までも)ひどい見過ごしをしている。それはゲームのみを自分たちだけでテストし、きちんと印刷したルールをテストしてこなかったことだ。真に思慮深き旧世代のゲーマーを除くと、明確で完全なルールを書くことを少しでも学んだことがある人はいない。若人たちにはテストプレイヤーの一組に混ざってルールをテストすることを勧める。介入はなし。そして記憶違い、曖昧さ、矛盾を一掃するのだ。

事例『ダイヤモンド』

『ダイヤモンド』(訳注:原題は“Diamant”)を売り込んだのは、ドイツの大手出版社が保有するニュルンベルクにある社屋の大広間だった。前述の理由からテストは合衆国にいるアラン・ムーンとその友人たち、フランスにいる私とその友人たちの両方で行った。最初のバージョンでは獲得した財宝が均等割りしきれない場合、余りは単にゲーム外へ除くようにしていた。しかしテストプレイヤーたちはこれを奇妙かつ物語との一貫性に欠けるものと考えた——金とダイヤが消滅するとは! 彼らは余りをその場に残して最初の帰還者に拾わせる案を示した。この小さくて単純なルールは瞬く間にゲームに新たな次元をもたらした。今や脱出の理由が二つになった。恐怖と強欲である。そしてプレイヤーたちの間で嘲ったり罵ったりする機会が生まれた。同じ頃アメリカではゲームが少々粗雑だと感じたテストプレイヤーたちがいくつかのアクションカードを提案していた。危険から身を守る【武器】、行き先が見えるようになる【たいまつ】、使い道が記憶にない【ロープ】。我々はテストプレイを行い、このバリアントのせいでプレイヤーの状況の差異が大きくなりすぎて緊張感を削がれて以来、これを棄却することにした。最初のプロトタイプには一から十七までの値を持つ十七枚の財宝カードがあった。アラン・ムーンがこの数値を調整して素数ばかりにすることを思いついた。それは最初に脱出する衝動を強めるはたらきをした。このゲームにおける最優秀テストプレイヤーの座はフリードマン・フリーゼのものだ。危険カードを引くことでラウンドが終わるという彼の案によって、プレイヤーは後のラウンドほど多くのリスクがある状況に追いやられ、ゲームの進行とともに緊張感が増してゆくようになった。二つの投票トークン(前進か脱出か)を持つことの無意味さを指摘したのもこの緑髪の男だった。一つあれば十分なのだ(握った手の中にあるかないか)。だが彼のほかに誰もそんなことを考えなかった。そのわずかな一押しとトークン八個の削減が出版社を説得するのに一役買ったのは疑いようがない。

——ブルーノ・フェイドゥッティ
(フランス語からの翻訳はフランク・ブランハム)

(初出『Des Jeux Sur un Plateau 』マガジン)

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