真に繋がりたいのは
オーストラリアの16歳未満SNS規制のニュースを見て、以前からだけど漠然と思っていた事を改めて考えてみた。
子供達が真に心で繋がりたい、理解し合いたいと思っているのは大人等の異なる世代なのだろうか。
彼らが本当に心を通わせたいのは、同じ世代の何なら姿形を知り隣に居る実物の他者なんじゃないのだろうか。
そしてそれは子供だけじゃない様な気がする。
人間は基本的に他者との同調に幸福を覚えるものだと思う。
ではその同調の中身は何なのかと言うと、きっと「体感レベルで同じか似たような経験をした」と言う点だと思う。
人間は絶えず規模の大小を問わずコミュニティを形成しそしてその概念を絶やす事無く今日までやって来た。
それほどまでに、他者と同調し歩調を合わせられる事の幸福レベルは大きいのだと思う。
お祭り(音楽ライブ等も含む)の高揚感などもその一つだと思える。
SNSなどは確かにそう言った同世代の動向をリアルタイムで知れる事が出来る。その意味での有用性に間違いは無い。
ただし「その情報に虚飾や虚偽が無ければ」の話だ。
自らを大きく華々しく見せる為に「盛られた」情報であれば、それはただの即効であり同時に遅効性の猛毒となるだろう。
何故って、それを見れば瞬間は憧れが湧き、それはやがて嫉妬に変わり、それはさらに「そこに至れぬ自身の不遇不幸不甲斐なさ」にまで到達可能となるはず。
自身とは何の関係も無い他者の動向によって、自身の人生が大きく揺らぐなんて、それは外側から脳内に毒を盛られる事と変わりないと比喩してそう大きな間違いは無い解釈だと思う。
情報を得るにも自由はあるしその権利もある。
でも自由と言うのは使いこなせる器量のある人間だけに許された特権中の特権でもあるのだ。
その器量が無い人間が自由の渦に放り込まれても、ただ渦の中心に向かってグルグルと巻き込まれるだけでそして中心に達すればあとは沈んで二度と浮上してこられなくなる。
ではその器量とは何なのか。それは「自分とは・人間とは不自由な存在であり、現実に在る事実とは自分にとって不都合なものが大半なのだ」と真に理解出来ており、その上で自分は何をしたいのか・何が出来るのかを自身に問える人が持つ心意気の様なものだと思う。
自分に都合の良い情報ばかりを取得したがる人には、自由は絶対に使いこなせない。
子供の時期に覚えるべきは「自分の内外は不都合だらけ」と言う事実だと思う。
そしてだからこそ、そうやって困難の内に生きる者同士が出会った時に生まれる同調と連帯感にこそ、強く深い繋がりが生まれるのだと思う。
子供の頃から多くを過剰に与えられた人間には、身勝手な放埓の精神しか宿れない。
不都合だらけの困難な毎日だからこそ、自由と言う闇の中にある微かな灯り火に向かって必死に手を伸ばせる・伸ばそうと強く想えるのだ。